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2015年08月15日

書き換えられた歴史・今も日本を支配する藤原氏の正体は?

こんにちわちわわです。

日本の政治・経済について考えるとき、当然に日本の歴史を理解しておかなければなりません。しかし、日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。

その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。  教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。 そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。

今回は、歴史上突如登場した藤原鎌足から繋がる藤原家の謀略が、現代の天皇家にも息づいていることを紹介したいと思います。

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(闇株新聞)さんより http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-152.html

【大化の改新の真相は?】

645年に、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が協力して、権力を一人占めして横暴を極めていた蘇我入鹿(いるか)を皇極天皇の面前で暗殺し、これをうけて入鹿の父親の蝦夷(えみし)も自殺して蘇我氏が滅び、天皇中心の律令体制(後述)を成立させました。 これを乙巳(いっし)の変、その後の一連の政治改革を大化の改新と言います。

まあ、これが平均的な歴史の教科書の書き方ですが、実は見事に書きかえられた歴史なのです。

それまでの政治体制は、天皇を中心として蘇我氏(財政)、物部氏(軍事)、大伴氏(外交)などの朝鮮半島からの外来人である豪族の集団指導体制でした。 その豪族間の勢力争いに勝った蘇我氏の勢力が強大化し、6世紀に蘇我稲目(いなめ)が自分の二人の娘を欽明天皇の妃とし、それらの妃の間に生まれた子供を次々に天皇に即位させて外戚の地位を確立していきました。  蘇我稲目の子供が蘇我馬子(うまこ)で、馬子の代に蘇我氏の勢力が絶頂期を迎えます。  推古天皇は馬子の姪で、その摂政となった聖徳太子は推古天皇の甥で、ともに蘇我氏の一族なのです。  つまり、この時点で蘇我氏は天皇家そのものだったのです。

聖徳太子が冠位12階を定め(603年)、憲法17条を制定し(604年)、遣隋使を派遣した(607年)など数々の功積をあげたとされていますが、これらはすべて馬子の実績だと考えられます。  その理由は、574年生まれの聖徳太子が、同じ蘇我一族の長であり、約25才年上の馬子を差し置いて、政治の中心、つまり蘇我一族の中心にいたとは考えられないからです。  馬子は推古天皇在位中の626年に没し、その地位は子の蝦夷と孫の入鹿へと受け継がれていきます。 実は聖徳太子は622年に没しており、馬子より早く亡くなっているのです。 「日本書記」では、聖徳太子の死後、その子で天皇候補だった山背大兄皇子を蝦夷・入鹿が攻め滅ぼして政権の独占を図り、それを遺憾に思った中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がって蘇我氏を攻め滅ぼしたとされているのですが、ちょっと考えるとおかしいことが分かります。

名目はどうであれ、天皇家そのものと言える蘇我馬子・蝦夷・入鹿に対し、蘇我氏一族から遠く(従って天皇になれる見込みのほとんどない)中大兄皇子と、同じく出世の見込のほとんどない中臣鎌足が、蘇我一族の聖徳太子の子が攻め滅ぼされたからと言って、憤る必要は全くないからです。 乙巳の変とは、蘇我氏から天皇家を簒奪(さんだつ)した藤原氏の始祖である中臣鎌足のクーデターであり、その時に担いだのが中大兄皇子(のちの天智天皇)だったのです。 その大義名分づくりに、聖徳太子を必要以上に神格化する必要があったのです。

645年の乙巳(いっし)の変で、とにかく蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足ですが、すぐに天下を取ったわけではありません。  中大兄皇子は、その後も数多くの謀略を張り巡らし、やっと668年に天智天皇として即位できるのです。  しかし、中大兄皇子が即位するまでに最優先で取り組んだことは、律令制度の確立など国内のことではなく、無謀とも言える百済救済だったのです。 つまり「大化の改新」という、国内の律令体制の確立には全く関心がなかったのです。

