「教科書の嘘を検証する」第4回~百済からの支配者が押し進めた律令国家への歩み |
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2017年08月31日
「教科書の嘘を検証する」第5回~平安時代は百済派支配の単独政権
第5回は平安時代を扱います。
平安時代も大和朝廷の始まりと同じくらい重要な時代。教科書では平安時代とは国家の安定、蝦夷討伐による国家統合の基盤つくりといったプラス価値で捉えられていますが、この平安時代こそ最も暗黒時代であったという認識が必要です。それは百済支配が最も深く、公家や貴族が私腹を肥やし、国家を混乱させ、腐らせた時代だったからです。平安という時代の名前とは真逆の混乱した時代でした。武士はその混乱を背景に登場する事になるのです。
教科書の記述を先に書き、おかしな部分にアンダーラインを入れて後で書き換えを試みます。
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(平安京)
奈良時代の後半には、貴族や僧の間で勢力争いが激しくなり、政治が混乱しました。そこで桓武天皇は、新しい都で政治を立て直そうとして、784年に都を長岡京に移し、次いで794年には現在の京都市に移しました。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を平安時代といいます。
8世紀の末には唐の勢力が弱まり、東アジアの国々の間での緊張関係がゆるんだため、朝廷は東北地方や九州地方以外では一般の人々の兵役をやめました。また、役所を整理したり、国司に対する監督を強めたりして、支配の仕組みを立て直そうとしました。しかし、不自然に女性の数が増えるなど、戸籍にいつわりが多くなったこともあり、複雑な手続きが必要な班田収受法は行われなくなっていきました。
8世紀末から9世紀にかけて、朝廷は支配に従おうとしない東北地方の蝦夷に対してたびたび大軍を送り、特に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の働きもあって、その勢力を広げました。しかし、その後も蝦夷は律令国家の支配に強く抵抗し続けました。
今回のポイントは以下。
1)平安時代がなぜ京都に移したのか?
2)平安時代に律令制が緩んだのはなぜか?
3)蝦夷討伐の本当の理由は何か?
教科書の記述では生徒が疑問を持ちそうなこれら3つの史実になんで、なぜが書かれていません。
(平安時代)
奈良時代の後半には、それ以前の大和朝廷を構成していた百済系(藤原系)と伽耶系(天武系)の間で勢力争いが激しくなり、政治が混乱しました。そこで桓武天皇は、新しい都で百済系だけでまとまった皇室をつくる為に、784年に都を長岡京に移し、次いで794年には現在の京都市に移しました。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を平安時代といいます。
8世紀の末には唐の勢力が弱まり、東アジアの国々の間での緊張関係がゆるんだため、朝廷は東北地方や九州地方以外では一般の人々の兵役をやめました。また、役所を整理したり、国司に対する監督を強めたりして、支配の仕組みを立て直そうとしました。しかし、奈良時代に唐に真似て作った律令制は結局日本人には根付かず、戸籍にいつわりが多くなったり、班田収受法が守られなくなり平安時代には奈良時代の制度は次々と廃止されました。代わって税収を得る為の荘園制度が登場します。
8世紀末から9世紀にかけて、朝廷は支配に従おうとしない東北地方の蝦夷に対してたびたび大軍を送り、特に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の働きもあって、その勢力を広げました。しかし、その後も蝦夷は律令国家の支配に強く抵抗し続けました。馬術や戦いに長けた蝦夷には渡来人のもう一つの勢力である高句麗系渡来人の末裔と旧縄文人が混血して社会を形成しており、朝廷はそれらの勢力を排除する事で自らの安泰を図ります。
しかし、完全な排除はなされず、蝦夷の一派はその後の武士に繋がっていきます。
投稿者 tanog : 2017年08月31日 TweetList
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