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2016年08月25日

新説「日本史」第8回~武士時代

藤原支配から脱却した日本は新たな自治の時代、武士時代を迎える。
平安時代後半から始まるこの時代は江戸末期までおよそ900年間継続した。武士時代とは葛城が治めた大和朝廷と似ており、それまでの中央集権から封建へ、連携、連合、持ち合い、共存が力学としてあり、最も激しい戦乱にあった戦国時代にあっても信長や秀吉は常に武のない世、太平の世を求めて天下統一に励んだ。さらにそれを継いだ徳川にあっては東を抑える事で、260年間続く安定基盤を作り上げた。その手法は藤原時代が権力と富の集中で作りあげた中央集権とは相対しており、地方自治誘導、中央へは専ら地方の力を結びつけ交流を図る参勤交代という自治を重んじた中での緩やかな中央集中政治を実現した。

武士の時代とは通じてみれば東国(縄文由来)の時代であり、東に拠点を置く時代(鎌倉、江戸)が最も安定した政治、治安をなすことができた。一方で西側は京や大阪で市場が拡大し、東の政治、西の経済という構図がこの時代ますます進んでいく。
また、この時代の庶民の動きも武士時代に合わせて作られていく。惣村という村落共同体の基本が作られたのも鎌倉から室町時代にかけて、庶民もまた、自治の有り様を模索しながら自然発生的に各地にその縄文的体質をベースとした共同体が作られていったのは特筆すべきことだろう

一方で武士に実質上の支配権を奪われた藤原家率いる天皇一派は南北朝に分かれ、その力を分断されながらも、水面下で脈々と温存され、やがてくる明治天皇の時代に再び復興した。北家も南家も藤原家だが、南家に百済直系の一派が残りまた惣村や共同体から離れた自由民(エタ、非人)が加わり裏勢力を形成、後の明治天皇を生み出す山口県の田布施を中心に潜伏した。
今回の記事はその集大成とも言える江戸時代にスポットを当てて記事紹介をしていきたい。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
葛城・物部時代(200年~450年)250年間
葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間前半
藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間後半

■武士時代(900年~1860年) 960年間
荘園制度の転換に伴い、各地に治安不安が生じると部落ごとに自衛の必要が生じた。武力を持っていた坂東武士を中心に護衛の役として武士が誕生する。武士は専ら東日本に誕生し、後に西日本にも武士が登場するがそれは関東のそれを真似た物に過ぎなかった。
関東の武士団はたちまち力をつけ、横の連携を持つと朝廷に対抗する勢力に成長していく。その延長で誕生したのが源氏率いる鎌倉幕府である。以後、自治を旗印に武士中心の政権が継続する。

朝廷、天皇も制度として残されるが、その統治力も権力も無く江戸時代に入るとその存在意義すら失う目立たないものに成り下がった。武士が天皇を残したのは、いかにも縄文由来の日本人的発想で、天(自然)に抗えない、天を奉るという畏れ意識に起因した可能性が高い。事実最大権力者の信長ですら天皇をほぼ無視しているが滅ぼしてはいない。

武士時代は江戸時代も含めると900年以上続くが、その裏では秦氏率が支える藤原ー天皇が脈々と続いており、また同時期に秦氏は商業ネットワークと諜報ネットワークを全国網で形成することで武士を骨抜きにしていく。
武士支配の世界に反旗を翻したのが後醍醐天皇が引き起こした南北朝戦争だったが、天皇家は北朝を表、南朝を裏に建て江戸時代は潜伏した。

■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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m282.gif江戸幕府の自治
押さえておきたいのは、江戸幕府は中央集権ではなく封建制でもなく、地方の事は地方に任せるを徹底した「村の自治」、「藩の自治」をベースにした信任関係を機軸にした世界でも稀に見る政府だったという事です。家康自身が乱世、戦国時代の教訓を基に作り出した政治手法だったのでしょうが、大衆(=農民)を支配する発想を全く逆転させたところに徳川家の凄さがあります。参勤交代とはそういった中で、地方と中央を繋ぐ位置にあり、間接的かつ奥ゆかしく地方を配下においたのです。そういう意味では既に市場経済が開花し、富と貧困が拡大する中でとった手法としてはこれしかないといった“バランス感覚”に優れた政治でした。

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「地域再生を歴史に学ぶ~第8回 江戸時代は惣村自治の集大成」より抜粋

m282.gif江戸は縄文の再生
戦乱の世を経て蓄積された家康の平和・安泰への希求が、天海の持つ争いとは無縁の縄文的思想に触れることで施策として結実したのが江戸時代だったのでしょう。だからこそ、江戸時代を通じて様々な施策が平和、再生、集団、自然志向といった縄文的価値観に貫かれて生み出されていったのです。
しかし、国家規模で社会変革を引き起こした江戸のシステム、これは家康や天海の個人の才覚だけでは成り立ちません。それを受け入れ下支えした東国人、さらに日本各地の地方では庶民にまだ縄文由来の共同体資質が色濃く残存していた事もまた押さえておきたいと思います。こうして江戸は天海―家康が導く縄文的社会の再生として日本史の中に登場したのです。

