空海は縄文である2~密教の本質は徹底した現実肯定にある |
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2020年07月30日
空海の仏教~曼荼羅にみる女性原理と宇宙観
真言密教で描かれている胎蔵界曼荼羅は、物質原理や女性原理を表しています。 中央の大日如来が大宇宙を遍く照らしている図となっており、それによって宇宙の発展形態が示されています。 大日如来の光が全宇宙に広がることで一切が成立している様子(物質原理)と、女性の胎内で生命が成長するように大宇宙が生成発展する様子(女性原理)が描かれているのです。
一方、金剛界曼荼羅は、精神原理や男性原理を表しています。基本となる大枠が9マスあり、右下から渦巻き状に進んで中心(内なる宇宙)に達するように描かれています。心が進歩向上し、即身成仏するプロセス(階梯)というわけです。即身成仏は、特に男性の役割であると考えられたのでしょう。
空海は、女性原理と男性原理を用いて曼荼羅で宇宙の原理を表現しようとしました。
今回はちょっと難しいけれど、空海が求めた即身成仏(生きながらにして悟りを開く)道について紹介します。
空海の仏教―密教曼陀羅マンダラに見る宇宙観。1https://ameblo.jp/tta33cc/entry-11602214550.html
密教には「金剛頂教(こんごうちょうぎょう)」によるものと、「大日経(だいにちきょう)」によるものとがあります。
前者は金剛界系、後者は胎蔵界系と呼び分けられています。
恵果はこの両方をひとりで受け継いだことになります。空海は、この恵果から直接受け継いでいます。
密教は、顕教(けんぎょう)――すなわち、ひろく民衆に向かって説かれ、その世界観を明瞭なことばで説く通常の仏教に対し、密教は自己を非公開のうちに教団内に閉鎖し、秘密の教理と儀礼を師資相承(ししそうしょう)という伝授法によって伝える仏教です。
これは象徴主義的な儀礼ないし観修法によって、宗教の理想を達成しようとする特徴を持っていて、起源は仏教よりも古いヴェーダ時代、ブラフマンの祭式神秘主義に求められるものです。その根底には世界の女性原理的な実在性、ないしは、その多様な発現に対する信頼がもとになっています。女性的原理の霊力のあらわれである大母神、ないし、その下位のさまざまな神格の崇拝に、ヨーガの実修をもあわせ持たち、これらは多様な土俗的要素を取りこんだ原インド的な実体をもつといわれています。
歴史的にいえば、雑密(ぞうみつ)、純密、タントラ仏教というプロセスを経て展開され、雑密とは、世界の女性原理的霊力をそれと同置された呪文、術語でいう真言(マントラ)、明呪(みょうじゅ ビディヤー)、陀羅尼(だらに ダーラニー)などをとなえることによってコントロールし、目的を達しようとするものです。
「金剛頂教」と「大日経」は、ここでいう純密です。
前者は象徴的人間に表現された仏の世界を、人間世界の外側にある実在的なものとしてとらえ、「象徴されるものと、象徴それ自体は同一である」という瑜迦(ゆが)=ヨーガ的合一の考えにもとづいて三密加持(さんみつかじ)、つまり自己の身体的な動作によって諸尊の動作を模したり、口にそれらの真言を唱えて、それらを象徴する形象をよく観相して、自分を実在界のひとつの象徴としてとらえることで、即身成仏をはかろうというものです。
いっぽう後者は、大乗仏教、ことに「華厳経」が説く世界観、――つまり世界を宇宙的な仏ビルシャナの内実と見られており、あるいは普賢(ふけん)の衆生の利益の行の曼陀羅と見る世界観を絵図にして、儀礼的にその世界に参入しようとするものです。
タントラ仏教は、世界の女性原理を般若波羅蜜(はんにゃはらみつ仏母、すなわちさとりを生む智恵)としてとらえ、それを生身の女性(大印)とおき替えて、それと性的に瑜迦(合一)することで、中性的な真実在のさとりを求めようとするものです。
原始仏教のころにも、すでに神秘主義的な呪術的、儀礼的な要素がいろいろな形で潜在していたらしく、大乗仏教が興った2~3世紀ごろになると、パリッタと呼ばれる密呪を中心とした単独の除災経典がつくられ、代表的な大乗経典である「般若経」、「法華経」、「華厳経」などにも一部に密呪が説かれました。釈迦仏教には見られないものです。
さらに4世紀になると、密教的な儀礼がより発達し、7世紀になると、「金剛頂経」、「大日経」などが成立していきます。
これらの経典によって、除災招福など、現世の利益を目的にした思想がつけ加えられ、修法の一目的であったものが、成仏を目的とするものに変化していきます。その時点で教祖が釈迦から大日如来になりました。
