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2020年09月24日

縄文体質は未来を拓く~第5回 BI時代の「信仰」とは人へのあくなき同化から始まる

ひたすら対象に同化しようとする、それが心眼で見るという事でもあり、常に祈り続ける姿でもあるのです。一神教のように教義も必要ないし、教団も必要ない、集団の中で同化能力の高い人物がシャーマンとなり首長になっていきました。
この信仰は日本語となり言霊となり現在にも引き継がれています。最も信仰らしくない民、日本人の存在は人類にとって同化を迷わす宗教は必要ないとも言えるし、その同化能力という点においては最も信仰心の強い民族が日本人であり縄文人であるとも言えると思います。縄文体質とは何か?~6回 縄文人(日本人)の信仰とは対象へのあくなき同化

BIの時代になると生活費が保証される変わりに先の投稿でも書いたように、労働が変わる。
好きな事ややりたい事に邁進できるという反面、今までの賃金の為のぶら下がりの労働はAIに取って代わられる。新しい仕事はどんどん生まれていくが、それが人々の役に立つ、未明の課題に挑戦するものでなければ忽ち見透かされてしまう。その意味では仕事はAIではない人類でしかできない文字通り未知への追求力の時代に入る。人の役に立つ仕事=追求力の決め手は相手への徹底同化から始まる。

何を相手は求めているか、それにどう応えていくか、相手さらに社会に同化し、自分発ではない相手発の頭の使い方をする事が必要になる。これまでの学校で身に着けた勉強世界での追求は全く役に立たず、ひたすら仕事世界での外圧や期待に応える追求でなければ使い物にならない。その意味ではBI後の世界は追求、同化の力が求められる。言い換えれば私権時代の宗教や学校のように与えられる架空の教義や役に立たない教材への同化ではなく、BI時代の同化とは人や社会、自然世界に同化し答えを追求する時代に入った。学校教育で錆びついた潜在思念を呼び覚ます為にも、自然世界への同化力を未だに持っている日本人の可能性はこの“同化”にあると思います。

今回は同化や追求に関する4つの記事を紹介しておきます。
これらの投稿の中にある下記のキーワードがBI時代の生きるスタンスの心得になっていると思います。
参考までに・・・詳しくは投稿を読んで自分で感じて、考えてみてほしい。

・「現実=人々の意識=自分」と言う構造認識の正しさを知る

・自分(自己決定)発の理解を止め、観念の奥の対象(潜在思念)に同化・応合すること。

・今起きている活力革命は、言葉に導かれた革命ではなく、言葉よりも遥かに深い潜在意識の地平で現に生起している革命であり・・・。

・今や、追求充足のある場に人が集まる。仕事も集まる。従って、どこまで追求充足の場を形成できたかが、企業の盛衰を規定することになり・・・

・好きなことを楽しむ境地は、マジメからは生まれず、本質から生まれるのです。

BI時代とはワクワクし、もっと深く、本質から、素人の創造がなされる時代です。
そしてそれは一人でコツコツではなく仲間やみんなとワイワイしながら、それでも切磋琢磨してこれまでにない新しい価値を生み出していくものです。
これが縄文体質とどうつながるのかはわかりませんが、心の声を聴く、自然世界を捉える、相手と深く同化する、この辺にヒントがありそうです。

