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2017年04月20日

日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第5回「共同体社会としての日本」

縄文社会と現在の日本を繋いでいるのが集団形成のあり方だと思います。

現在の日本を見ると都市化、西洋式の個人主義がはびこり、最小単位は家庭になりいよいよ縄文的集団性は失われたかに見えますが、わずか70年前、昭和の前半までは農村を中心とした地域社会やその元となった生きる為の単位集団が残っていました。
それは青年会であったり寄り合いであったり、遡れば農村集団が全て自らの集団を自ら運営する自治集団であった事にあります。さらに農村の原型を遡れば鎌倉から室町時代にかけて畿内を中心に発達した惣村という自治組織がありました。
現在でも企業社会ではやはり個を抑えて集団のために力を発揮する集団力は日本人の特性として他国と比べると確実に残っており、他にもスポーツの世界ではチームで争う競技でたびたび驚くような成果を上げています。また、先の東北震災や熊本震災など有事の際にはその集団性、助け合いの精神が一気に表に出てきます。

形はどうあれ我々のDNAの中に縄文由来の集団性、共同体性が消えることなく存在している事はこれらを見ても明らかです。
第5回はこの日本人の共同体性を見て行きます。

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★縄文時代~その集団性の特徴は「婚姻」と「祭り」に有り
共同体と言えば皆で力を合わせて何かを為すというように平和でポワンとした感じが浮かびますが、縄文時代の集団性は人類が始めて経験する同類闘争圧力を回避しそれを活力に練り上げていった創造活動だったのです。それが祭りであり、贈与であり、婚姻であった。
縄文人の神とは自然であり、自然と同化する事が祭りの基盤になっていました。それは激しい踊りでも有り、互いの意識を重ねる祭り的エネルギーでした。

参考投稿1~「祭り」の多面性と核心

>・本来動物の本能とでもいうか、心と体に鼓動を呼び起こし共に共振して、個々の集まったエネルギーをぶつけ合うことにより、理屈ではわからない自然の力によって、みんなで良い方向に生きようとする儀式である。
・祭りは「神を供応する」心から出たもので、神とともに自分たちも楽しむものなのである。それは神をもてなし、神が楽しみ、その恵みを受けながら人々も楽しむのである。
・祭りとは「祀る」ものである。祀る対象があって、そのために祭りをするのである。対象をあがめ、讃え、鎮魂し、そして一体感を得るために、血わき肉おどらせるのである。
・祭というものは本来3つの機能がある。一つは、喧噪。誇大なる喧噪、要するに大騒ぎ。それから一つは過大なる消費、ものすごくお金やものを使う。もう一つは性的な放埒さ・性的開放である。

参考投稿2~充足を基盤に大集団を統合した縄文人

>・縄文の中期ごろになると温暖化とともに人口増加→集団規模を拡大させ→分化していきます。縄張り確保や生産の協働、出産可能な女性を維持するための移籍など、部族の維持存続のため、単位集団間の結束力(求心力)を高めることが必要でした。そこで用いたのが、集団間の婚姻制(交叉婚)です。定期的に男たちが他集団を訪れて、女たちと交わり合います。性という根底的な充足と婚姻規範によって集団の結束力を維持しようとしたのです。 
・縄文のまつりは、日常的な性や踊り、精霊への祈りといった行為を基盤として、単一集団の日常的な営みにから、単位集団を超えた非日常的な営みへと発展していきました。集団の拡大は共認充足の低下を伴います。これは現代社会にも通じる肥大社会の宿命でもあります。 縄文人は、ともすれば薄れていく集団関係を性・踊りや精霊・祖霊にまつわる充足感・仲間意識を紐帯として、拡大していく“社会”を結束させていきます。遠方からの遺跡(婚姻)の形跡などからもその結束力は日常行動圏を超えた相当広範囲に至っていたことがうかがえます。

 ★奈良時代、平安を潜り抜け縄文性が再登場したのが惣村という仕組み
この自治の仕組みこそ共同体の再生の皮切りであり、農村社会の原型になっていきます。

参考投稿~地域再生を歴史に学ぶ~第4回 惣村の形成とはなんだったのか?

>惣村とは何か
そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまって暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
そしてこれらの村を維持運営していく上で村組織内での体制や秩序が様々に作られていくのです。その中に村の中での身分序列、法(掟)、裁判が独自に作りこまれていきます。

★この惣村の自治のしくみを社会のシステムに組み込んだのが江戸時代の地方と中央であり藩と幕府の関係でもあったのです。

参考投稿~地域再生を歴史に学ぶ~第8回 江戸時代は惣村自治の集大成

>幕府や藩は本来は軍事機構であって、武士は村や町の政治を行ったことがなかったことだ。村や町の政治は、村や町という政治組織・生活共同体が担ってきた。従って幕府や藩には、村や町を統治するための知識も経験も不足しており、民政統治や農政などのさまざまな産業政策はなかったのだ。幕府や藩は、それぞれの場所でそれぞれの時代に起きた具体的な出来事に対処する個別の方針を出したに過ぎない。それが恒久法になるかどうかは、個別事例ごとに異なっていたのだ。
江戸時代が地方自治に支えられた、かなり完成された社会であった事は想像がつきますが、このお触れにあるように、決して固定的ではなく、時々の事象(=外圧や課題)に対してその都度、中央(=幕府)も藩も村も自前で方針を考え対応していた事が優れていた点だと思います。
自治とは突き詰めればそれぞれが周りにおきる社会課題を自らの事として考える事なのです。そういう意味では江戸幕府もまた江戸という地域を自治していたのです。

★そして現在、この縄文の精神は逆境、変化の時代に新しい祭りとして蘇ってきているのではないでしょうか?2008年、まだ東北震災が来なかった時代の記事です。

参考投稿~ 日本人は祭り好き(島国日本が繁栄していること自体が祭り、世界金融危機も祭り)

>つくづく日本人は逆境に強い、それどころか逆境でこそ、挑戦者として、防衛者として威力を発揮する民族なのだとあらためて感じさせられる。逆境に強い、それはずっと前から逆境が数多くあったこと、その数だけ克服してきてみんなで喜んだことによる記憶の刻印だ。平和で安全でお金持ちの貴族的な余興を心からは楽しめない。それは真から平和で安全でお金持ちになるには表面だけそのようにみえてもだめで、解脱充足のまえに必ず現実の課題を協力して克服するという作業がなければ条件を充たさないことを、われわれの先祖が充足の伝授という形で教えてくれ続けたからだと思う。

icon_confused.gif今回で最終回にしようと思っていましたが、最後、もう一つ縄文と現代を繋ぐキーワードがありました。それは性の話です。
1週間寝かして考えますが、性を中心とした女と男の期待応望関係は縄文由来で現在まで確実に息づいています。

投稿者 tanog : 2017年04月20日 List  

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