DNAから、人類の拡散を探る その2 |
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2008年11月17日
DNAから、人類の拡散を探る~その3
⑥『出アフリカの二つのルート』
人類がアフリカから世界に拡散して行ったという説はよく耳にするところです。
さて三回目の今日は、そのアフリカからいよいよ旅立って行く人類がどのようなルートを辿って行ったのかを追いかけてみることにします。
過去のブログ記事もあわせてご覧ください。
DNAから、人類の拡散を探る その2
DNAから、人類の拡散を探る
ミトコンドリアDNAとは【基礎知識】
いつものように応援の方もよろしくお願いします。
(wikipediaより)
最近のDNAを用いた研究では最初にアフリカを旅立った人数を150人程度と見積もっているものもあるそうです。
以前の投稿で紹介した、基本的な4つのクラスター(L0~L3)の中で、言うまでもなく『アフリカ人の一部と残りの世界中の人たちを包摂している』L3のクラスターに属する人々が、このアフリカから世界に拡散して行った人々だと考えられます。
興味深いのは、この出アフリカ集団がさらにふたつのクラスターに分かれることです。
(中略)
出アフリカを果たした二つのクラスターは、以前の研究でハプログループMとNと名づけられた分類と同じであることが分かっていますので、これ以降はハプログループの名称をもちいて説明します。Mがアジア人だけから構成されるグループで、Nがヨーロッパ人とアジア人を含むグループです。このことは素直に考えると、アフリカからの旅立ちが二回あったことを示しているように見えます。ハプログループMはアジアだけに進出し、Nの方はユーラシア大陸の東西にその分布を広げたことになります。
(「日本人になった祖先たち」より)
まずはこのように、アフリカを旅立った人々は大きく二つの方向へと分散していった可能性が伺われます。
【出アフリカの二つのルート】
さまざまな分野の研究で、アフリカからの拡散について二つのルートが推定されています。ルートの一つは北アフリカから出てゆくもので、紅海の北端からシナイ半島を通って中東に抜けてゆく経路を想定しています。
(中略)
想定されているもう一つのルートは、エチオピアを通ってアラビア半島を抜け、南アジアに達するというものです。最近のDNA分析による拡散の研究では、ほとんどがこのルートを想定しています。最初に出アフリカを果たした新人が通った経路だとも考えられており、その後彼らは南アジアの海岸地域を伝って、四万年以上前にはオーストラリア大陸に到着したと想定されています。
上記の最初の説は、10万年ほど前の遺跡から発掘された人類の人骨の証拠と、分岐年代は早くとも8万年前より以降の時代であるとするDNA分析からの説とで、時代が一致していないようです。
その意味もあってか、現在はDNA分析による研究では後者の説の方が有力なようです。
このルートではアフリカを出発する際に紅海を横断することになりますが、東アフリカから出発することを考えると、その場所は紅海の入り口付近ということになります。現在ではこの地域の紅海の幅はおよそ二十キロメートルありますが、最初に出アフリカがなされたのは氷河期ですから、その幅はずっと狭かったでしょう。現在よりもおよそ七十メートル海水面が低下していたという研究もあります。ですから海を渡ることは今よりは簡単だったと思います。あるいは島伝いにこの海を渡ることも出来たのかもしれません。
サフル人と呼ばれるオーストラリアの先住民であるアボリジニやニューギニアの高地人のなかには他のアジア人とは異なるミトコンドリアDNAを持つ人たちがいます。彼らの遺伝子の系統はアフリカの祖先に直接繋がるのです。分子人類学では、彼らこそが最初にアフリカを出た人々の直系の子孫だと考えています。最近、このルートの中間である東南アジアの島嶼部で、類似のDNAをさがす作業が進められました。その結果、マレーシアの先住民やアンダマン諸島の人々のなかに、やはりアフリカ集団に直接結びつく系統が見出されたのです。それはハプログループMの系統でした。
但しこの説も当時が氷河期で海水面が低下した時期であり、現在の海岸線はもっと後退してしまっているので、化石や考古学的な証拠から検証することは基本的に不可能です。
したがってこの説を確かなものにするにも、まだまだ高いハードルが残っていると言えそうです。
以上のように、アフリカを出た人類は今のところ紅海を渡りアジア方面に進出していった一派と、あるいは北アフリカからシナイ半島を抜け中東に向かった一派とがありそうで、まだまだ考古学的な証拠とDNA分析と、どちらからも完全一致するには不足しているところもあるようです。
但しこの両ルートはハプログループのMとNのグループにも繋がりそうですね。
投稿者 saah : 2008年11月17日 TweetList
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コメント
投稿者 高塚タツ : 2008年12月15日 21:15
修験・山伏と花朗集会の秘密結社
非常に興味深かったです。
(ところで、“高塚タツのHerStory”さんへのリンクがうまくつながらなかったです。)
投稿者 Hiroshi : 2008年12月18日 00:18
>花郎集会はほんらい華々しい戦士を訓練する組合であったのである。彼らはときには美しく着飾り、武装して勇敢に戦った。成員同士の間には、堅い「兄弟の契り」が結ばれ、おたがいを強い義侠心が結び合わせていた。
これって、軍隊のような組織でしょうか?
