| メイン |

2014年12月25日

地域再生を歴史に学ぶ~第2回 地域空白期は力ずくの律令制が作った

日本の地域共同体の歴史を縄文時代の後、どう変遷していったかについて見ておきたい。

 【失われた古代集落】
日本は九州から西日本、中部地方にかけて10世紀を境に古代集落が消えるという現象が起きている。これはヤマト時代から奈良時代、平安初期にかけて繁栄した地域が9世紀から10世紀にかけてきれいさっぱりと無くなっているのだ。これは考古学的に証明されており、自然災害など、いくつかの複合的な理由はあるが中心的な理由は社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊にあるとされている。
失われた地域←PDFにて地域の変遷を表記

 にほんブログ村 歴史ブログへ

japan

↑日本の屯倉分布

古代集落の成立過程にまで遡らなければならない。
古代集落とは言っても畿内の場合、その始まりは古くても6世紀末からである。この時期を集落の再編と呼んでおり、古墳時代の集落(言わば縄文以来続いてきた集落)が一旦途切れて再編成されたのがヤマト時代の集落だった。

ヤマト時代から奈良時代にかけて日本は唐の外圧を受ける中で、国としての体裁を整え、かりそめであれ律令制を敷く時代に突入する。最初に行ったのが戸籍制度、そして各地方を押さえる屯倉とその後の郡司の登用である。屯倉は渡来人が担ったが、継続する中でその地域の土着的リーダーとなり、対外的な交渉も担った。当然母集団からは一定信認を得ていた実力者だった。国は律令制度を急ぐ為に各地域を実質的に押さえていた首領を郡司と名づけ、土地の分配と税の徴収を委託したのである。さらに国は国司という中央役人を作り定期的に郡司を回り、徴税の点検をしていただけであった。

元々地域の首長である郡司を徴税役人にまつり上げ、国の役人(国司)が点検する。古代律令の徴税制度はいたってシンプルであった。

唐の外圧が高い奈良時代から平安時代にかけてはそれでも十分に機能した。
しかし平安時代中期(9世紀前半)に唐が国力を失うと状況は一変する。奈良時代の頃は地域の名実備えた人物が郡司を担っていたが、律令制が敷かれて200年も経過する過程でその力は肩書きだけあるいは、単なる地方役人になりさがっていった。
郡司という職名も10世紀で無くなり、国の直轄者、受領という役職に代わっていく。

外圧の緩み、地方の自治力の低下が相まって、もともと人工的に集められた擬似集落はあっという間に崩壊していった。それが日本の古代集落の最初の変遷であり、言い換えれば郡司の始まりと終わりが最初の日本の集落の歴史でもあった。

【集落の再編は新たな荘園制度から始まった】
日本の古代地域はヤマト、奈良時代に再編され、平安中期に再び解体再編された。平安中期の再編の牽引役となったのが受領であり、彼らが略奪私有した土地で始めた新たな荘園制度が次の地域の牽引役だった。しかし律令制度を初めて本格的に実施しただけであり、中央から受領が送り込まれ、実質彼らが庶民を土地に縛り付けて徴税を貪ったという段階に過ぎない。この段階は大衆史的には地域としての主体性も土着的な共同性もまったくもって失われていた暗黒の時代と言わざるを得ない。平安後期の10世紀から鎌倉時代の13世紀にかけては我が国で最も共同体が失われた日本史の中の地域空白期に相当する。

【荘園制度の実態】
日本の地域社会を紐解くのに荘園制度の理解は必要不可欠である。
律令制とセットになって登場したのが荘園制度である。荘園制度は8世紀に墾田永年私財法として法制化され神社、寺といった半官僚機関に土地私有を開放する。10世紀にはさらに法改正されて開発すれば誰でも私有できる寄進型を取り入れて爆発的に農地面積は増大した。その後荘園制度は天皇が変わるたびに整理令が出され、不正な荘園拡大に規制をかけていく。制度が時々の為政者の都合でころころ変わる、あるいは解釈の仕方でいくらでも法の抜け道があるこの非常にわかりにくい荘園制度とはいったいどういう制度なのだろうか。

img_0

↑日本の荘園分布(屯倉分布と近似している)
大きくは国土(農地)開発という大儀がありながら、土地私有を追認した矛盾した制度なである。つまり、国力増大、曳いては為政者の為の税収拡大を図る為に配下の番頭たちの私権意識を刺激し小出しに裾野を拡げていった大衆支配の為の支配制度である。
古代から中世にかけて日本はこの荘園制度によって開墾地は飛躍的に増えるが、それと併せて大衆支配は郡司⇒国司⇒受領⇒地頭とその時々で変化しながら強まっていく。

この荘園制度が複雑で見え難いのはその本質に騙しや、意図隠しがあるからで、土地を国有化してストレートに武力や権力で支配するのと違って大衆の反発を買いやすく、さらに支配者自身が荘園制度で力を付けた部下から逆転を食らうというリスクを伴っている。
私権活力を使うが故に、社会秩序が常に安定しなかったのがこの荘園制度の最大の欠陥だったである。

【まとめ】
日本の地域共同体の歴史を見ていく際に、6世紀から13世紀にかけての中国風の律令制の禍根が負の足跡として残っている。縄文時代から弥生時代にかけて共同体の存続させてきた、人々の生きる基盤となった自治力はこの時代に影を潜めていった。しかし、それは完全に失われる事は無く、次の共同体再生の時代(惣村の時代)のステップとなっていった。農村自治の発生=惣村の登場とは荘園制度が生んだ派生物とも言えるが、裏返せば荘園制度によってずたずたになった社会秩序を再生する為に登場した自発的な組織だった。

参考:学術文庫「律令国家の転換と「日本」」

投稿者 tanog : 2014年12月25日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2014/12/2558.html/trackback

コメントしてください

*