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2009年05月24日

日本では11世紀初頭をもって貨幣使用が途絶えた

 日本では和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)が、708年(和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨です。日本で最初の流通貨幣と言われています。皇朝十二銭の第1番目にあたります。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称です。これより古い貨幣に富本銭がありますが、これは実際に流通したかどうかは諸説あります。
 日本では銭貨が発達しなかったのです。政府が発行する銅銭への信頼は民間では失墜してしまい、使用されなくなります。乾元大宝が発行されたあと、朝廷の弱体化もあり、銅銭は発行されなくなりました。その後、日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまいます。
 これには、諸般の理由があるので、それを解説(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を一部修正引用)します。
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【材料の銅が少ない】
 和同開珎発行時当時の日本はまだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。
 711年(和銅4年)には、流通を促進するために蓄銭叙位令が発布された。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年(延暦19年)に廃止された。
【新銭の発行ごとに行われたデノミ】
 760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。新銭の発行ごとに行われた1000%などのデノミである。もともと政府の設定した銭の価値に問題があり、新銭の価値が10倍である根拠がなかったため、市民からみれば、貯蔵している旧貨が両替によって10分の1に減ることは、大きな打撃であった。このため、大量に溶解して銅材とし、両替を拒んだのである。たとえば10枚の10円玉を新10円一枚に取り替えられるとすれば、旧10円は1円の価値でしかなくなるので銅にしたほうが得、という理屈だ。
 神功開宝発行の後、779年(宝亀10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。
【ニセカネ ~私鋳銭鋳造や中国銭を素材に両替詐欺まがい】
 政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。
 また当時の貨幣は小額通貨であり、穴あき銭ともいわれるように高額取引では束ねて用いることが多かった。このため、いちいちほどいて刻印を鑑定する手間がかかるうえ、これをおろそかにすれば贋金や沽価のひくい唐宋銭がまじりやすく、インフレを招いた。ニセカネである。これを「銭の値が卑しくなる」と表現している。政府は東西の市司に命じて物価を統制し、銭の価値を高く固定しようとしたが、このことはかえって安く仕入れた中国銭を素材に両替詐欺まがいの行為を助長させた。品位の低下はこれに拍車をかけた。和銅銭にちかい大きな中国銭を薄く小さな銭に変造するのはたやすいことであった。
【破銭 ~銭を溶かして銅地金として利用する行為)が広く行われた】 
 さらに、当時の製錬技術では、銅鉱石のなかでも日本で大量に産出する黄銅鉱など硫化銅を成分とするものは利用できず、孔雀石、黒銅鉱など酸化銅を成分とする限られた鉱石しか利用できなかった。日本各地の酸化銅鉱山では深刻な資源の枯渇にさらされており、銅の価値は上がっていた。少なくとも数億枚は発行が確認されている銭が、いくら経済発展があるとはいえなかなか回収できず、品位を下げざるをえなかったのは、破銭(銭を溶かして銅地金として利用する行為)が広く行われたためと理解される。
 これに対し984年(永観2年)には「禁破銭令」が出される事態となり、新銭発行が極めて困難な状況になった。この禁令は社寺などに出されていることから見ても、朝廷が反対できないよう、銅灯篭など「国家安泰を祈願するため」の仏具に事寄せて溶解する方式が取られたのであろう。この結果、皇朝銭の現存枚数は記録と比較してもきわめて少ないものとなり、とくに後期のものは低品質の影響で錆び、刻字が読めるものはごく稀で現在の古銭市場ではかえって莫大な値打ちをまねいている程である。
【皇朝銭の終わり】
こうして、民間での、政府が発行する銅銭への信頼は失墜してしまい、使用されなくなった。乾元大宝が発行されたあと、朝廷の弱体化もあり、銅銭は発行されなくなった。その後、日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまう。ただし畿内などでは300年かけて形成された金属貨幣そのもののに対する需要が完全に無くなった訳ではなく、沽価法などの公定価格の決定には貨幣換算によるものが用いられてきた。やがて経済が発達すると、中国から輸入した宋銭、元銭、明銭などが用いられるようになった。
 皇朝十二銭が発行されなくなってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られなかった。銅銭の公鋳の再開は、皇朝十二銭の600年以上後の1608年(慶長13年)に鋳造された慶長通宝あるいは1627年(寛永4年)の寛永通宝鋳造まで待つこととなる。
【参考 ~皇朝十二銭】
皇朝十二銭は、以下の12種類である。
和同開珎 708年(和銅元年)
万年通宝(萬年通寳) 760年(天平宝字4年)
神功開宝(神功開寳) 765年(天平神護元年)
隆平永宝(隆平永寳) 796年(延暦15年)
富寿神宝(富壽神寳) 818年(弘仁9年)
承和昌宝(承和昌寳) 835年(承和2年)
長年大宝(長年大寳) 848年(嘉祥元年)
饒益神宝(饒益神寳) 859年(貞観元年)
貞観永宝(貞観永寳) 870年(貞観12年)
寛平大宝(寛平大寳) 890年(寛平2年)
延喜通宝(延喜通寳) 907年(延喜7年)
乾元大宝(乾元大寳) 958年(天徳2年)

投稿者 norio : 2009年05月24日 List  

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