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2014年11月11日

仏教に未知収束の志を観る~エピローグ

本シリーズのまとめに入ります。
仏教というキーワードで始めた本シリーズですが、儒教もその志において同じ構造だったという事を発見をしました。シリーズの最後には未知収束という部分に関連してこれらの現象と現代を繋ぐ構造を提示したいと考えています。
まずはこのシリーズを俯瞰して、各記事のダイジェストを列記します。

m146.gifプロローグ リンク
“仏教とは人類史における未知収束の一形態ではないか?”
現在の状況とは極限時代の人類と近似しており、私権社会突入の激動期の孔子や釈迦のように未知なるものに急速に収束する動きが発生しているのではないでしょうか?

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m147.gif第1回:アーリア人はインド社会に何を起こしたか? リンク
仏教が始まる前のインド社会とは、アーリア人による観念支配がほぼ完成し、階層化、私権社会の秩序化の中で身動きが取れなくなっていた土着民達の不全状況が高まっていた時代だったと言えます。共同体の解体は、全く新たな私権社会という関係性世界(未知世界)へと人々を放り出すことになり、未知への収束を促したと思われます。これがインドを未知収束へと導いた構造でないでしょうか。

m147.gif第2回:ヴェーダ思想は、私権追求⇒自民族結束のために生まれた正当化観念 リンク
印欧語族の哲学・思想体系の中でも最も古い位置にあるヴェーダですが、世界創造とか、起源神話について語っているのではなく、実に現実的、しかも非常に私権色の濃い利益獲得を願ったものでした。戦勝、戦利品の獲得、(妻を得ること)といった所からそれは明らかと思われます。ヴェーダ思想は、私権追求のための方法論、として始まったのです。

m147.gif第3回 釈迦が求めた世界観とは リンク
釈迦が求めた精神世界とは、それまでの価値観念では表現できない潜在思念を総動員した世界観なのだと思います。
人類は同様の経験を歴史的にしています。圧倒的な自然外圧に対して古代人達は潜在思念と自然への注視によって追求に追求を重ね、精霊を見る(=自然の法則性を見つけ出す)事によってようやく意識が統合され、心が安らぎ、後の言葉や科学に繋がる観念原回路を作り出したのです。これが人類の最初の未知なるものへの収束=未知収束の原点です。
そして釈迦が求めた精神世界とは同様に既にがんじ絡めの私権社会を否定や反で見るのではなく、それらを無きものとして、本来の世界とはどうなっているのか、どう繋がっているのかを見出そうとしたのです。釈迦の見た、全てのものは繋がっている=空の概念とはその結果でした。究極的には釈迦が仏教で伝えたかったのは この世界観を感じ取る事、その為に瞑想する事だったのではないでしょうか。世界を掴む為に、自身の精神的な修行が必要で、瞑想の意義があったのです。

m147.gif第4回 儒教が成した未知収束とは? リンク
孔子自身は釈迦のように世界観を見つけ出してもいないし、瞑想もしていません。しかし、仁という規範を確立するために無数の言葉を使い、伝え、実践し、変化する社会に楔を打つ事を試みたのです。一たび、仁の認識を得る事で追求の足場が出来上がる。互いに仁を共有する事で同志になる。そうやって私権社会の中で辛うじて追求の姿勢を維持したのではないでしょうか?
閉塞した世の中こそ、人々は活力を持って生き抜く必要に迫られる。
活力の源は外圧に適応した内面の圧力にある。その内圧を高めるために「志」が必要であり、それは、他人や集団を想う気持ちを原動力とし、自らの意思で実践することによって形成が可能となります。孔子は春秋の閉塞した時代にその法則を見出したのです。
そういう意味で孔子もまた「未知収束」を体現した人物だったのかもしれません。

