2020年7月30日
2020年07月30日
空海の仏教~曼荼羅にみる女性原理と宇宙観
真言密教で描かれている胎蔵界曼荼羅は、物質原理や女性原理を表しています。 中央の大日如来が大宇宙を遍く照らしている図となっており、それによって宇宙の発展形態が示されています。 大日如来の光が全宇宙に広がることで一切が成立している様子(物質原理)と、女性の胎内で生命が成長するように大宇宙が生成発展する様子(女性原理)が描かれているのです。
一方、金剛界曼荼羅は、精神原理や男性原理を表しています。基本となる大枠が9マスあり、右下から渦巻き状に進んで中心(内なる宇宙)に達するように描かれています。心が進歩向上し、即身成仏するプロセス(階梯)というわけです。即身成仏は、特に男性の役割であると考えられたのでしょう。
空海は、女性原理と男性原理を用いて曼荼羅で宇宙の原理を表現しようとしました。
今回はちょっと難しいけれど、空海が求めた即身成仏(生きながらにして悟りを開く)道について紹介します。
投稿者 tanog : 2020年07月30日 Tweet
2020年07月30日
空海は縄文である2~密教の本質は徹底した現実肯定にある
前回「空海は縄文である」という記事を投稿しましたが、密教そのものの思想性については詳しく触れていませんでした。
最近、梅原猛氏の「空海の思想について」という著書を読みました。その中に空海の説いた密教の本質が描かれていました。今回はそこを切り取って転載する中であたらめて空海は縄文であるという所以を考えていきたいと思います。
釈迦の説いた仏教と空海の説いた密教、それはまさに180度反転した思想でした。
私は空海の持つ縄文体質故にが中国で密教直系の恵果から「運命的出会い、来るべき人」として全面的に迎えられ、伝えられたのでしょう。その縄文性とは密教の持つ現実肯定であり、物質の中に精神が宿るとしたアニミズム性です。
以下、7つの本質と思しき文節を紹介します。
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仏教がもっていたこの現世にたいする否定的精神を否定する。
それが密教の精神であり、それこそ、大乗仏教の究極的精神であると彼は言う。
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つまりここで、仏教そのものが釈迦依頼その内面に深くもっていた世界に対する否定の意志をほぼ完全に放棄するわけである。もとより、世俗の世界を構成している欲望がすべてを肯定されるわけではない。あの人間を不幸に落とし入れる欲望は否定され浄化されるが、しかし欲望そのもの、浄化され普遍化された欲望そのものは大欲として肯定され、そして世界そのものはかつて仏教の歴史において存在しなかった強い全面肯定の感情で、ほぼ全面的に受け入れらるのである。
世界というのはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限な宝を見つける事ができない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある。世界の無限の宝を開拓せよ。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。
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身とは六大であると、空海はいう。六大とは何か。六大とは、地水火風空の五大に心を加えたものである。
このうち五大は、いわば物質的存在である。地水火風空の5つの原理で、あらゆる物質はできていると考える。しかし、物質的原理のみで、ものは存在しているのではない。物質的原理に必ず精神的原理が加わっている。この精神的原理が、心と言われ、識といわれ、また覚といわれ、智といわれるものである。
ここで身体性の原理が100%肯定されているのである。この身体というものは多くの宗教においてわれわれの精神的な活動をさまたげる悪なるものと考えられてきた。西洋のプラトン哲学においてもそうであるし、キリスト教においても、そういう傾向が強い。仏教においてもやはりそうである。それは釈迦仏教をそのまま伝える阿含系の仏教においてはもちろん、また大乗仏教の龍樹、世親においてもそういう傾向はまぬがれなかった。
しかし、ここで身体性の原理を、はっきり肯定するのである。この身体を除いて、どこにわれわれの住む世界があろう。
身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。密教はあの唯識仏教のように、単なる唯心論ではないのである。そうではなくてそれは、物質的原理を、精神的原理以上に強調している。身体はすなわち、わが内なる物質なのである。物質が肯定されるとき、客観的世界が肯定される。密教は偉大なるコスモロジーをもっている。コスモスの中で我々の存在が考えられるのである。
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密教は世界をその表現の相においてとらえる。この表現というのが声字である。声字というのは、ただの声ではない。すべて、われわれが感覚でもってうけとることの出来る世界の告知はすべて声なのである。密教は表現的世界を重視する。この点においても、密教は浄土教や禅と異なる。しかも密教は、この表現的世界が無限に深い意味をもっている事を強調する。われわれは、表現的世界を通じて世界を把握する。しかしその表現的世界はあまりにも深い意味をもっていて、いくらわれわれがそれを把握しようとしても、常にわれわれの指からもれるのである。そういう容易に捉えがたい深い意味を、そのような表現的世界はもっているのである。密教はこの深い意味をもった表現的世界に肉薄しようとする。
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この世界は愚者にとっては迷いである。しかしその同じ世界が智者にとってはむしろ楽しみなのである。この世界はもとより、妄見ではないが、しかしそれは永遠のものの現れなのである。現れた世界はそれなりに楽しい世界なのである。密教においては、悟りはまた楽しみなのである。この世界はこのように二面性をもっている。この世界をよく悟り、その世界によく遊べ、それが密教の教える生の哲学である。
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人間はいつもとらわれの世界に住んでいる。自己にとらわれ、他者にとらわれ、小さな世界に捉われているので、自由を得ない。自由をえないから本当に楽しくない。そういうとらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体になることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる。空海の語った事も、所詮、そのような単純なことにすぎないように思われる。
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密教は無我を言わない。無我の代わりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲をとく。ここが密教と他の多くの仏教宗教、たとえば禅とのちがっているところである。
禅では否定の契機が強いのに対し、密教では肯定の契機が強い。人間ばかりか、一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。しかも我と欲は人間存在の根源であるとともに、あらゆる人間的論争と妄想の根源でもある。この我と欲を脱却せよ、禅はその為に、無我、無欲を説く。しかし果たして人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることでないとしたら、いたずらに人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。密教は何よりも強烈な生命力を説く仏教である。
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