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2014年08月08日

シリーズ 宗教が国家を上回った国:イスラムとは?【3】~イスラム教の中心:六信五行とは?

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 みなさん、こんにちは!
イスラムの教義の中心、コーランの骨子である六信五行とは、一体、どういったものなのでしょうか?また、その思想=観念はどのようにして作られていったのでしょうか?社会の形成は観念共認であり、その中心をなす観念を分析すると、イスラム社会の構造が理解できると思います。
 前回の記事では、『彼らが直面した現実の壁から考えるに、利益追求を優先し部族共同体破壊の元凶たる個々の自我の肥大化を抑制し、また、部族共同体を、そして今や民族を超えて拡大するイスラムの同胞をまとめ、一体感を創出するための“規範”として「六信五行」に代表される修行≒追求過程が日々の生活の至る所に組み込まれているのではないか?』としました。
 前史時代から詩や伝説などの観念共認の志向が強かったようです。彼らは、生活の糧を隊商貿易(交易)に依存していましたが、東ローマ帝国とササン朝ペルシャとの戦乱による急激な交易ルートの変更で、市場化の大波に飲み込まれ、イスラム共同体自ら、大混乱や分派・独立、集団崩壊という秩序崩壊を引き起こしました。
 これらの現実を突破する規範と修養として六信五行を生み出し、その後、アラブ民族を超えた多くの人々に受け入れられ、いまや、16億人の信徒を要する教えとして成長しました。
 この拡散力と共認力は、いかなるものだったのでしょうか?また、どんな魅力があったのでしょうか?大帝国を成立させるその背景の根幹を見てみましょう。

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六信五行とは、詳しくは、当ブログの シリーズ:『イスラムを探る』 第1回 イスラム社会ってどんな社会? を見ていただけるとその内容が分かります。
●六信
①唯一神(アッラーフ) アッラー以外には神はいない
②天使(マラーイカ) 天使(マラーイカ)たちが、アッラーの命令の下で働きを行うことを信じる
③使途(ラスール) アッラーからのすべての預言者を認める(モーセ、イエス、ムハンマドなど)
④啓典(キターブ) アッラーからのすべての啓示・教典を信じ、コーランが最後の教典である事を信じる
⑤来世(アーヒラ) 復活の日、死後の生命を信じる
⑥天命(カダル)  アッラーの定め(天命)を信じる
●五行
①念真(シャハーダ) 「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。」と唱えて、信仰告白をする
②礼拝(サラート)  1日に5回、メッカの方向に礼拝をする
③喜捨(ザカート)  貧者に対する施しをする。昔、ザカートは宗教税。物品に応じて細かく税率が定められていた。
④断食(サウム)   イスラム暦の九月(ラマダーン)には、夜明けから日没までは飲食をしない
⑤巡礼(ハッジ)   一生に一度は、メッカ巡礼を果たす
※この他の戒律で有名なのは、「アルコールと豚肉の飲食の禁止」。

などがあり、簡単にいうと、ムスリムの六信は、六つのものやことの存在を信ずるように言われています。1)アラー 、2)天使、3)使途、4)啓典、5)来世、6)天命。また、五行とは、1)信仰告白、2)礼拝、3)喜捨、4)断食、5)巡礼のことです。「信じる心」も「規範行動」もどちらも重要視しているところが特徴です。さらに、「商人の倫理」を重視している点は見逃せないのです。

 イスラムは、キリスト教・ユダヤ教と同じ開祖として、天使カブリエル(ジブリール)から神のことばとして伝えられており、ムハンマドが予言者として彼から啓示を受けています。これらは、コーランに記載され、その骨子が後世にまとめられたものが六信五行です。

 多くの人々に影響を与えたイスラムの観念ですが、イスラム以前のジャーヒリーヤ時代、ベドウィンの遊牧部族共同体の思想を取り込み、その本源性と協同性、相互扶助と不殺生の思想、かつ、現在形で働く外圧=市場化の外圧を取込みつつ、連綿と続く、部族共同体を守り、集団の紐帯を高めるために、現世の実態を肯定的に批判し、組み込んだ観念がベースとなっているようです。言い換えれば、イスラム成立当時の既存の観念群と現在形に働くイスラム世界の圧力に適応した統合観念であるようです。
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 では、もう少し、六信五行を具体的に掘り下げて見ましょう。 六信五行の精神は、THE RELIGION OF ISLAM が詳しいので一部引用し、要約しながら、見ていきましょう。

