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2007年06月03日

先史文明:地母神信仰って? ~地中海マルタ島の神殿より~

縄文と同じ遺伝子を感じる先史文明、その鍵となるのは地母神と言われるものではないかと思う。この地母神像は世界各地から発掘され、判明しているだけで3万年前ぐらいから連綿と続き、2000~3000年前、古代(私権)文明の成立とともに忽然と姿を消していくからです。
よく○○ビーナス像という地母神像を見たことがあるかとおもいますが、あれです。縄文も長野県から縄文ヴィーナスが出土している。
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          マルタ島のビィーナス像(BC3600年~2500年ころ?)
地母神って何?どんな信仰だった?
それを考える上でも、遺跡の状態がよく残っている地中海のマルタ島の神殿から紹介したいと思います。
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マルタ島の神殿         神殿の平面図「人類と建築の歴史」より
最初この神殿?の平面図を見て、なんだこれは・・・・と思った?およそいままで見たことも想像したこともないプランをしている。子宮のようなイメージ。ちなみにこの平面図の全幅40mくらい。
この神殿の用途については、藤森照信さんの「人類と建築の歴史」に詳しく書いてあった。

まず近づくと、大きな岩が山のように積み上げられている光景に驚く。かってはちゃんとした形に積み上げられていたものが、今は崩れているのだが、それでも正面には切り出した重さ20トンもあるような巨石が壁として積まれ、壁の一部には、高さ7mもの大石が立て込まれている。
・・・・そこから、入ると正面には通路が奥に伸び、左右にほぼ対象形に部屋が並ぶ。                                                              
問題は、なぜこの二つの似たような部屋がきまって向き合うのか、正面の棚には何をおいたのか、作りの密閉性からして、王の墓でもあったことは容易に推察されるが、その先ははっきりしない。
                                                             ある神殿の入って左の部屋の入り口は1枚岩にあけた茶室のにじり口のような作りになっているが、そこから入り込んだ部屋からヴィーナス像が発掘されたことを知り私は、謎が解けたように思った。すでに述べたようにヴィーナス像は旧石器時代に始まる地母神像で、生命活動を、生と死を司っていた。一番重要な働きとしては出産の守り神であり、出産時には安産を祈って母の間近に置かれた。                                                           ヴィーナス像の存在からこの部屋が出産のための産室として使われていたことが分かる。 

 藤森さんの言う“茶室のにじり口のような作り”を示す写真があった。右下は別の?神殿の平面図ですが、少し複雑になってます。
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 神殿内部と思われる写真         別の神殿?の平面図
この巨大な神殿は全て産屋なのか?続けて藤森さんの解説です。

・・・・・とすると、産屋の向かいの部屋は何なのか。もぐり込むような作りになっていないし、ガランとした印象をうける。おそらく、こっちは、出産と対比的に死にかかわる部屋だったのではないか?
アミニズムは、熊なら熊、木なら木には、その実体(人の場合は肉体)とは別にもう一つの存在としての精霊が宿り、実体と精霊の二つが一つになって生きていると理解する。
妊娠・出産とは、肉体に魂が宿る過程であり、死とは肉体から魂が抜ける過程ということになる。
・・・・古代の人々は、妊娠・出産に十月十日の過程が必要なように、死にも同じくらいの月日が必要と考えた。しかるべき月日が経たないと、肉体から魂がちゃんと抜けないと考えたのである。具体的には、死んだ後、血肉がおちて白骨になるまでが魂の抜ける過程とした。
この期間のことを喪中という。・・・この過程がすみやかに進まなければどうなるか。死者は、“化けてでる”のである。現在の日本では、ふつうは喪中は1年間で、昭和天皇の場合も1年間が喪中となった。
                                                             死の過程の最後の段階に、これは沖縄の習慣によって分かるのだが、洗骨が行われる。骨をきれいに洗い浄めることで、魂はスッキリと抜けでる。それから遺骨を墓に運び入れて安置する。これで死者は無事死ぬことができた。                                      ここまで述べれば、マルタのヴィーナスの部屋の向かいの部屋と、通路の突き当たりの棚の用途も分かるだろう。向かいの部屋が喪屋であり、棚には洗骨された遺骨が安置される。通路に円型の水盤の残る例があり、出産の時の産湯用とも洗骨用ともあるいは両用とも考えられる。昔の人々が生と死を完全に対称と考えていたことを思うと、両用が正しいかもしれない。

 この巨大な神殿は、なんと産屋と喪屋だった!産屋と喪屋を巨大な石で作っていたのだ。先史文明の人々の生と死への想いはすごい。この技術力もすごい。
そして地母神とは生と死を司っていたらしいこと、人類の極限時代から続く精霊信仰と密接な関わりがあるらしいこと。
                                                              それにしてもなぜ、こんな巨大な石造建築物を作る必要があったのか?しかも地中海の小さな島に。・・・という疑問はのこる・・・・。マルタ島には他にも地下神殿など不思議なものが多い。 
 この神殿が作られた時代は、BC3600年~2500年ころと考えられている。ヨーロッパでは、すでに西アジア方面から掠奪闘争が波及していたと思われる。そんなヨーロッパを逃れ、地中海の孤島へと避難してきた人々なのではないだろうか?
 そして日本の土偶や、縄文ヴィーナスとの関係は?、日本の与那国島などの巨石遺跡との関連は?
・・・もう少し探ってみたいと思います。
※新しいカテゴリ“先史文明・巨石文明の痕跡”を追加しました。
(by Hiroshi)

投稿者 ihiro : 2007年06月03日 List  

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