2016年7月21日

2016年07月21日

新説「日本史」第4回~葛城・高句麗時代(大古墳時代とは何か)

m282.gif第4回は4世紀から5世紀に登場した大古墳時代を扱います。
古墳は日本古代史の中でも最大の謎といわれ、誰が何の目的であのような巨大古墳を築造したのか学会でも諸説が溢れています。最も中心的な説が渡来人が土着人を支配する上で巨大古墳を作る事で権威を示したとする支配拠点作り競争、強制労働説。
しかし、先日の実現塾で展開された古墳築造の根拠は支配でも競争でもなく、単純に水田開墾の土木事業で古墳は開墾の残土であったという説です。実はこの説は昔の日本では結構知られていた説で近年の歴史学者が「そんな簡単なはずはない」として様々な屁理屈をつけて歴史を曲げていたというのが実態のようです。従って古墳の中をいくら探しても財宝はおろか埋葬された古代人の墓は出てこないのです。(一部残土でできあがった古墳の上に象徴として部族の首長を祀った場所、墓もありますが、あくまで後付です)
一方、水田の大規模な開墾、残土を計画的に積み上げた古墳はいずれも高度な土木技術を要します。この古墳時代に大量に渡来し、活躍したのが秦氏であることも古墳築造が爆発的に行われた事と符合します。秦氏は秦の時代に万里の長城に携わった技術者集団で新羅にその拠点がありましたが、半島内での高句麗の新羅進出が強まる中、伽耶に拠点を移し、葛城が率いて日本に大移住をした一派でした。

今回はいかに教科書的な認識が事実と異なり、それが私たちの歴史認識を狂わしているか、顕著な事象としてもこの古墳のテーマを扱っておきます。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半

■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間

■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
朝鮮半島ではこの時代、高句麗が広開土王の元、最大勢力を誇り450年ごろには高句麗の高官が日本を新たな支配拠点とすべく渡来した。葛城は大陸の情勢を見て、高句麗と手を組む選択をする。同時に盟友であった物部は没落していく。
500年代は大古墳時代となり、河内、吉備に大型前方後円墳が誕生するが、古墳は広域の開墾、ため池施設の造成に伴って築造された可能性が高い。532年金官伽耶が消滅し渡来した伽耶人達を、秦氏率いる開墾部隊が組織し、秦氏はこの時代に国内で力を付けていく。秦氏も葛城同様の手法を取り、神社(八幡、稲荷)を各地に作ることで渡来人と土着縄文人を組織化していき、500年代に巨大ネットワークを構築する。八幡、稲荷神社は現在でも全国の神社の中で最大勢力を占めている。(一説には9割がたが秦勢力)

■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間

m282.gif教科書の認識)教科書 Finderより
古墳が権力者によって盛んに造られていた3世紀半ばから7世紀におよぶこの時代を古墳時代といいます。
機械のなかった時代に古墳を造るのは当然人力です。
つまり大きな古墳を造ることで、それだけの労働力を支配できるという権威を誇示出来るのです。

m282.gifそれに対して最近のるいネットでは以下のように展開されています。
「日本の古墳は権力の象徴ではなく、開墾の残土の盛り土であった。」は戦前の常識であった。
豪族たちが自分の墓を作るために民衆を使役して盛土したのではなくて、その豪族さんを中心に、みんなで努力して新田を開墾し、結果として残土処理のための小高い丘(盛土)ができたから、そこにあとから中心者となってくれた豪族さんをお祀りしたのです。
そこにあるのは、「あの人のおかげで、こうして広い土地ができ、田んぼができ、お米がたくさんとれるようになって、みんなが腹いっぱい飯が食えるようになった」という感謝です。  

古墳築造はなんのため?
3世紀~6世紀頃のおびただしい数の古墳築造の理由として、権威の誇示や戦争回避のための古墳築造競争などの説がある。しかし、これらは現実の集団統合という視点を欠いた観念論だと感じる。
まず、集団統合のためには、その統合者と民が暮らしていける生産力の確保が必要で、開墾はその実現のための課題であった。そして何十年もの間、普段の生産を行いながら、その開墾を続けるだけの、集団としての肯定的な課題共認が成立していなければ、この大事業は実現しない

輝ける古墳造成時代
要するに「空白の四世紀」とは、全国的に開墾、灌漑が盛んに行なわれ、米の収量が飛躍的に伸びた時期である。やはり「大和時代」の呼称のほうが良いだろう。七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ
多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。

m282.gifまた、ネットで検索してみるとこんな動画サイトもありました。
古墳時代という嘘
maxresdefault

m282.gif実際古墳が位置する周囲には水田が隣接します。
松山市北梅本町にある葉佐池古墳は、1992年(平成4年)6月24日、開墾中の当時の地権者により、発見された前方後円墳です。
名称は、墳丘の東すそにあるため池「葉佐池」にちなんで命名されました。
こちらより借用しました。
2

m282.gif古墳築造と秦氏の分布した範囲は以下のように重なります。
秦氏が水田開墾にも古墳にも深く関与していた事が伺えます。
秦氏もまた徐福同様に渡来人として迎え入れられ、日本の中に深く根を張っていったのです。
>秦氏は、日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる。その分布は32カ国・81郡に及んだという。
こちらより借用しました。
o045002851346122531120150707113434ad0

投稿者 tanog : 2016年07月21日  



 
Secured By miniOrange