660年に百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、大軍を百済救済のために派兵したものの、663年に白村江で全滅してしまったのです。また敗戦後は、筑紫や飛鳥に大がかりな国土防衛のための水城・土塁等を築きました。  唐・新羅連合軍が日本に攻めてくるリスクは非常に大きかったのです。そこまでして百済を救済する必要がどこにあったのでしょう?  蘇我氏は新羅の出身だったようです。だからそのころの天皇家には、百済を救済する必要は絶対になかったのです。  さらに中臣鎌足は、それ以前の日本の歴史に全く出てきません。それが突然現れて、一応皇族の中大兄皇子に近づけたというのも不思議と言うか、あり得ない話です。

それでは中臣鎌足は、いったいどこから来たのでしょう?  あくまでも可能性の話ですが、中臣鎌足は日本に助けを求めに来ていた百済王族の一人ではなかったかと思います。ただ「日本書記」では「藤原氏」が宮司の中臣家が祖であるとしており、外来人だったとは全く書かれていません。 蘇我氏の世の中では絶対に百済は救済されないので、中大兄皇子を引き込んで蘇我氏を滅ぼし、百済救済をさせようとしたのが、意外に乙巳の変の真相だったのかも知れません。  しかし、中大兄皇子は668年にやっと天智天皇として即位出来たのですが、中臣鎌足はその翌年に死んでしまいます。死の直前に藤原姓を天智天皇から賜ったようです。  そして天智天皇も672年に死んでしまい、息子を即位させるものの、すぐに弟の大海人王子に皇位を奪われてしまいます(天武天皇)。 これが、壬申の乱で、史上初めての武力による皇位の交代だと言われています。

【歴史を捏造し藤原家の栄華の基本形を作った藤原不比等】

ここで、せっかく天智天皇をたてて勢力をつかみかけていた藤原氏の野望は、一旦しぼんでしまいます。   藤原鎌足の子の藤原不比等が世に出てくるのは、天武天皇が686年に亡くなり、皇后の持統天皇が即位してからです。持統天皇は天智天皇の娘で、藤原不比等をとりたてます。そして、ここで初めて本格的な律令体制の確立に取り掛かります。

律令体制とは、全国の土地を全て天皇のものにし、各豪族は冠位・役職によって俸禄を受け取る政治形態です。そして税徴収のための戸籍の確定や、新田を開発した場合の規定などを設けるのですが、それを実質的に取り仕切ったのが藤原不比等で、その地位を利用して、全て将来の「藤原氏」の栄華の基本形を作ってしまったのです。   その集大成が701年に制定された大宝律令で、編者は刑部(おさがべ)親王ですが、取り仕切ったのは藤原不比等です。 そして「日本書記」が720年に編集されます。これも取り仕切ったのは藤原不比等で、「藤原氏」を徹底的に正当化した歴史書で、1400年たった今でも何の疑いもなく読まれているのです。

持統天皇以降、ずっと天智天皇系の天皇が続きます。そして藤原不比等は蘇我氏と同じように天皇の外戚となっていくのです。  そして4人の息子に、別々の藤原家を作らせるのです。これは律令体制では各家1人しか役職に就けないので、四家に分けて役職を独占するのです。まさに「戦略は細部に宿っている」のです。この言葉は、現在の官僚組織を言い表した現代の言葉なのですが、その原型が藤原不比等なのです。  つまり、天智天皇の娘の持統天皇に取り立てられた藤原不比等が、「大宝律令」と「日本書紀」を通じ、驚くなかれ、現代まで続く「藤原氏」の栄華の基本を作ったのです。

【天皇家そのものとなっていく藤原家】

律令制度というのは、土地の私有を認めず、すべて天皇のものとし、豪族は冠位や役職によって俸禄を得て、市民は土地を貸し与えられる代わりに租庸調と言われる納税の義務がありました。  しかし、この制度は冠位や役職を藤原氏が独占したことや、開墾した土地を荘園として私有地にしてしまうなど、藤原氏に富が集中する仕組みとなっていきました。  藤原不比等は720年に死んだのですが、すでに天皇の外戚の地位を獲得していました。さらに、天武天皇の孫の長屋王を謀略で自害させるなど、藤原家の血のつながっていない皇子を徹底的に排除して、ますます外戚としての地位を強固なものにして行きました。   そして不比等の4人の息子に、それぞれ別々の藤原家を名乗らせ、役職を独占しようとしました。(各家に役職につけるのは1名ずつと決められていたため、別の家にしたのです)