m147.gif第5回 チベット仏教に見る釈迦の志 リンク
7世紀にチベットが取り入れたのは中国や日本と同様に大乗仏教で、国が仏教を利用して国威を高めるものでした。一方で13世紀以降は反転して小乗仏教も取り入れ、仏教の本質である論理性を重んじ(大乗仏教とも小乗仏教とも密教とも論理矛盾しない論理を追求し)、学問としての仏教に傾注します。それはチベットが私権社会に突入して国が混乱し、そこからの反省、解決策として仏教を取り入れたことと関係しているように思われます。
実際13世紀以降のチベットは中国やモンゴルといった周辺諸国との関係において仏教を用いて国境を越えて教義を伝え、大国からの庇護を得ています。当時、まだ武力が制覇力になっていた時代に認識を使って国際関係を統制していた事は注目すべき点です

m147.gif 第6回 私権社会の規範に変質した儒教 リンク
儒教は共同体の真っ只中に登場した私権社会を憂い、孔子が立てた社会への視座、私権社会への楔でした。しかしそれも私権社会を一巡する中で改変され、良い処取りがなされ、当初の志は失われていきます。
仏教も同様です。釈迦が起した未知収束として小乗仏教はやがて国家治安の為の思想、大衆支配の為の思想である、大乗仏教に跡形もなく変化します。庶民に対しては葬式や身近な人間関係を定めるに過ぎないものになっていきました。本源社会から私権社会への入り口に未知収束として起きたこれらの思想がその後為政者によって利用され、変化していく事もまた私権社会の在りし構造なのかもしれません。

m147.gif第7回 瞑想で見たものは何か? リンク
自らの中に眠っている本能や人類が積み重ねてきた既存の知識、能力をフルに動員して集中しようとしている状態、それが「念=気づき」であり、「今ここ」の感覚が導くものなのだと思います。言わば潜在思念に耳を傾け、浮かび上がってくるわずかな感覚を拠り所にしている状態です。そして一旦その感覚を潜在思念から呼び起こすと、今度は一気にその感覚を今追い求めている課題に結び付けて考えてみる=諸所、整合する=気づくという流れです。
これが固定観念を一切捨てて物事を考える状態であり、本質的に360度の視点で追求する手法なのです。瞑想とはその追求状態を作り出す、導入口であり、逆にひたすら未知追求をするが故に作り出した心の状態ではないかと思うのです。

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【本シリーズを通じて学んだ事、発見した事、次代への期待】

仏教、儒教とも今から2600年前、私権国家の始まりに同時期に発生しています。
そして私権社会を通じて変化し、内容が変っていきました。
最も注目すべきは人類の私権社会の入り口にこれらの宗教の発生があった事です。
いずれの宗教も世界観を提示しました。

m282.gif 仏教は空という全てのものが繋がっているという世界観。
m282.gif 儒教は仁という全てを包含する心の在り様を示した世界観。

いずれも頭の中での訓練、修行を重要視し、仏教は瞑想、儒教は日常での実践を重要視しました。
今回のシリーズを通じて発見した事として、社会の大転換の時には、新しい原理、新しい適応態が立ち上がるという事です。この時代に登場した仏教、儒教とは私権社会にどう対峙するかというあらたな課題の中で登場したのです。その時に取った方法は、固定観念を排除して、ひたすら潜在思念を動員して答えを見つけ出すというやりかたで、これは人類が長い歴史の中で危機状況を向かえるたびに使ってきた追求手法でした。

現在、原始仏教や儒教の孔子の言葉に多くの人々が惹かれる現象が起きています。
人々が惹かれるのは、その思想の中身ではなく、その志ではないでしょうか?その志を作り出した彼らの飽くなき追求心なのだと思います。そういう意味では、儒教や仏教のような宗教が再び起きる事はありません。
 今、求められているのは私権社会から人類本来の本源社会へ舞い戻る際の志の形成であり、その為の人々を覚醒させる言葉です。言い換えれば人々の中の潜在思念を顕在化させる観念です。
例えば“社会を守る“⇒“世界を掴んでみよう”という言葉は、人々の底に眠っている未知収束の可能性を覚醒し、拡げていきます。私権社会の入り口で釈迦や孔子が発見した偉大な“気づき”や”志”を、私権社会の出口である現代の転換期に形成することができれば、私たち普通の現代人でも同様に新しい適応の為の認識を発見していけるのではないでしょうか?

そう期待してこのシリーズを終わりとします。

by tano

投稿者 tanog : 2014年11月11日 List  

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