今回は「女の職場話」さんから3つ引用させていただきました。

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「自分らしさ」を理解できない人々

随分前に先住民族の文献で読んだのですが、彼らは「自分らしさ(MYSELF)」と言う観念が理解できないそうです。(むしろ理解できないと言うよりも、存在しない)彼らは、自分が大地の一部であり、(大地と)同一であると考えているため、その大地の上に立つものは全て「同じもの」だと理解しており、ネイティブであるかどうかや、宗教に関係なくその認識を持っているようです。「大地に立つもの全て」であるので、獣や鳥、花や木々にまでその認識は及びます。
当時僕は、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼らを今一イメージできずにいましたが、ここのところの構造認識・パラダイム転換の議論を通して、なんとなくその意味するところを実感できた気がします。
彼らは、何よりも、人々の意識(皆)=自分=現実であることを理解していたのだと思います。そのために、現実(皆の意識)と自分の意識を切り離して理解することが出来ないのでしょう。「大地に立つものは全て同じ」と言う考えは、世界=現実を理解する構造認識と言えるのかもしれません。
「世界」と「自分」を切り離し、「自分が自分である理由」=自分らしさを追い求めて来た、現代人。しかし、そこには答えなどなく、空しさと孤独感だけが付きまとう。しかし、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼ら(ネイティブ)は、不安に怯えるどころか、常に自信に満ち溢れ力強く、存在不安の欠片も見られない。
いかに、僕達に刷り込まれた「自分らしさ」と言う観念が倒錯したものであるかがわかります。それは同時に、「現実=人々の意識=自分」と言う構造認識の正しさを知ることでもある。 おぼろげながらではあるが、ようやくその構造認識にたどり着いた僕達。どうやら僕達現代人は大きな回り道をしてしまったようです。
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古い観念回路は廃棄して、本来の本能・共認・観念でみんな充足に向かいたい!

本来、観念(理論)は、みんな不全に応えようとする期待圧力の中で生み出されるものであり観念(理論)の生命は、むしろ根っこの潜在思念(みんな不全⇒みんな共認回路)にある。従って、書物であれ、レジュメであれ、投稿であれ、相手(著者)がなぜこれを問題にしているのか、なぜそう考えるのかを深く読み取ること、換言すれば、潜在思念のレベルで対象に同化・応合することが、不可欠になる。(中略)
従って、自分(自己決定)発の理解を止め、観念の奥の対象(潜在思念)に同化・応合すること。それが、理論を吸収し尽くすと言うことであり、そうしてはじめて理論を使いこなす(応用する)ことが可能になるのだと思う。
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追求充足の時代の同類闘争とは?~敵の志に火をつける!

我々は、活力革命の渦中にいる

要するに、今起きているのは活力革命である。これはフランス革命や明治維新やソビエト革命等の近代の「革命」とは、全く次元を異にしている。近代の「革命」は現実のどこにも存在しない頭の中だけの架空観念に導かれたペテンのような「革命」であり、従って彼らのキレイ事(架空観念)は全く実現されず、当然見捨てられていった。
それに対して、今起きている活力革命は、言葉に導かれた革命ではなく、言葉よりも遥かに深い潜在意識の地平で現に生起している革命であり、教育革命がそうであるようにこれは本物の革命である。
つまり、現在、我々はすでに革命(命を再生すること)の渦中にいる。今や、追求充足のある場に人が集まる。仕事も集まる。従って、どこまで追求充足の場を形成できたかが、企業の盛衰を規定することになり、それが出来ない集団は淘汰されてゆくことになる。おそらく活力革命の渦中では、役所(公務員)や大企業はいつ解体されるか分からない最も不安定な集団と化してゆくだろう。

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本当は何かと考え抜くのは人間の遊び心

本当は何かと考え抜くのは人間の遊び心でもあります。
如何にそのものが楽しくなるかを考えるのは本質が観えているからなのでしょう。どうせやるのならとむしろこうやろうと創意工夫が高まっていくのです。
例えば、伝統でも守らなければならないと悲壮感を漂わせていたら正しいことをやるしかないとマジメにやるうちに楽しくなくなっていくものです。しかし、伝統を守るためではなく本来の初心や理念を今の時代ならどうやってやろうかと好奇心でやっていたら楽しくなってきます。

よく好きなことに一生打ち込んでいた人が大成するといいます。その逆に好きでもないことをただマジメにやっていても大成することはありません。マジメでは大成しないと言っているようなものです。好きなことを楽しむ境地は、マジメからは生まれず、本質から生まれるのです。
私はこれを本質的創造といいます。
この本質的創造とは常に何のためにやるのかを忘れず、そのために効果があるものを創意工夫しアイデアを出す営みです。周りからみれば突拍子もないように観えても、それは信じる世界で自らの人生の道を前のめりに楽しんでいるから湧いて出てきます。そういった目的意識や本質は世間の常識をすべて壊していきます。
常識に囚われることは面白くなくなってしまうし、ちゃんとやればうまくいくなどは過去の前例に縛られているだけです。
新しい発想は、そのものを楽しみ味わい抜く中にこそ生まれてきます。

投稿者 tanog : 2020年09月24日 List  

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