◆六信の精神を詳しく見ていくと、
●①唯一神(アッラーフ)
 世界を創造した唯一神アッラーに全てを委ねること。偶像崇拝や多神教の否定、全宇宙の現象は全てひとつの主の下で繰り返されているという思想。全ての自然の摂理や世界中にある全ての物は主の被造物であるから、全ては主からの賜物で、人々が奪い取ることも与える事もできないということ。
●②天使(マラーイカ)
 アッラーの意思を伝える天使達は、ただ、神の定めにより森羅万象、宇宙全ての現象を起す役目を果たす存在、自由意志を持たない絶対帰依者としての存在を認めること。イスラム先史時代からアラブでは天使を唯一神の娘であるとして信仰されていたため、継続して部族内外の連帯感を高めた思想であろうと思います。
●③使途(ラスール)
 過去、数多くの預言者達が世界中の民族に遣わされ、全ての預言者達はアッラーから授かった教えを人々に伝道しましたが、これらの啓示はムハンマドによって完成され、彼によって神の祝福と平安がもたらされることを信じるというもの。
●④啓典(キターブ)
 預言者によりもたらされた啓典であるモーゼの五書、ダビデの詩篇、福音書、コーランは全てアッラーの啓示であると認めること。但し、コーラン以外の啓示は全て真実の姿のままで伝わっていないため、コーランを最高の教えとするということ。
●⑤来世(アーヒラ)
 全てを委ねた神の前で、全ての人間は蘇らされて、最後の審判を受ける。世界破滅の後、アッラーは世界を平らの状態で再び創造して、全ての人間達を蘇らせてそこに集める。そしてそこで一人ずつ審判が行われる。現世の善行・悪行によって人々のその後が決められるというもの。
●⑥天命(カダル)
このように、全ての被造物の運命はアッラーによって既に定められているということを信じる 。
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◆五行の精神を詳しくみていくと、
●①念真(シャハーダ)信仰告白・信仰証言
彼らは、“神以外には崇拝に値するものはなく、ムハンマドは神の使徒である”と証言し、誰でも単純な言葉を宣言することで、信徒となれますが、口先の言明だけではなく、神が定められ、預言者ムハンマドによって説かれた手法を実践することが必要とされ、修養と追求過程が求められます。一生に最低1回はこれを唱える事が必要で、通常、朝起床時や就寝前、一日五回の礼拝の際にこの言葉が繰り返されます。この信仰告白・信仰証言を毎日行うことで、己の立場や位置を見失うことなく見返すことができます。
●②礼拝(サラート)
一日五回の礼拝で、毎日、特定の時間帯に神へ近づき、自らの信仰と人生のあらゆる側面において礼拝が果たす役割を常に想起させてくれるようです。礼拝はアラビア語でのクルアーン朗誦、そして立礼、屈伸礼、平伏礼、座礼などの連続的動作によって構成され、全ての朗誦と動作は神への服従、謙遜、そして敬意を表現しているようです。
個人で行う礼拝よりも、モスクでの集団礼拝(他者と一緒に行うこと)が推奨されているようです。彼らは一斉にマッカのカアバ神殿へと顔を向け、先導するイマーム(先導者)の後ろで平行に並び礼拝を行います。金曜日の合同礼拝は一週間で最も重要なもので、先導者によって合同で行なわれ、個人では行うことが禁止。また、非イスラム地域に住む崇拝者たちは、スケジュールを調整し、極力この礼拝に参列出来るよう努力します。
●③喜捨(ザカート)
アラビア語のザカートは、直訳すれば“浄化”といった意味。これは、喜捨が人々の心を貪欲さから浄化するという意味です。

