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2014年04月22日

日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 6、明治時代~「富国強兵」・近代国家を担う人材の育成~

開国開国

 みなさん、こんにちは!

 前回は、江戸時代の「武士道」を通して培われた全人教育=帝王学をご紹介しました。この時代、領地や民を統治する者は、様々な共同体を調整・運営し、共存・存続させていくことを求められました。江戸時代には、藩校のみならず、民衆にも共同体教育が行き届いていたからこそ、激動の明治期に日本はスピード感をもってこの危機を乗り越えていったと考えられます。 

 今回は、激動の江戸末期から明治時代の帝王学を見ていきます。特に、この時代は、良くも悪くも、近代国家の基礎が形成された時代でした。「富国強兵」の名のもとで、日本は大きく変わってしまった時代でした。

  私たちが古来より連綿と受け継いできた、共認原理による社会統合システムが、私権・市場原理に基づく中央集権国家の体制へと変貌を遂げたわけですが、そこには、統治するものの帝王学なるものがあったのでしょうか?彼らは、欧米列強の下僕と化してしまったのでしょうか?また、庶民は、お上の仕事として容認・捨象して、よき日本の本源性を失ってしまったのでしょうか?

 では、明治時代の帝王学を見ていきましょう。

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貞観政要貞観政要

◆当時の時代
 19世紀の100年間は、アジア諸国を混乱へと突き落としたすさまじい時代でありました。産業革命を達成したヨーロッパの列強諸国が、植民地を求めてアジアに押し寄せてきた時代です。日本とて例外ではなく、その略奪圧力は相当なものでした。
 江戸幕府 250年間は、鎖国によって、民に世界情勢がまったく伝わらず、みな日本という小国が世界のすべてであるかのように錯覚していました。そこに、近代を象徴する巨大な蒸気船に乗ったペリーが来航し、開国を迫ったのです。
 突然の出来事に、呆然とただろうと思います。しかし、国内で純粋培養されてきた日本人に強烈なアレルギー反応が沸きあがりました。その後、尊王攘夷運動が猛然と沸き起こり、その処置に失敗した幕府は、民心を失ってペリーの来航からわずか15年で倒れてしまいました。

【・・・・日本は列強の植民地にされてしまう!・・・】

 新たに誕生した明治政府は、強烈な危機感を抱き、ものすごいスピードで近代化を推進していきました。数十年の間に憲法をはじめとする諸制度を整備し、日清・日露戦争に勝ってアジアの強国へとのし上がっていったのです。しかし、両大戦で勝利したことが、日本の進路を誤らせてしまったようです。その後は、軍部が台頭して軍国主義国家に変貌をとげ、「大東亜共栄圏」という幻想を抱いてアメリカとの勝ち目のない戦争へ突き進み、ついに敗戦国となってしまいました。しかし、戦後、アメリカの主導とはいえ、非軍事・民主国家として日本は再生していきました。日本人の持ち前である、勤勉さと本源性(共同体性や受入体質)、高い観念力と技術力を基礎として、急激に市場を拡大し、1950年の特需景気以来、20年に渡る高度経済成長を続け、世界有数の富裕国となっていったのです。

◆なぜ、短期で日本は変われたのか?
こうして江戸末期から昭和初期まで俯瞰すると日本の強さが理解できます。しかし、なぜ、江戸末期から明治初期にいたる変革がこのようなスピード感をもって実現できたのでしょうか?他国には見られない改革スピードです。
明治初期は、政治、経済から庶民の生活基盤、人々の意識や日常生活に至る、あらゆる面において変革が迫られています。
 欧米列強の植民地化(=同類闘争圧力=略奪闘争圧力)は強制力をもって進められたようで、アジア諸国が次々と植民地にされてゆきます。その圧力の中で、日本の統治者は、この日本をどのようにしようとしたのでしょうか?
 古来から連綿と続く、大陸・半島由来の統治者の属国意識と民衆のお上捨象意識が、明治期の日本人の意識として支配的ならば、明治初期の改革は、もっと遅れ、他国同様、植民地化=掠奪されていたでしょう。仮に、統治者の属国意識が強ければ、植民地化は免れず、また、民衆がお上のやることだからしかたがないと思っていたら、改革に反対する庶民の運動や制度への共通認識は形成されていかなかったと思われます。
(参考: 『明治時代初期:なぜ、学校一揆や学校焼き討ちが起こったのか?』(斎藤幸雄さん)

 これらの属国意識やお上捨象意識は、弥生時代に縄文気質と融合して日本人独特の発想に転換しました。以前、当ブログの『日本人の民族特性こそ次代の可能性4~支配者層の特性とは?(1) 属国意識の正体とは』を参照下さい。