何をもって組合組織と呼ばれるのか、解説していただけるとありがたいです。何となくこういう組織を組合というのだろうか?という感覚でしか理解できていませんもので。
労働組合が兄弟の契りで結ばれているとは思えないし・・・。
組合とそうでないものを分けるのは自治かそうでないかだと思うのですが。
いずれにしてもかなり難解な文章なので解説を・・・。
投稿者 匠たくみ : 2008年12月18日 23:42
>花郎集会が、新羅国家に背を向けた結社なら、ヤマト国家に協力するのは当然です。つまり、修験は、反体制の精神でヤマト国家を守るネットワークではないでしょうか?
そうですね。ここに日本のCIAともいうべき修験ネットワークが誕生したということはできるのでしょう。
しかし共同体(母系集団)の解体過程でうまれたものは権力も反権力も所詮は権力を志向する存在だと考えます。権力装置とは(その時々の利害に応じて)くっついたり、離れたりするのは、ある種の必然であって、修験が一貫して「愛国的であった」か、は疑問がつくのかもしれません。
中沢氏の論考で、注目したのは(引用からははずしましたが)修験が「山の神」を畏怖する人々の意識をうまく使って、「山の神」そのものであると主張しだす、という展開の部分です。修験は縄文的なるもの(山の神への畏怖)を引き継いだ、いわば末裔でもあり、縄文的なるものを利用した権力でもあるのだ、と私は考えます。
この試論はむしろ入口で、高塚さんの提起されている「百済」と「新羅」の婚姻制の違いの解明に進んでいきたいと考えています。
投稿者 怒るでしかし~ : 2008年12月20日 22:06
ところで、“高塚タツのHerStory”さんへのリンクがうまくつながらなかったです。
失礼しました。修正しておきました。
投稿者 怒るでしかし~ : 2008年12月20日 22:20
>組合とそうでないものを分けるのは自治かそうでないかだと思うのですが
柄谷行人なんかもよく「組合=アソシエーション」という概念をつかいますが、ようは共同体解体後に改めて作られる結社の総称と理解していいと思います。労働組合もそうですが、一方で共同体的なもの(相互扶助)を求めつつ、他方で共同体的なものを否定している(血縁、地縁のしがらみを否定)という両義性がミソです。任侠組織は発生史的には職人や港湾労働者の組合が既得権益を得て、凶暴化したものですから、その本質は労働組合とかわらないですよ。そういえば、派遣労働者の犠牲の上に既得権益を手放そうとしないGMの労働組合もトヨタの組合も今やヤクザ集団といってもいいかもしれません。
投稿者 怒るでしかし~ : 2008年12月20日 22:29
怒るでしかし~様
あれこれ考えさせていただいて、まだすっきりとはしないのですが、母系から父系への転換のときに発生する妖しいパワーが、室町時代に劇場化されたのじゃないかという疑いは消えません。
東条英機のご先祖が能楽師という「偏見」から推理しているのは認めます。
わたくしは、自我がなければ生きられなかった人間です。共同体を維持するためにみんなで見ないふりをしている領域に不具合が認められるなら、そこから眼を逸らさない、それはこれからも貫いていきたいものです。
投稿者 高塚タツ : 2008年12月27日 19:54
>わたくしは、自我がなければ生きられなかった人間です。共同体を維持するためにみんなで見ないふりをしている領域に不具合が認められるなら、そこから眼を逸らさない、それはこれからも貫いていきたいものです。
タツさん。そのお考えは自我でもなんでもないですよ。
共同体が沈没しかけているのであればどこからでも発信がある。それが一番強い共同体です。これからの日本人はそうあらなければならない。
私もタツさんと同じ考えです。
ちなみに自我とは自己讃美、他者否定の総称です。
間違ったことに目をそらすのが共同体の規範であってはいけません。ただ日本人のこれまでの共同体的思考の中に波風を立てることを嫌う気質があることも事実で、それはこれからの時代、変えていくべき気質なのだと思います。
投稿者 匠たくみ : 2008年12月28日 01:44
>そうした没落貴族の中から、国家に背を向けた秘密結社が生まれ、そこから半島では花郎集会が、列島では修験が発展し<
「国家に背を向けた秘密結社」が、白村江の戦いのあと、中大兄皇子と中臣鎌足の作った国家に協力するという不思議が、その後の日本に危機の訪れるたび、再現されているのです。
花郎集会が、新羅国家に背を向けた結社なら、ヤマト国家に協力するのは当然です。つまり、修験は、反体制の精神でヤマト国家を守るネットワークではないでしょうか?