『今日のあなたに財産を成すようになったのは、全てアッラー(の意志・働きかけ)に依るもの(その個人だけでは何ひとつ成し得なかったではないか)(コーラン)』

とコーランにあるとおり、帰依する者たちへ、分け与えることを信仰の証とするようで、富を授けられたものは、困窮している共同体の一員に対して責任を負い、富への希求は、自然なものであるが、独占・所有することを禁止しています。
 イスラムの富の概念は、神からの贈与。神は人に富を授け、その内の一部を貧者のものとし、彼らがそこから分け前を受け取る権利を与えたというものという認識。喜捨は、神に全ての所有権が属することを思い出させ、人々は神によって富を委託されているのみであり、喜捨は富への執着から解放するものとされるのです。アッラー自身も富を専有・所有など、いかなるものからも超越している存在として認識され、人間は、受取人から、いかなる世俗的見返りをも期待したり、要求したり、また、施しによる名声を目的にしたりするもではないことを明確に意識しています。また、施す相手に劣等感を抱かせたり、人から援助されることを思い出させることによってその感情を傷つけたりしてはならないのです。
●④斎戒(断食)(サウム)
『信仰する者よ、あなた方以前の者に定められたようにあなた方にも斎戒が定められた。恐らくあなた方は主を畏れるであろう。』(コーラン)

斎戒(断食)は、もともとイスラム特有のものではなく、儀式としてはキリスト教、ユダヤ教、儒教、ヒンズー教、道教、ジャイナ教などによって行なわれて来ました。
また、イスラムのラマダーンの斎戒は、コーランにある『ラマダーンの月こそは人類の導きとして、また導き(と正邪)の識別の明証としてコーランが下された月である。』のとおり、一年に一度、太陰暦九月のラマダーン月に行なわれます。
利己的な動機に基づいた生活で私利私欲に目がくらんでいれば、人は創造主から遠ざかるもの。最も厄介な人間の感情とは誇りや貪欲さ、大食や色情、嫉妬や怒りといったものですが、これらの感情は本来その制御が容易ではないため、それに打ち勝つためには特定の鍛錬に励まなければなりません。彼らは、斎戒によって魂を清め、最も制御が困難である野蛮な感情に歯止めをかけるのです。人々はこの感情に関して両極端に走る傾向があります。ある人々はそれらの感情によって人生そのものを支配され、古代においては野蛮主義に、そして現代においては消費者文化という愚鈍な物質主義に導かれています。またある人々はこれらの本能的特徴を完全に抑制しようとし、その結果禁欲主義に陥ってしまいました。さらに、斎戒(断食)は食の他、性行為も規制しているようです。
—————————(詳しくは、『イスラーム第四の柱:ラマダーンの斎戒』より
イスラムの斎戒では日の出から日没まで、あらゆる肉体的欲求を断つことが求められ、それは飲食だけでなく性的行為にも及びます。また神聖なこの月においては、通常禁じられている事柄もより強く禁じられます。斎戒中は四六時中、神への従属的な愛により、自らの欲求を制しなければなりません。
—————————-

●⑤巡礼(ハッジ)
 巡礼は、特別な価値のある行為で、人々に懺悔や罪の赦し、また個人的献身行為や精神的高揚の促進などにおける最高の機会を与えてくれるとのこと。最も神聖な都市であるマッカへの巡礼は、経済的・肉体的に余裕のある全てのムスリムが一生に一度は行わなければならない義務行為。巡礼の諸儀礼はラマダーン月の3ヶ月後、すなわちイスラム暦最後の月であるズル=ヒッジャ月の8日に始まり、同13日に終了。ムスリムはマッカに一年に一度集い、人種や民族を越えて全てのムスリムは平等であり、お互いへの愛情と思いやりを持たねばならないというイスラムの信仰を新たなものとします。イスラムでは巡礼者たちは、協会や修道院へ赴いて聖者からのご利益を求めるというわけではなく、または奇跡を期待して訪れるわけでもないようです。
また、この巡礼は、毎年二百万人以上が参加するため、世界中のムスリムを一つの仲間として意識できる行為のようです。異なる環境の人々が一つの崇拝行為でまとまることによる統合感は、何よりも変えがたいようです。こういった連帯感は、部族共同体の規範から派生したようにも思います。
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 上記は、一見して、キリスト教やユダヤ教などの信仰や修行とは、なんら変わらないように思いますが、それらと異なるのはどこなのでしょうか?

