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2018年09月13日

縄文体質とは何か? 第2回 集団性(仲間意識)が作る強さ、柔軟性

先日の実現塾で人類にとって集団であるのは何の為かという事が語られた。
集団として課題に取り組む為であり、生存していく為である。そういう意味で学校集団は個人課題であり、生存していく為に必要なものではない。ゆえに擬似闘争としてのイジメやテストという個人間闘争が発生し、集団は歪んでいく。

第2回は日本人(=縄文人)の集団性(仲間意識)について書いてみたい。
縄文人は間違いなく生きていくため、課題に取り組む為に集団が存続した。
10人から50人で集団を形成し、最大500人、地域ネットワークまで考えるともっと大きな集団に統合されていた可能性もある。生産を祝い、課題共認を図る「祭り」は縄文時代に登場した日本人の集団体質の根本にあると言えるだろう。諏訪の御柱祭、青森のねぶたはそれらの源流を継いでいる。

またもう一方で集団間は近接する事で同類闘争圧力が働く。西洋ではそこから戦争を勃発させ文明という名の私権社会を築いて来た。しかし、日本には長い縄文時代に戦争の痕跡はなく、その後の日本社会においても西洋ほどの皆殺しの戦争はない。これは縄文時代に遡って同類圧力を止揚する為の仕組みである「贈与」のシステムが有効に働いていたからであると見ることもできる。

さらに日本人の集団の特徴として強力なリーダーは不在であるという事。実際にはどの集団にもリーダーはいて、指導者は存在するが、その集団の成員がある課題の元にフラットに集まり全員が役割を共有している。そういう意味では誰もがリーダーであり誰もが成員であるという集団における万能細胞という言葉が相応しい。時にスポーツなどの場合この万能細胞として適材適所で能力以上の活躍をして成果を出す事が称えられ、個人競技より団体競技において日本人の優位性が語られる場合はこの能力が他国に比べて特化しているからでもある。

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過去のるいネット、縄文ブログから記事を拾ってみた。

m282.gif縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!

御柱祭に見える縄文的要素
御柱祭の現場に立つと考古学的には見ることのできない要素がたくさんあることに気づく。まず、見事といっていいほど畜力や機械力が排除されていて、すべて人力。大木を縄で曳き、テコで持ち上げ、時にはコロをかます。微力である人の力は、集中されなければ有効な力とならない。そのため、技術や工夫のほかにも合図や励ましのかけ声や言葉が加えられ、リーダーの下に集合の力を統合させるシステムができあがっている。
そしてオンベ。これは曳き手を鼓舞するためにふりたてるもので、長い材の先にたくさんの長いテープ状の布や繊維を房状にまとめてある。これらは杉やヒノキのような真っ直ぐな木の薄皮でもつくられるし、草の長い茎からもつくることができるだろう。…(中略)…
もう一つは「木遣り唄」で、御柱の運行をとりまく音環境のなかでひときわ目立つ。唄は曳行の節目で歌われる。短く三音階ぐらいの平板なメロディを、非常に高い声で歌うものでそれをきっかけにヨイショ、ヨイショと曳き手の力が集結され、柱が動き始めるのである。

集団のリーダーが統率しながら、皆が役割を担い、息を合わせて巨木を運ぶ。人は一人一人の力は微力だ。しかし、集団の皆が力を合わせれば、成し遂げられる。この充足感=集団の充足感はとてつもない成功体験となって、集団を統合していくだろう。共同体=人々の共認をフルに生かした祭りへと発展していったのだ。

m282.gif「贈与」に何を学ぶべきか!~2、縄文人の集団間の関係は?
原始社会での物々交換は、現代人が考えるような、等価値の物品同士の単純な交換ではなく、命がけで入手した交易品には万感の思いが込められていたはずです。それには言わば、贈与者のマナ(霊的な力)が込められている。俗に言えば「心のこもった贈り物」ということになり、当然功利的な打算など優先されることもない。」
こうした交易のあり方の系統を継ぐ縄文期においても、私権的な要素が価値軸となることはなかったはずです。しだいに「階層」らしきものが生まれ始める中期・後期の大集落でさえ、排他的、即自的な性格を帯びることなく、おおらかな共同意識、連帯意識をもって交流し合い、利害も調整し合うことができた。だからこそ、物資や情報を運ぶネットワークをあれほど広く張り巡らすことができたのです。
「こんなおいしいものが採れましたからぜひ食べてください」「それはありがたい。我々は、こんな便利な道具を作ったので使ってみてください。」 このような単純な会話に象徴されるオープンで受容的な雰囲気が、縄文社会の精神風景に流れる通奏低音だったと想像するのもユートピア論になってしまうのでしょうか? しかしながら、利害ではなく信認関係に基づくネットワークの構築、と言えば、これから我々が目指す社会のあり方と見事に重なってくるように思われる。