昭和初期まで本源性を色濃く残した日本から振り返ってみると、私は、江戸時代末期までの村落共同体で教育されてきた共同体教育(全人教育=集団第一・仲間第一)が、統治者も含む、多くの日本人に、既に高いレベル浸透し、共認力と観念力が備わっていたと考えられます。この状況が改革のスピードを加速し、維新改革を実現したのではないか?と考えています。
しかし、所詮、世界情勢は、私権社会のパラダイムの中で、資力と武力が制覇力の時代でした。その中で作られたシステムをいくら模倣しても、結局は、私権・市場原理の導入は日本においても避けられなかったと思われます。
例えば、ドイツに憲法体制を真似し、教育思想をフランスに求めようが、イギリスから工業技術を導入し、ロシアから官僚育成のために専門の知識人・技術者を招き入れたとしても、全ては、私権パラダイムの中で足掻くしかない状況であったと思われます。
(参考:『明治時代の工業発展と市場化の実態』(西谷文宏さん)

一旦は国家理念の元に収束し、スピード感をもって全ての統治システムを変革しましたが、その一方で、付けが、廻ってきます。中央集権国家体制を敷く必要から、大量の官僚(=統治者の予備軍)を育てるために明治初期に導入された教育制度が官僚集団の自閉性を助長し、全体性を見失って、統治者の論理(日本をどうする?=帝王学)が消えうせていきました。この官僚の促成栽培である教育システム=学制・教育令が、大きな問題となっていきます。
(参考:『明治の急激な中央集権化に伴う官僚不足と、その促成栽培が、その後の官僚制度の弊害を生み出した』(山田孝治さん)

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 ◆帝王学を失っていった明治の教育制度改革とは
まず、当ブログからご紹介します。欧米・諸外国の同類圧力(略奪の圧力)を受け、明治時代にどのような教育がなされたのか?が分かる記事です。
明治時代に近代官僚制に移行したのは、大国の圧力に対抗する必要から生じて、欧米列強に伍する国家を急いでいたためとあります。明治政府は、近代国家へ転換するため大量の近代官僚を育て上げる近代学校制度をいち早く整備していきます。しかし、近代思想を体得した人間などいるはずもなく、かつ、近代国家・日本を動かす官僚に必要な資質もないところに、国家の準備した学校に通うというモチベーションを持ち得なかったとあります。立身出世という価値観をも捏造し、結局は、みなこの学校制度に収束し、促成栽培の官僚を作り上げていきます。

◆ 『明治日本の近代官僚制の導入 ~自閉的共同体がもたらす弊害~(ないとうさん)』

~前略~
■近代学校制度が担った役割は、それだけではなかった。
それまで”藩”という共同体の上に、”幕府”という緩やかな共同体が乗っかって幕藩体制を構成していた日本において、「官僚になるために東京に行く」ことは、若者にそのような動機(欠乏)が元々ないという点でも、地域共同体においては受け入れ難いという点でも、大きな断絶があった。
これは、私権欠乏を最大化した後に「市民革命」によって近代国家を作り上げていった西欧諸国と決定的に異なる点である。
「学問は身を立るの財本」「人たるもの誰か学ばずして可ならんや」とうたった学制序文(被仰出書おおせいだされしょ)とともに頒布された学制は、勉強をすることにより立身出世をしようという気運を高めていく。学校制度の頂点にある東京大学は設立当初から(当時の憧れの職業である)官僚の予備軍のための大学であったから、尋常小学校から帝国大学へと続く”学校制度”は、立身出世の道そのものだった。こうして、全国一律の学校教育制度は、「勉強すれば立身出世の道がある」ことを示し、東京大学を頂点とした学校制度が権威化され認知されていく。
☆つまり、近代学校制度とは、近代国家を担う官僚養成のための機関であり、かつ近代国家の理念を受け入れさせ近代人を作るための巨大な洗脳機関として始まったと言える。近代国家への転換の必要が、近代官僚養成⇒任用の必要を生み、それが近代国家理念の洗脳の必要を生む、それらを総合的に担っていたのが、近代学校制度だったのだ。