●修養という追求過程を規範化し行動化していること
六信に基づき、五行という修養・追求過程を規範化しているところです。キリスト教のような救い欠乏からお題目を唱えればそれで終いというわけではなく、また、密教のように本能を完全に抑制しようとし禁欲主義に陥ってしまうようなこともなく、さらに、古代の野蛮な掠奪や現代の消費社会という愚鈍な物質主義に陥らないように、いつでも日常の修養・追求を通して、人々の心底に訴える行為を行うことで肉体化しているのだろうと思います。

●集団で行うことを基本としていること
 礼拝や斎戒(断食)、念真や喜捨、巡礼に見られるように、個人での行為を重要視しているのではなく、これらを集団で行うことを推奨しているようです。イスラム成立以前の社会は、オアシス遊牧民であり、交易で生計を立てていた彼らにとっては、廻りの人々や部族内、部族間の連携に頼らなければ生きていけない現実を身を持って理解していたのだとうと思います。彼らは、長い期間、この信仰により部族共同体を維持しつつ、互いの連帯感を強めていったのだろうと思います。

●食欲、性欲、富の所有、利益を奪い取ること、身分や地位を得ることを禁じていること。
イスラム社会は、隊商貿易という市場原理の中に住み、交易によって生計を立てていたことにより、キリスト教やユダヤ教世界の荒廃・悲惨さを目の当りにしたのです。市場化圧力の急襲に対して、自らも集団間又は、集団の自己秩序崩壊に直面したことから学び、動物的な食欲や性欲、所有や利益、富の掠奪からの西洋諸国の秩序崩壊、貧困、飢餓の現実を認識しつつ、市場の中で生きていく観念を確立したのだろうとおもいます。この所有・身分・名声・名誉・性なるものは私権序列の根本であり、これらが本源社会を疲弊させていく要因であることを悟っていたのだと思います。

●修養を徹底していること、現在まで連綿と皆が同じく続けていること
 子供のころから、コーランを徹底して教え込み(イスラムの子供教育
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=292895))、一生に渡り、皆が同じように修養過程を実践していく理由は、常に、これらの秩序維持を意識させ、自己の制御能力を培うことにあります。飲食や異性への欲望・利益や所有などの様々な私権の悪癖などから脱却するために常に意識をする行為が六信五行です。この教えを子供のころから部族内で徹底して教え込むことで、集団統治としての素養を磨き、力の序列にゆらない社会を形成してきたのだと思います。

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■宗教が国家を上回った社会での六信五行の意味とは?

イスラム社会は、イスラム成立以前から部族共同体が残存していたゆえに、中国の儒教観念(規範観念)である仁・義・礼・信や7世紀頃の日本の社会統合手法(現人神信仰・万世一系の天皇制)に似て、同じ匂いを感じます。それは、一定、共認のための方便で、事実よりも人々の共認が優先するという思考体系です。但し、イスラムが異なるのは、現実直視の視点を絶対神に全て委ねることを、統合者自らになってゆくという視点です。

 イスラム教が国家を上回る観念統合社を形成できた最大の理由は、裕福な知識階級(エリート層)がそれらを先導し、また、彼らを組織化できたところです。その根本理念に、武力統合社会や私権序列社会の悪癖を批判的に取り込んだ六信五行という修養過程があったからこそ、成立したものと考えられます。
 また、六信五行にある信心・行為を行うことは、統合観念である観念共認(言葉)や志し、集団帰属意識や貧困に対する思い、部族間連帯意識を捨象させないという効果があったのではないでしょうか?アラブ民族を超えて広がったイスラム教は、これらを行うことで、異民族であっても、本能(食欠乏や性欠乏)からなる性闘争本能や縄張り本能を抑制(自我抑制)して、本源性に訴える魅力があったのではないか?と思われます。六信五行に限らず、イスラムの教義は、言い換えれば・・・

★★★『知識階級が己の戒めとして六信五行を自ら先導し、
    万民の心に残る本源意識を生起させる社会統合観念』★★★

であったともいえます。
 
 さて、次は、イスラム法の世界を見てきましょう。イスラム教は、他宗教がことごとく国家に利用されただけで終わったのに対して、イスラム教だけは力の原理を突破して、国家を支配する宗教として成立していきました。一旦、ここでは、六信五行を先導した知識階級の組織化が鍵であったとしました。これらは、注目されるところであり、きっと、そこには、私権社会で生き抜いた本源性や追求志向が見えてくると思います。現代社会の秩序崩壊の突破口が見られるかもしれません。
BY 2310

投稿者 katsuragi : 2014年08月08日 List  

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