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2021年01月28日

「疫病の流行は政治が悪いから」感染症に苦しめられた日本人の古代史

ちまたでは新型コロナウイルス禍が日本全体に大きな影響を与えておりますが、感染症に苦しめられる歴史はすでに縄文時代からあったようです

医学の発達していない当時、処方箋などあるはずがなく、感染を恐れる庶民は、出来うる限りの知恵を尽くして対処したであろうと推測できます。

宮廷も含めて、ばたばたと死に絶える様を見て、天皇の取った政策はもっぱら「加持祈祷」でした。仏教の発展伝染病の進行がなければ日本に根付いていたかは疑わしいところです。

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PHPオンライン衆知 奥田昌子著『日本人の病気と食の歴史』(ベストセラーズ刊)より一部抜粋

【稲作とともに日本に侵入した感染症】

大陸からもたらされたのは良いことばかりではありませんでした。それまで日本列島になかった病気が入ってきたのです。

その代表が結核で、縄文時代には存在せず、弥生時代に稲作とともに日本に侵入したとされています。

進行すると背骨に感染が広がって骨の変形が起きるため、発掘された骨を見て結核にかかっていたとわかることがあります。日本で確認されたなかでもっとも古いのは、弥生時代後期にあたる約2000年前の遺跡から出土した骨です。

最近の研究で、大陸の長江流域にある約5000年前の遺跡から、結核に感染したあとのある東アジア最古の骨が発見されました。

日本だけでなく朝鮮半島やベトナムでも、稲作が伝わった時期に結核が侵入したと考えられており、この遺跡の周辺から稲作と結核が一緒に広がっていった可能性が指摘されています。

続く古墳時代の遺跡からは同様の骨が多数見つかっており、弥生時代に伝わった結核が、この時期までに日本に根づいたと考えられます。

古墳時代にあたる3世紀から7世紀にかけて東アジアは気温が低く、雨の多い気候が続いたようです。このことも結核の蔓延に手を貸したかもしれません。

 

【アメリカ人の5倍!? 結核を発症しやすいと言われる日本人】

日本人は同じように結核菌と接触しても、他の人種より結核を発症しやすい遺伝子を持つ人が多いと考えられています。

医学が進んだ現代でも、日本は結核の発症率がアメリカの5倍高く、毎年約1万8,000人があらたに結核と診断され、約1,900人が命を落としています。弥生時代のある日、日本に入ってきた結核菌が、今も私たちを脅かしているのです。

稲作の普及にともなう、もう一つの問題は、水田を作るのに適した湿地の周辺に人々が移住したことで起こりました。水田や湿地に住む小魚、貝、蚊などを介して寄生虫に感染しやすくなったのです。

日本を含むアジアで古代から広く発生していたのが日本住血吸虫症でした。病名に日本とついているのは、明治時代に日本の研究者が住血吸虫を発見し、この虫が病気の原因だと突き止めたからです。

住血吸虫の幼虫は田んぼや小川の浅瀬に住む小さな貝に寄生して、暖かくなると水中に泳ぎ出し、水に入った人や動物の皮膚から侵入します。感染が長く続くと肝臓に卵の塊ができ、肝硬変になって死亡するおそろしい病気で、近年まで無数の人を苦しめました。

20世紀になって、問題となる貝の駆除に国をあげて取り組んだ結果、1,970年代後半以降は日本国内でのあらたな発生はありません。けれどもアジアの一部の地域ではいまだに感染が見られるため、旅行の際は注意が必要です。

【疫病の蔓延は「政治が間違っているから?」】

712年に成立した『古事記』、720年成立の『日本書紀』のいずれにも、古墳時代には伝染病がたびたび流行して多くの人が亡くなったという記述があります。ただ、流行病を意味する疫病としか記載されておらず、具体的な病名はわかりません。

古墳時代には大陸から医師が来日し、天皇など身分の高い人の治療にあたっていました。しかし病気の原因も治療法も不明なため、素朴な薬草治療を行うのが精一杯だったようです。

代わりに重視されたのが加持祈祷でした。病気は神仏のたたりで、とくに全国レベルの疫病は政治が間違っているせいだと信じられ、たびたび大規模な祈祷が行われました。この考えかたは室町時代まで続きます。

疫病をしずめるために宮中で行われていた儀式のなかには、のちに庶民に広がり、形を変えて現代に伝わるものがあります。

お屠蘇、節分の豆まき、ひな祭り、5月5日に菖蒲の葉を飾る風習、茅の輪くぐりなどがその例で、5月5日は611年に推古天皇が大規模な薬草狩りを行った日です。

古墳時代には、壁ぎわに調理専用の竈を作り、煙突から煙を外に逃すようになります。日本一巨大な前方後円墳で知られる仁徳天皇の治世は5世紀前半ごろとされています。

『日本書紀』によれば、ある日のこと、天皇は高台から集落をながめて、民家の竈から煙が上がっていないのに気づきました。民の生活が苦しいことを知った天皇は、数年間課税をやめて民を救ったそうです。

竈では米を煮るのではなく、おこわのように蒸して食べていました。このとき使ったのが稲作とともに大陸から伝わった甑(こしき)という土器です。現代の蒸し器のような構造で、米を布で包むか、かごに入れるかして蒸したようです。

横浜市にある古墳時代の遺跡からは、木の皮で編んだ弁当箱に入ったおにぎり8個が見つかっています。餅米の玄米を蒸して、団子のように固めてありました。古墳時代から平安時代にかけて北九州の防衛にあたった防人も、蒸した餅米を固めて携帯したようです。

 

【天然痘が引き起こした内乱】

6世紀後半、聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代に、大陸から百済をへて日本に仏教が伝来しました。それからまもなく、瘡(かさ)、現代でいう天然痘の記述が『日本書紀』に登場します。

僧をはじめとする仏教関係者が多数来日するなかで、天然痘ウイルスが持ち込まれたと考えられます。

天然痘は急激な発熱や頭痛、関節痛で始まる感染症で、数日たつと発疹があらわれます。発疹は水ぶくれになって膿がたまり、やがて、かさぶたに変わることから「かさ」と呼ばれたのでしょう。死亡率が20~50パーセントにのぼる危険な病気で、回復しても発疹のあとが「あばた」として残りました。

『日本書紀』によると、瘡にかかった人が国中にあふれ、「身を焼かれ、打ち砕かれるようだ」と言い、泣きながら死んでいったというのですから、まさにこの世の地獄です。

人々は、天皇が仏教を嫌い、仏像を焼かせたことで仏罰がくだったのではないかと噂しました。その当時、海外から伝わった仏教を重んじる蘇我氏と、従来の神道を尊ぶ物部氏のあいだで緊張が高まっていたのです。

このときの流行が引き金となって、587年には、ついに丁未(ていび)の乱という内乱が勃発します。

この戦いに勝利した蘇我氏は権勢を強め、血縁関係にある推古天皇を擁立して、同じく蘇我氏の血が流れる聖徳太子を摂政にすえ、みずからがこれを補佐する政治体制を作りました。

こうして仏教が急速に浸透するかに見えましたが、熱心に信仰したのは蘇我氏をはじめとする豪族にとどまり、庶民は昔ながらの自然崇拝や祖先崇拝を基礎とする神道に近い考えかたを行動の指針にしていたようです。

天然痘は近代まで繰り返し流行し、人類が天然痘の撲滅に成功するのは21世紀も近づく1980年のことです。

投稿者 tanog : 2021年01月28日 List  

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