さらに、宗教体験の世界を象徴的に表現する曼陀羅がやがて登場します。以後、8~12世紀にかけて、密教はインドにおける全盛期を迎え、多くの経典・儀軌などがつくられ、とくに「金剛頂経」がいちじるしく発達していきました。
漢訳もはやくから行なわれ、とくに「金剛頂経」のおびただしい数の経典が中国にもたらされ、密教を国家仏教の地位にまで引き上げました。不空の弟子であった恵果は、それまで別個の流れであった「金剛頂経」系密教と「大日経」系密教とを両部不二とみて一元化することに成功します。
そして彼はのちに真言密教の思想体系をつくります。
これを日本的で再構成したのは、天台宗の開祖最澄と真言宗の開祖空海でした。中国では、密教の立役者は何といっても恵果の功績がいちばん光っていると思います。
さて、空海はこの恵果から、両界の伝法阿闍梨(あじゃり)位の灌頂(かんじょう)を受けているのです。これは驚くべきことです。
空海の「大不思議」https://medium.com/8th-sense/kukai-34a4d3284279
◇大宇宙と自分を一つに結び、念う存分、天命に生きる!◇
密教とは一体何でしょうか。超能力を開発したり、願いを叶えたりするための祈祷仏教と思っている人も多いことでしょう。「秘められた教え」と言われる密教は、その名からも謎めいた不思議な雰囲気を感じます。
密教に対して、普通の仏教を「顕教(けんぎょう)」といいます。普通の仏教は、釈尊という実在の人物を通して学ぶ仏教です。一方密教は、顕教の背後にある大宇宙の統一原理(大日如来)から直接示される教えのことで、それは自分で直接掴まなければなりません。
密教を一言で言えば、大日如来と自分を一つに結び、思う存分天命に生きるための教えということになります。大日如来は、大宇宙の原理であるところの最高仏です。修行によって凡夫が大宇宙と合体し、仏陀(目覚めた人)となるのです。
それを梵我一如(ぼんがいちにょ)と言います。梵我一如の「梵」はブラフマンという大宇宙の原理、「我」はアートマンという自己の内なる根源のことです。
それらが一体であることが梵我一如です。天人合一や神人一体とも言い換えられます。
目覚めた人である仏陀に成ることは「成仏」とも言い、顕教ではそれがゴールです。ところが密教は、成仏は出発点に過ぎず、そこから思う存分天命に生きる人生が待っています。
即ち、天から受けた我が使命であるところの「天命」に気付いた状態が成仏であり、そこをスタート地点として思う存分、生命を輝かせて利他大乗(世のため人のため)に生き抜くのが密教的人生ということになります。
言葉には「見える世界と見えない世界を繋ぐ」という、言霊 (ことだま)の働きがあります。既に実現した世界が「見える世界」なら、まだ夢や計画の段階が「見えない世界」です。両者を結ぶのが「構想の宣言」や「志の表明」で、それらを言葉として表しますと、言霊となって実現がグッと近付きます。
意は心のことで、心に仏を観じる(観想)行を、曼荼羅(まんだら)を使ってやります。曼荼羅は、宇宙の真理を表現した諸仏の大集合図絵です。代表的な曼荼羅は、胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅と金剛界(こんごうかい)曼荼羅です。
胎蔵界曼荼羅は「大日経」という経典に基づいており、物質原理や女性原理を表しています。中央の大日如来が大宇宙を遍く照らしている図となっており、それによって宇宙の発展形態が示されています。大日如来の光が全宇宙に広がることで一切が成立している様子(物質原理)と、女性の胎内で生命が成長するように大宇宙が生成発展する様子(女性原理)が描かれているのです。
金剛界曼荼羅は「金剛頂経」という経典に基づいており、精神原理や男性原理を表しています。基本となる大枠が9マスあり、右下から渦巻き状に進んで中心(内なる宇宙)に達するように描かれています。心が進歩向上し、即身成仏するプロセス(階梯)というわけです。即身成仏は、特に男性の役割であると考えられたのでしょう。
胎蔵界曼荼羅は広がる大宇宙を、金剛界曼荼羅は自己の内なる宇宙を表現しており、二つの曼荼羅の観想によって、宇宙と自分を結んで梵我一如となっていきます。
そうして、曼荼羅の前に背筋を伸ばして座り、手に印を結び、真言を唱えながら観想を行います。そうすれば、仏の力が我に至り、我の力が仏に及びます。前者が「加」、後者が「持」です。合わせて「加持(かじ)」となり、そうして祈ることを加持祈祷と言います。加持祈祷は、梵我一如によって自由自在の力を身に付け、利他大乗に生きるための行なのです。
投稿者 tanog : 2020年07月30日 TweetList
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