その4人の息子は、天然痘で全員いっぺんに死んでしまうのですが(長屋王のたたりとも言われます)、次男の房前(ふささき)の藤原北家が残り、その後の摂政・関白の地位を近世まで独占します。

藤原家(正確には藤原北家)は、平安中期の藤原道長・頼道のころに最盛期を迎えます。道長は3代の天皇の外戚となります。  歴史の教科書では、藤原家の栄華はこの辺を頂点として衰えていくと書かれています。  ところが、その後も藤原氏(藤原北家)は、五摂家として名前を変え、天皇家だけでなく、時の有力者とたくみに閨閥を形成して生き残っていくのです。  五摂家とは近衛・鷹司・九条・二条・一条家のことです。  五摂家は、摂政・関白として天皇家を輔弼(ほひつ)する地位を独占してきただけでなく、天皇の妃(皇后)も独占してきました。つまり藤原氏(五摂家)は、天皇家そのものになったのです。だから現在の歴史家も藤原氏の正体に切り込めないのです。  五摂家以外から初めて皇后に迎えられたのが、何と今上天皇の美智子皇后なのです。

【名前を変えて現代まで脈々と続く藤原家】

女帝は結婚できないので子供が出来ません。ここで天皇家のなかの徳川の血を絶やしてしまおうという五摂家の深慮遠謀だったようです。  鎌倉時代、将軍家である源家の血筋が3代で途絶えてしまった時、将軍に送り込まれたのが藤原北家の九条氏からでした。  室町時代に入ると、足利将軍家の正室を送り続けた日野家も、藤原北家の流れを引きます。  江戸時代の徳川将軍家の正室も五摂家から多く出ています。ただ徳川家の方も正室に将軍の世継(男児)が出来ないように画策していたようです。

そして明治維新で、再び天皇親政が始まると、当然五摂家の力は復活します。

第二次世界大戦直前の首相であった近衛文麿は、もちろん五摂家筆頭の近衛家当主であり、天皇を輔弼(ほひつ)し、首相候補を天皇に奏上する役目であった(つまり首相を実質的に決める権限があった)元老の西園寺公望も、藤原北家の流れを引く西園寺家でした。  つまり8世紀はじめに藤原不比等が引いた路線が、その後、形を変えて時の政権の近くで存続し、1200年以上もたった明治時代に再び表舞台に出てきたのです。

【国家の歴史を改ざんした藤原不比等の大罪】

大化の改新という中臣鎌足のクーデターに始まり、白村江の大敗北、日本書紀編纂による日本の歴史の捏造。ここから藤原家による日本国家支配が誰にも疑われること無く現代まで続いてきたのです。 全世界を見渡してみても、日本の天皇家のように同一血縁の統治者もしくは象徴としてつづいている国は見当たりません。 朝鮮半島からの外来者の支配を隠蔽し、表舞台を装って裏で巧みに権力を持ち続けるやり方は、現代の権力社会の構造と酷似しているように思えてなりません。 これからの日本を考える上で、国家の歴史を改ざんした藤原不比等の罪は大きく、残されたものの力で真の歴史を解明していく必要があると思います。

投稿者 tanog : 2015年08月15日 List  

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コメント

百済を救済する必要は地理的にあったのでは。
米軍だったとしても同じように介入すると思う。

投稿者 匿名 : 2015年8月31日 02:42

蘇我氏は朝鮮人ではないですよ.
仏教を持ってきたという事に注目です。

投稿者 匿名 : 2015年9月14日 09:51

はじめまして。ももちゃんの古代史です。
わたしは日本書記で書かれなかった日本の縄文時代からの古代史解明をしたいと、研究してきました。そして藤原氏が改竄して無視してきた日本の多くの古代史を探り当てようと頑張っていますが、ブログ読んでくれる人が少ないので反響がなく、ちょっと書いてみました。よかったらご連絡ください。

投稿者 momoちゃん : 2015年10月15日 02:12

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