2007年6月18日
2007年06月18日
古代中国における父系制への転換と宗教
こんばんはetoです。
前回の投稿では、道教が古代中国の母系氏族社会を源流とした自然宗教であることを紹介しました。リンク
今回は、母系から父系に転換し、国家の成立とともに宗教がどのように関わっていったのか、前回同様に仙学研究舎さんより紹介しながらまとめてみました。
少し長くなりますが、お付き合いを。
●道教の定義とは?
>道教は中国の古代の母系氏族社会で自然発生した原始宗教である。
その変化の過程で、巫術禁忌、鬼神祭祀、民俗信仰、神話伝説やさまざまな方技術数を取り入れ、道家黄老の学を旗印と理論的な柱とし、儒家・墨家・陰陽家・神仙家・医家などの諸学派の修練理論・倫理観念・宗教信仰なども取り入れた。
人々を救い、長生し仙人に成り、さらに道と一つになることを総合的な目標に掲げ、神学・方術なども含む雑多な宗教体系である。それは漢の時代に特定の歴史的条件のもとで絶えず仏教の宗教形態を取り入れ、次第に発展し中国の伝統的民衆文化の特色を備えた宗教となった。
様々な要素を取り入れて統合しているわけですが、それ故に道教はまるで得体の知れない物であると言われています。
要するに、
・道教の源流が母系氏族社会で自然発生した原始宗教であること
・漢の時代に黄老の学が神学化・方術化したこと
・中国の儒家・道家・仏教およびそのほかのさまざまな文化要素を取り入れたこと
・その目標は人々を救い、長生し仙人になり、道と合し神に通ずること
●母系から父系への転換
>仰韶文化の時代がちょうど母系氏族社会の最盛期に当たる。当時は洪水の多い時期だった。
それぞれの部族が治水事業を行っていく中で次第に文明が発達し、父権が重んじられるようになった。
>禹の時に洪水は克服され、夏王朝がはじまる。これ以後、中国は次第に父権家長制の階級社会へ移行し、原始宗教は次々と変革されていった。
>殷、周の時代には、父権の原始宗教の代名詞ともいえる宗法礼教が確立され、ついに男尊女卑の新しい伝統によって統治されるようになった。これが儒家の文化の始まりである。周代には世卿世禄制度が施行され、学問は官のものとなり、官と師が一つになった。
>春秋戦国時代になると、封建地主経済が周代の宗法領主経済に取って代わり、世卿世禄制度は衰えた。階級関係(君、卿、大夫、士、庶民、奴隷)も変化し、貴族と庶民の間に介していた「士」の階層が急速に拡大した。また伝統文化の担い手も、もとの封建的な身分から解放された。士の階層は自由に流動できる四民(士・農・工・商)の首位となり、社会的な理想・文化素養・社会的責任感をはっきり認識していた。厳密に言うと、中国の古代の知識階級はここに至って出現したのである。
>しかし、母系氏族の原始宗教の伝統は民間に隠れたり外の部族へ流入し、途絶えることはなかった。中国が儒家の父権家長制によって統治されるようになってからも、道教では女仙を賛美し女性成仙が語られた。道教の中には、原始宗教の女性崇拝が残されているのである。
つまり、
・父系転換→父権家長制の階級社会→儒家の台頭
・しかし道教は民衆のなかで途絶えることはなかった
●父系転換により、なぜ原始宗教が変革されたのか?
>秦・漢の時代、中国は一つの封建帝国に統一されていた。皇帝は家長制の独裁政権を強化するために、鬼神迷信を利用して民衆の思想をコントロールする必要があった。中国社会の低層の農民・漁民・きこりなどの労働者は文字が読めないような状態だったので、彼らに《論語》、《礼記》、《孝経》などの儒家の著作を見せても理解できなかった。彼らが謀叛を手助けしないようにするためには、宗教によって教化するしかなかった。
>漢代の皇帝は、このような政治的な必要性からまず周代の伝統だった宗法礼教を復興することに力を注いだ。続いて神をでっちあげ、儒家を宗教化していった。御前会議を開いて儒家の宗教化をあおりたて、《白虎通》を国家の教科書として欽定し、「三綱五常」を神聖化した。また、孔子を教主として奉じ廟を建てて祭った。「忠孝」を官吏を選抜する尺度とし、全国で家長制を推し進めた。
>秦の始皇帝や漢の武帝は封禅を行い仙道を求めて古い宗教の精神を復活させ、漢代の政治・学術は宗教という濃い霧に覆われた。東漢の時代には讖緯神学が儒家の正統派となり、儒家と伝統的な宗法礼教との結び付きはどんどん緊密になった。古代の宗教の亡霊は完全に儒教に取り付いたのである。
つまり、
・封建帝国を統一し、人民を統治していく為には宗教が必要であった
・父権家長制を強化するために儒家を宗教化した
まだまだ続きますよ。
ひと息いれて、応援よろしくです。
投稿者 nishipa : 2007年06月18日 Tweet