新説「日本史」第2回 徐福ネットワーク時代 |
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2016年07月14日
新説「日本史」第3回~葛城・物部時代
呉越、徐福、いずれも大陸で戦争圧力を受け日本に逃げ延びたボートピープルです。
2世紀に日本に辿り着いた高句麗人は、明確な意図を持っており朝鮮半島支配の延長に日本を捉えていました。ただ、半島での戦争に兵力を割かれていた為、日本は支配の対象ではなくあくまで拠点づくり、既に鉄を産出していた出雲を押さえる事で鉄資源を補給していました。出雲から東に50キロ離れた青谷上寺地で本格的な戦争の跡があり、出雲には明確にこの時期に高句麗が建てた遺跡があります。後に武士勢力に繋がる高句麗の日本進出はこうやって始まりますが、既に日本各地に縄張りを広げていた徐福ネットワークは強者高句麗を恐れ、対抗する為の拠点を大和に作り全国から結集していきます。それが後の大和朝廷-飛鳥王朝につながっていくのです。
「大和朝廷」ともう一つの勢力、高句麗勢力が作った「関東日本国」がこの時代拮抗していました。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
150年に高句麗から使者が渡来し、出雲に拠点を作ると危機を覚えた葛城率いる徐福ネットワークの長が大和に集結。大和、飛鳥に豪族たちの部族連合国家を立ち上げる。物部は伽耶から少し前に渡来した鉄の商人であるが、葛城と手を組み出雲の拠点を取り返す。葛城が大和を、物部が出雲、吉備を押さえ九州を除く西日本をコントロールするようになる。同時期、高句麗勢は出雲から尾張、長野、関東にその拠点を移して(広げて)いく。
それぞれの拡大の戦略は古墳、神社を基盤としたが、特に葛城ネットワークの特徴は神社を各地につくり、時々の渡来人の拠り所として機能した。
この時代に東の高句麗系、西の葛城系とその後の日本を東西に2分する勢力の基礎が確立する。また、特筆すべきは400年ごろに秦氏が新羅から伽耶を経由して日本に10000人の技術者を連れて渡来している。万里の長城にも従事した彼らの土木技術が、500年以降に登場する大古墳時代に繋がる。
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
※今回も関連するるいネット投稿を紹介しながら、この時代を文章と写真で紹介していきます。
高句麗は、中国東北地方南部の山岳地帯におきた騎馬民族である。この地域に最初に勢力を拡げた民族は、夫余であった。伝説では高句麗王は夫余族の末裔で紀元前37年に国を興したことになっている。高句麗はいくつかの部族の連合政権であった。
~高句麗の歴史(高句麗は日本にどのように入り込んできたか?)
出雲に登場した高句麗の拠点
↑出雲に登場した四隅突出墓(高句麗に同様の形態がある)
2世紀後半に鉄を求めて高句麗から出雲に渡来人集団が定着。古墳様式が登場しその後の古墳時代が始まる。出雲に居た既存集団は戦争圧力で押し出され、大和に拠点を求める。それが大和に登場した大国主信仰であり、出雲からの神譲りの理由である。
~出雲は古来からの渡来人の拠点になっていた。
徐福ネットワークは大和に結集
各地で縄文人と融合した徐福集団は徐々に勢力を拡大していき、またそれとは別に朝鮮半島からの渡来人らも受容れられ、伊豆、九州、紀伊、瀬戸内、美濃、北陸、高知などに融合部族の拠点をつくっていきました。
それが、葛城氏、蘇我氏、平群氏、大伴氏、巨勢氏、紀氏、物部氏など、古代有力豪族たちであり、同族意識を有した豪族だったのです。
彼らはお互いに闘争せずに共存することを目指しました。縄文人の受容れ体質、融合による発展、つまり「闘争支配より共認共存」の融合路線で争いを避けながら、共存を図っていったのです。
古代の有力豪族は互いに勢力争いをしていたのではなく、ネットワークで結ばれて互いに情報を共有しながら共存を目的として連帯していたと見る事ができます。
~「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~2.徐福と縄文の出会い
秦氏の渡来
↑秦氏率いる伏見稲荷神社の鳥居
秦氏は技術に優れるとともに、八幡神社、稲荷神社、日吉神社、松尾大社、愛宕神社といった多くの神社の創建にも関わったとされている。秦氏が使えていた弓月氏は中央アジアの弓月国の王の末裔だとされるが、弓月国は、シルクロードの北方ルート上に属しており、絹ビジネスで栄えた国で世界に散ったユダヤ人がシンジケートをつくっていたとされる。神道とユダヤ教のつながりはいろいろと取りざたされるが、秦氏が日本に技術と同時に宗教と、商業ネットワークのシステムを持ち込んだのかもしれない。
~葛城は徐福の末裔であり、秦氏もその一党であった。
秦氏は400年頃に新羅から伽耶(加羅)経由で1万人の技術者集団をまとめ、日本に入ってきたチベット系の末裔となる。
また、その信仰にはユダヤ系が入っており、さらなる出自はユダヤ人である可能性もある。
渡来時から既に最大勢力のまとまりを持っており、その後の日本史の中で「財力と労働力を提供して政治を動かしている隠然たる実力者」「黒幕的存在」となっていった。秦氏は黒幕たる所以は日本史の中では表舞台に登場せず、従って日本書紀にも日本史にも全く登場しない。
蘇我氏や藤原氏、平安遷都、室町時代の南北朝、明治維新、日本の支配者が移り変わる過渡期には背後で秦一族が動いていた可能性が高い。
~秦氏は日本史を見る上で重要な位置にある。
投稿者 tanog : 2016年07月14日 TweetList
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コメント
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2016年7月16日 00:38
では、日本古来の定住縄文人は、大陸系、半島系の渡来種族とどのように関わったのか・・・文字文化を持っていたはずの古代の渡来種族は、なぜ文字による記録を四世紀から五世紀にかけて残していなかったのか?
それが疑問に思いますが、先生はどうお考えですか?お教えください・・。