循環型社会
「江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由」より抜粋

m282.gif江戸社会の理とは何か
江戸時代は、集団の自立した活動に権限をゆだねることで個々の活力を創出し、中央と地方の交流により同類圧力を生み出し、さらなる活力上昇へつなげることができたまれに見る社会だといえます。
規範による自我の封印
技術革新により開かれた私権追求の可能性から生じる自我を、末端の集団規範で完全に封じ込めることができました。さらに、中央からの質素・倹約の規範を、武士から末端の農民に至るまで浸透させた事も、自我の封印に大きく寄与しました。
石高制による実質経済
石高制という実質価値に基ずく力の尺度を用いることで、金融による架空経済の暴走を阻止し、地に足の付いた生産活動を主体とする実質経済を成立させることができました。
幕藩体制と参勤交代で同類活力を上昇
蕃毎の自給自足と、自立した地方自治が主体性を向上させ、さらに参勤交代という地方と中央を交流させる政策により同類圧力が高まり、末端までの活力を上昇させました。
このように江戸時代は、豊かさ欠乏と倹約の精神がバランスし、経済活動も地球環境においても究極の循環型社会が実現した、世界でも類を見ない奇跡の時代であったと言えるでしょう。
「江戸は縄文の再生3.~中央と地方を逆転させた江戸の理(ことわり)」より抜粋

m282.gif惣村とは
そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまっ   て暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
西洋式の民主主義の導入する以前に既に日本にはお上にブレーキをかける民衆主体の基盤(共同体基盤)ができていました。

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「地域再生を歴史に学ぶ~第4回 惣村の形成とはなんだったのか?」より抜粋

m282.gif南北朝とは何か?
下記の記事に裏の支配者南朝について詳しく、かなり正確に書かれています。
「裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク」

【1】南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力(非人経済)であり、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力、つまり、貴族をはじめとする荘園領主であったこと。
【2】日本における市場勢力の源流は2つある。一つは百済の滅亡後~鎖国まで続いた大陸・朝鮮からの流入民であり、彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。もう一つは、百済系の北朝の収奪と寒冷化によって農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
【3】彼ら市場の住人となった非農業民たちは、非人・河原者と呼ばれ、差別の対象となっていったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
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明治天皇の出身「田布施」の場所

投稿者 tanog : 2016年08月25日 List  

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日韓の「竹島」問題とあわせウルルン島(鬱陵島)も協議されたい

古事記
日本書紀
出雲國風土記
 三書のなかの「国造り」や「国引き」は苗木を植えること=「植樹すること」。
なぜ? 鬼刀禰(おおとね)の金属器生産過程で国土の木々がなくなっていった。
 たたら製鉄は紀元前17世紀より始まった。1ヘクタールの森林を炭に変え、3日で消費し、わずかな「鉄」を手にした。
 これが、古墳時代に「鉄」だけでなく「青銅器、銅生産」も行われようになる。邑南町立図書館本館蔵書「川本町誌歴史編」1977。 「霧の子孫たち」2002。
7世紀の終わり~8世紀に人麻呂・スサノヲ(不比等)・行基の3人と八咫烏と呼ばれた11名の鬼刀禰族が「植樹」をはじめた。
 古墳と呼ばれるものは金属生産遺跡&居住空間&最後は長(ヲサ)の墓。古墳近隣の森林はなくなってしまった。
貝殻型古墳は青銅器生産遺跡。円墳は鉄器生産遺跡。方墳は青銅器・銅生産遺跡。前方後円墳は鉄・青銅・銅生産遺跡。
 通風孔は北極星の方向。考えられることは真反対の南側でガラスレンズで太陽光で火を熾した。
 広島県で不比等は「神武」と「スサノヲ」の名を使い分けた。ここから「神武」の名で進んだ地が淡路→熊野→奈良。これが記紀の東征。
鬼刀禰(おおとね)は古墳&金属生産遺跡の壁面に書かれていた(であろう)文字を「鉄ノミ」で消してまわった。
 「溶融点」・・・たたら製鉄の砂鉄から鉄生産するに400度C~800度Cの炉(鈩)が必要。青銅器・銅生産は900度C~1100度Cの炉が必要になり。より多くの森林を失うことになった。

東海→関東(群馬では不比等と名乗った)→福島(浜通り・中通り)→青森(太平洋側)までは「スサノヲ」「ヤマトタケル」と名を使い分けた。
飛弾高山(熊野と同じように秦の始皇帝派遣の少年達の動向調査)→大和→出雲へ(不比等は)ヤマトタケルで移動(記紀では途中死亡)。

*この時の新羅というのが(石見・出雲の)国造り・国引きがウルルン島(鬱陵島)の苗木。新羅の都攻めもこの島より(300隻の軍舟)行われた。海名は「海東」もしくは「東海」かも知れないがこの島は、日本領と確信する。スサノヲ・行基・人麻呂・鬼刀禰族・小野族・和邇族・阿波忌部族・(群馬・蝦夷)鬼刀禰族の生活(暮らした)跡がある。

投稿者 chikara : 2016年8月29日 13:56

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