■拡大する学校制度・試験制度
明治維新により士農工商といった身分制度は解体され、四民平等の理念が広がっていく。これは、それまでの強固な生涯固定の身分制度が崩れ、万民に私権(金や身分)拡大の可能性が広がったことを意味する。万民の私権獲得欲求を正当化した平等観念の下、「公平な」試験が希求された結果、ペーパーテストが重視され人物査定が軽視されていく。ペーパーテストが重視されていった結果、ペーパーテストに合格するための方法論も発達していく。明治30年代には既に「受験熱」が高まりを見せていた。
さらに官吏の任用の他に、様々な職業資格において政府の認める一部の高等教育機関の卒業者に国家試験を受けなくても職業資格が認められるなど、特典が与えられる制度が存在した。また、それぞれの職業内部で、卒業した学校による昇進や出世の差もあらわれはじめていた。これが、学歴への収束を強めることになる。

■官僚制度の弊害
「『官僚化訓練』によって無能力していく」「『法規万能主義』により柔軟な対応が出来なくなる」などの官僚制度、試験制度の弊害は、明治時代から既に登場していた。
加えて、戦前の日本において、日本の行く末に大きな影響を与えたのは、官僚組織が自閉化していく(=集団自閉に陥る)という問題だった。海軍の人間が、海軍を第一に考え行動し、陸軍の人間が、陸軍のことを第一に考え行動するようになる。つまり、「国民のため」を思って取る政策が、矮小化された自閉的共同体の利益を代表したものになっていった。
それぞれが自閉化し、また各自閉的共同体の存立を正当化しているため、各省庁の権限を拡大が最重要課題となる。問題を作り上げ(でっちあげ)その為の人間・予算を要求するようになる。つまり、官僚制度を維持するために、官僚が課題をでっちあげ、組織・予算とも肥大化していった。
★これは、官僚制度そのものが自己目的化し、肥大化していくことを示している。
★この現象は、古代国家における古代官僚制の構造(軍隊の必要→徴税官僚の必要→官僚を食わせるための重税の必要→経済政策のための官僚の必要→・・・)と同様であると言える。

■自閉的共同体
こうして、強力な理念の下に統合されるはずだった国家は、自閉的共同体の寄せ集めとしての国家となり、止める者がいなくなった結果、暴走し始めることになる。
○岸田秀「歴史を精神分析する」
日清日露両戦役時代の日本軍の上層部は、薩長出身者が主流を占めていたものの、それぞればらばらな地方の下級武士階級の出身者も多く、軍部として一つの共同体を成しておらず、生まれたばかりの新しい日本国家に忠実であることができた。
ところが、昭和になると、陸士海兵を優秀な成績で卒業したエリートが軍部官僚となり、同窓生の関係や血縁のほかに相互の頻繁な通婚もあって一つの自閉的共同体を形成した。自閉的共同体となった軍部は、すでに述べたように、もはや日本国家と国民のためではなく、軍部の栄光の為に(陸軍は陸軍共同体の、海軍は海軍共同体の栄光のために)戦うことになり(しかし、そこに自己欺瞞が働いて日本のために戦っているつもりである)、とんでもない戦争をついやってしまうのである。

■日本固有の「外圧への対処方法」
諸外国からの強い侵略圧力
 ↓
カタチだけ(ガワだけ)取り入れる
 ↓
当初は、国家理念の下、統一される
 ↓が
すぐに自閉的共同体の集合体となる
この流れは、何もペリー来航から明治維新、明治政府樹立の時に限ったことではなく、天智天皇・天武天皇~藤原氏支配における律令制度導入と、なんら変わりが無いことが分かる。
日本という国は、何度も制度変更をしながら、しかし「外圧を受けた時の対処の仕方」は古代以来一貫して変わっていないのである。
(by ないとう)

 また、次に紹介する安岡正篤先生のブログでは、尋常の心と題して、人造り・国造りを位置づけています。これらを捨象した明治時代のインスタント官僚育成教育制度の弊害が見て取れます。先生のおっしゃる『人造り・国造り』とは、集団性・全体性を獲得した人材の育成(=全人教育)の必要、そのものであり、本源性に立脚した為政者の育成に他ならないと思います。明治維新当事の統治者の意識には、このような価値観が存在したと思われますが、欧米の圧力のおされ、性急な改革を求められたあまり、以後、促成栽培の教育がこれらを置き忘れてしまったと論考しています。
『明治時代からの教育の根本な誤ち~疎かにされた『尋常の心』 中村英起さん』

 

晉風舘 blogより

■国造り・人造り
(略)「国造り・人造り」というと、今の内閣がはじめたようなことのようにみなさん取り扱っておられるが、これも明治維新の時に、国を挙げてやったことであります。先ず国造りからやったのでありますが、国造りといっても結局は人造りだというので、国造り・人造りということになったわけであります。