m282.gif縄文時代の地域の真髄はネットワークだった

贈与~黒曜石に始まり、水晶、土器、塩、貴重なものがいくつもの集団を渡って長距離に流れた。縄文時代のネットワークの根底に互いの集団間の緊張圧力、戦争圧力を緩和する贈与というシステムがある。その集団にとって最も貴重なものを贈り合うというのが贈与の始まりだが、それが集団間の技術を高め、曳いては縄文時代の高い土器技術の創造に繋がった。
贈与は集団間の緊張圧力を緩和したが同時に集団間(同類間)の切磋琢磨の追求競争を作り出した。

縄文情報ネットワーク~縄文人のネットワークは単に隣町、隣地域に留まらず、200kmも300kmも離れた遠隔地まで届いている。また、福井県の鳥浜の事例では遠く中国大陸まで物資や人が移動しており、交通技術のない時代としては破格の長距離交易が行われていた事が特徴的である。
これは日本が四方を海で囲まれており、沿岸部を通じて舟で移動する、安全な海の交通網を持っていた事と、半分程度いたと思われる漁労民の存在がそれを可能としていた。
そして情報を求める動きは現代人も古代人も同じで、集団の安全、安心を確保する為に外部情報は貴重で価値あるものだった。ましては古代には新聞も守ってくれる警察もいない。自らの集団は自らで守らなければ生きていけなかった。インターネットを使って誰でもいつでも知りたい情報が手に入る現代とは情報の価値が全く違っていたのだ。

m282.gif寄り合いという合議制は徹底的なすり合わせ
「私はこの寄り合いの情景が眼の底にしみついた。この寄り合い方式は近頃始まったものではない。村の申し合わせ記帳の古いものは二百年近い前のものもある。それはのこっているものだけだけどもそれ以前から寄り合いはあったはずである。70をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。
ただ、違うところは昔は腹がへったら家にたべにかえるのではなく、家から誰かが弁当を持ってきたものだそうで、それを食べて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝るものもあり、おきて話して夜を明かすものもあり、結論がでるまでそれが続いたそうである。といっても三日でだいたいの難しい話もかたがついたという。
気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得がいくまで話し合った。だから結論が出ると、それはきちんと守らねばならなかった。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎり関連のある事例をとりあげていくのである。話に花が咲くとはこういう事なのである。」

なぜ現代人は深くものを考えられなくなったのか(万能細胞としての日本人)

日本人は勉強熱心な民族だと思う。しかし役割については極めて受動的だと思う。テレビを見るにせよ、読書をするにせよ、自分のためだけにするから身に付かない。が、いざとなると能力や知識を発揮する人が潜在的には多勢いるというのが日本人の特徴だと思う。
しかし、もう少し正確に言うと、場面場面でその中で一番能力のある人、知識のある人、経験のある人、を決めるのが長けている。そして自分たちで決めたリーダーに役割を決めてもらってそれをみんなで共認することに長けていると思う。

その辺は何か成果が上がるまではリーダーを信用しない、実証主義の欧米人とはかなり違うと思う。欧米人は適材適所とか、適地適作とか、個(個人)に眼を向けて役割を配置する。順調ならばそれで良いが行き詰ったときに配置換えを延々と続けたり、微細な条件の差異をいちいち実証しなければならない。ところが日本人は役割の配置についてはとても受動的で苦手なことでもやらなければならないことはやろうとする。だからある技能が突発的に抜きん出ることは少ないが、どんな役回りでも何とかしようとするという意味では集団における万能細胞である。

投稿者 tanog : 2018年09月13日 List  

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コメント

参考になります。縄文文化が色濃く残る三遠南信地域の浜松市天竜区の浜松市光明ふれあいセンターに勤めています。アラハバキの神と出雲神族の龍蛇信仰、出雲の二俣神社、伊勢市の二俣地区、浜松市天竜区二俣、東北の二俣の地名を興味深く見ています。磐座と禊、磐笛と縄文の祈り、たましひの目覚目覚めが必要な時になってくると思います。

投稿者 大杉政喜 : 2018年9月29日 15:44

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