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2018年08月23日

藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくった

表の世界で藤原氏vs蘇我氏ら反藤原氏の闘いが繰り広げられる日本の歴史にあって、一貫して、影から政権を操り、力を保持してきたのが、三輪氏と並んで出雲族の本流をなす賀茂氏である。同じく出雲→葛城系の蘇我氏が倒された乙巳の変から、壬申の乱を経て、平安京がつくられるまでの賀茂氏の動きが、それを象徴している。 賀茂一族は、この激動期を、百済派(天智・持統派)にも新羅派(天武派)にも両建てで対応し、どっちにころんでも、神官としての座を守りながら、一族の権力を保持し続けてきた。そして、最終的に、秦氏とともに、平安京建設の立役者となった。この両建て戦略で、政治の矢面に立たずに、裏から政権をコントロールするスタンスが、賀茂氏が八咫烏と言われる所以である。

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大賀茂真也氏の「八咫烏の超日本史」から紹介します。

天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。

通説では、この乱は、大海人皇子にとって「窮鼠猫を噛む」如く勝算のないものだったとされる。実は、『日本書紀』の記述に全く記載がない人物が、後に編纂された『続日本紀』等には多くの記載があるという事が判明している。大海人皇子は決して勝算のない危険な賭けに出たわけではなかったのだ。壬申の乱で大海人皇子を支えた豪族は多かった。中でも軍事氏族として名高い大伴氏の中心人物であった、大伴馬来田(マクタ)、大伴吹負(フケイ)の兄弟。  しかし、この大伴氏以上に、皇子が頼りにしたと思われるのが鴨君蝦夷。賀茂氏系図に壬申の乱の功により、天武3年に「賀茂朝臣」の姓を賜ったとの記載ある。

壬申の乱で活躍した人物に注目すると、吉野方には、圧倒的に出雲族がついていたことがわかる。逆に近江方の名門豪族で最後まで戦い抜いたのは、中臣連金と穂積臣百足だけであった。つまり、近江朝にいた名門豪族の殆どが、開戦後吉野方に寝返ったということある。こうして、壬申の乱は、吉野方(大海人皇子)の圧倒的勝利に終わった。   しかし、天武天皇が崩御すると、皇位についたのは皇后である「うののささら皇女」(後の持統天皇)であった。天武後の皇位後継者は大津皇子と目されていた。ところが持統は大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑。病弱な我が子、草壁皇子を使命したが、草壁皇子が病死。皇位継承者は高市皇子と目されていたが、それまでの皇位継承ルールを無視して、自ら女帝となった。

持統は、天武天皇の妻であり、天智天皇の娘であるが、反百済・反藤原の天武の政策をとらず、むしろ藤原を重用していく。こうして、壬申の乱で、破れたはずの、藤原は息を吹き返し、天武方についた出雲系は排除される。724年には藤原不比等の娘・宮子を母に持つ聖武天皇が即位。770年には天智天皇の孫、光仁天皇が即位し、その子桓武天皇は亡命百済王族の帰化人(武寧王10世孫)高野新笠の血を引くことになる。こうして、百済王子・豊璋とも同一視される藤原鎌足の跡を継いだ不比等の目論見通り、亡命百済王族による日本支配が確立する

しかし、古代から天皇になるためには母方の血統が重要であり、藤原氏がいかに政治手腕に置いて力があったとしても、天皇家に外戚となることはかなわないことであるはずだ。事実、いくら実力があっても、母方の血統が条件に合わないものは、天皇にはなれず、源氏、平氏という苗字を与えられ、臣下の身分に降下させられていった。では、何故、藤原氏は天皇の外戚となれたのか?それは藤原氏には賀茂氏の血が入っていたからである

なんと藤原不比等の娘・宮子の母は、賀茂朝臣比売。壬申の乱で天武方の功臣、賀茂蝦夷の娘なのだ。壬申の乱で、反藤原として闘う一方で、乱の後、藤原氏とつながっていたのである。

つまり、不比等は、賀茂朝臣比売との間の娘、宮子を天武天皇第二皇子であり、持統天皇が寵愛した軽皇子でもある文武天皇の后とし、聖武天皇を即位させ、その聖武天皇の皇后として、自分の娘の光明子を嫁がせることで、藤原時代を築き上げたのである

壬申の乱の敗北者である藤原氏の大逆転には、賀茂氏、すなわち八咫烏が深く関わっていたのである。

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そして繰り返された遷都は、ようやく平安京で定まり、藤原氏は歴史の表へ。そして賀茂氏は安倍晴明ら陰陽師として、あるいは京都下鴨神社の禰宜(神職)として全国の神社ネットワークを支配下におくことで、裏から日本を支配していくことになる。

なんと女系社会日本が藤原支配を生んだということだ。そして、この女系支配を正当化するツールとして女神としてのアマテラスを描き出した記紀神話が編纂された訳である。しかも、藤原不比等は最初の側室として、蘇我氏の血を引く蘇我娼子を迎え入れているのだ。

これでは、記・紀によって日本の歴史がいくら改ざんされても、表立って文句がでなかったわけだ。蘇我氏らは、人質をとられたようなものだ。藤原鎌足は人質として百済から日本に来た豊璋だとされる。不比等は人質の扱いを熟知していたのかもしれない。

あるいは、元来、亡命者である、徐福、秦氏の血を賀茂氏が継いでいたからこそ、起こったことなのかもしれない。

いずれにせよ、乙巳の変→壬申の乱→平安京の成立に至る流れの中で、藤原・百済派と反藤原・新羅派が激闘・暗闘を重ねながら、今日の権力対立の基礎が作られたことは間違いない。藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくったともいえる。聖徳太子の和を持って貴しとなす、は綺麗事ではなかったのだ。

投稿者 tanog : 2018年08月23日 List  

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