~中略~

■おろそかにされた精神教育・道徳教育
然し本当は、小学校を本位に順々に築き上げてゆくべきでありまして、ここに日本教育の、人造りの大きな失敗がある。当時の事情から言うと、無理からぬ点もあるわけでありますが、これは今日も流行のインスタント主義の一つの過ちであります。

国造りのためのあわただしい人造りであるから、目的達成のためにはなるべくインスタントに、なるべくスピーディーにやる必要がある。だから落ちついた人造りではない。学校教育の主眼が、はやく国家の必要とする知識や技術に応ずることの出来る人間をつくる、ということにあるのですから人間にとってもっとも大事な、人間として当たり前の、信仰とか道徳、人格というような面の教育はどうしてもおろそかになる。

人間にとって精神教育・道徳教育が如何に大事であるか、これはもう当たり前の事、申すに及ばぬことである、尋常のことである。尋常とは「常を尋ねる」で、およそ人間である限り、古の人であろうが、今の人であろうが、東の人であろうが、西の人であろうが、何時、如何なる時代、如何なるところに生まれても、絶対に変わることのない法則、つまり常則、これを究明するのが尋常ということであります。

だから如何なる境地に臨んでも、変わらずに持たねばならぬ心を尋常心、平常心という。どんな危うきに臨んでも、よし死に直面しようとも、常の心を失わないことを尋常の覚悟という。
教育はそういう意味の人間、精神、道徳、人格をつくる。これは尋常のことである。その深い意味を忘れて、尋常というと、当たり前のことである、つまらないことである、どうでもよいことである、という風にだんだん誤解して来た。

そして尋常小学校とか、尋常中学校とかいうと、当たり前のつまらぬ学校で、高等学校、大学を偉いものだ、という風にとんでもない価値転倒の逆立ちした考えになってしまって、もう世の親達は、小学校や中学校だけで可愛い子供を終わらせてはつまらぬ。なんとかして上の学校に入れて、日進月歩の知識・技術を修得させねばならぬ。教育というものは子供を学校に入れることだというので、家庭でも精神・道徳・人格・修練などということを一般に等閑にしてしまいました。

ここに明治時代からはじまった教育の大きな誤りがある。教育というものを学校に限って、家庭から離してしまった。その学校が尋常ということの意味を忘れて、専ら高等ということに走って、教育の主眼を日進月歩の西洋的知識・技術の修得においた。ここに人間としてとんでもない錯誤が起こった。

(『日本の伝統精神』/安岡正篤 より引用)

 

欧米人

◆明治期の帝王学はなにか?どこにいったのか?
 明治期の統治者の論理は、何はともあれ、植民地支配の圧力を跳ね返すべく、富国強兵・殖産興業に代表される中央集権的な国体作り出すことにあったと思われます。しかし、それは、共同体日本を解体することに他成りませんでした。

 その中でも、江戸時代の武士道に代表される規範教育・学問、共同体での全人教育を経験した維新の為政者たちは、『日本をどうする?』という帝王学に支えられて、国家を導いてきました。彼らは、私権原理と市場原理の押し迫る中、外圧に晒されながらも、日本独自の社会統合システムを勉強し模索していったのだろうと思います。

 ですが、それはあくまでも私権パラダイムの中での模索であって、それを抜き出ることはできず、国策として推し進めた政策は、日本を守るため=共同体を守るためとはいえ、悉く、金貸しや欧米列強の目論見どおりに進み参考:『金貸しの存在基盤は国家からの収奪。そのための支配戦略が戦争・革命と共認支配。』(冨田彰男さん)
、徐々に、共同体日本の解体が始まっていったのでした。

 しかし、あまりにもハードランディングな国体形成に、統治者の論理=帝王学(人造り・国造り)を捨象した官僚を促成育成し、国家体制の官僚集団の自閉性を招きました。明治以降、対外国との戦争に走ったのも、この寄せ集めの官僚→官僚集団の自閉性→己の利権しか考えない→止めるものがいない官僚・軍部の暴走→戦争へとつきすすみ、国家を食い物にする金貸しや欧米列強の思惑にはまっていってしまったのです。
 
 さて、ここまで見てきました。その後日本は、日清・日露戦争に勝利して、道を誤ってしまいました。軍国主義時代は、官僚主導の暴走による皇国史観をもって、日本は邁進してきますが、1945年の敗戦をもって、日本はリセットされます。
 次回は、この『終戦から1970年豊かさ実現(=貧困の消滅)までの時代の帝王学』まで扱う予定です。乞うご期待・・・

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(by2310)

投稿者 2310 : 2014年04月22日 List  

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