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2016年08月12日

新説「日本史」第6回~藤原(秦)時代~《前半》

第6回はいよいよ国号「日本」の始まり、そして同時に天皇制の始まり、それらを演出した藤原氏政権の始まりを書く事になります。いわば日本書紀に書かれた以降の歴史の始まりです。しかし残念ながら我が国は日本という国号ができた時が最も本来の日本、縄文とはかけ離れた時代にありました。日本という名前を付けた百済だったのです

日本にはそれまで江南人を始め高句麗、伽耶、新羅と大陸から様々な渡来民を受け入れ、彼らは少なからず現地の縄文人や弥生人と混血、文化交流し日本的なる物に変わっていきました。そういう意味では渡来人でありながら日本人な訳です。ところが7世紀前半に入り込んできた百済人だけはそれ以前の渡来民とは大きく性格を異にしています。
一番異なるのが、彼らは本国を失い行き場をなくし、日本を第2の百済にしようと考えたのです。あわよくば日本を拠点にして百済を奪還しようと試みていた。それがあの勝ち目もないあり得ない戦争、白村江の戦いです。そして本国奪還が不可能となると今度は日本を昔から居たと欺きその中心に君臨した。それが藤原不比等であり、偽書日本書紀です。
不比等は自らがひたすら百済人であることを隠し、それ以前の日本の歴史(記録)を抹消しました。その挙句に出来上がったのが百済人の系譜を連綿と続けてきた天皇制なのです。

現在のこの情報化時代の中にあっても日本の国の始まりや天皇制の本質はタブーとされ追求されていません。追求した学者はこれまで少数ながら居ましたがいずれも迫害、除籍されその立場、存在を失っていきました。新説「日本史」の最も伝えたい一つがこの時代の中に結集されています。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
葛城・物部時代(200年~450年)250年間
葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間

■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
645年大化の改新(一巳の変)で蘇我氏が暗殺されると藤原政権が始まる。
藤原は中臣氏が変名した氏族だが、この時代突然現れ、その出自も明らかになっていない。
歴史上では突然現れた藤原氏が大量渡来した百済人をバックに大和朝廷を乗っ取ったように取れるが、蘇我氏から藤原氏に切り替えることを画策したのも秦氏であった可能性が高い。秦氏は後に奈良時代には藤原氏と血縁の関係になり、藤原氏率いる天皇一派と接近する。
朝鮮半島は660年に百済が滅亡、大量の百済人が日本に流れる。藤原氏は百済出自でこの時代の百済人を組織化し、秦氏の支援をバックにそれまでの伽耶―高句麗勢力を組み入れた。鎌足は百済奪還を目指して朝廷軍を繰り出すが、白村江の戦いで失政。

鎌足の後に登場した藤原不比等は持統天皇を初代天皇として天皇制を立ち上げ、それまでの蘇我、葛城時代の日本の歴史を全て無き物とする為に嘘の歴史書、日本書紀、古事記を編纂する。自らは右大臣に就任し、以後の藤原氏の政治権力を万全のものとした。
藤原時代は藤原京、平城京、平安京とそれまでの既存勢力を排斥する目的で遷都を繰り返し、平安時代以後は百済一色の藤原支配が確立した。

■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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m282.gif藤原不比等は百済系~奈良時代は日本を百済に染め上げる為の時代
百済~藤原氏は渡来して直ぐに日本を支配できたわけではない。奈良時代を通じて周到な地固めをした後、平安時代でその栄華を得る。

>不比等は藤原鎌足の息子と成り代わり、持統天皇の元、太政大臣に昇格。その後の日本の律令を定めていく。ただし、不比等は渡来して百済の後ろ盾がなく、止むを得ず土着伽耶系の豪族と手を組む。奈良時代とは百済系不比等と伽耶系豪族の連合政権であった。奈良時代に勃発した権力闘争は、百済系対伽耶系での主導権争いで、そういう意味では奈良時代は百済系の純粋王朝ではなかった。不比等が最も消したかったのは蘇我が立ち上げた高句麗系の日本の律令史であり、自らの百済の出自だった。不比等の系譜を日本古来から存在する藤原に仕立てたのだ。日本書紀、古事記はその為の歴史書として編纂され、日本の捏造史と併せて百済、伽耶が都合よく書かれた。
大和朝廷の誕生から明治維新まで~不比等を百済系として組み立てなおす

m282.gif百済はことばを通じて日本人の意識に浸透していった
百済は朝廷、公家を押さえると知識層を中心とした言語を用いて日本人の意識に長い年月かけて浸透していった。逆に言えば大衆はつい最近までその影響を受けなかったとも言える。
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奈良時代前にあった藤原京
>司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。
「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。
百済が日本にもたらしたもの~文化でなく言語にその本質があるのではないか

m282.gif百済支配の最も罪深い事
>藤原氏は、陰謀・テロによって政権を奪取、殺戮した王族の業績や正当性を隠蔽するために、それまでの日本の歴史を根こそぎ抹殺した。そして、日本において自らを正当化するために、古事記・日本書紀を捏造したのだ。
これが現代に至るまで、日本の歴史を捻じ曲げ、謎だらけにして混乱させている元凶であるが、現在の教科書や学者の言説を見ると彼らの狙い通りになっているように見える。
645年のクーデター・大化の改新の折、『天皇記』と『国記』が焼失しているのである。これらは、大化の改心の折、蘇我氏によって火が架けられたと通説は説く。しかし、これらの史書は620年の蘇我氏の政権下に編纂されたものである。
クーデターの首謀者・藤原氏と中大兄皇子にとって都合が悪いモノであったと考えて始めて説明がつく事である。
中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子にとって、『天皇記』と『国記』に記載された日本古代史を消さなければならなかった。
百済王族、藤原氏3 ~それまでの日本史を根こそぎ抹殺した藤原氏~

m282.gifなぜ日本の原点、日本書紀は誰も追求しないのか?
無題
>日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。
その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。
教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。
そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏」の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。
書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その1

m282.gif藤原氏が日本に食い込めた最大の影の力とは・・・。
秦氏は5世紀に日本に1万人規模で渡来した新羅系(古くは中国系)技術者集団ですが、日本での最大の影響力は蘇我氏時代に張り巡らした神社ネットワーク。後発で来た藤原氏が力を発揮するには秦氏の支援を受けずにはあり得ないはずです。蘇我に見切りをつけた秦氏は藤原氏に乗り換えたのです。決して歴史上には現れない秦氏ですが、神社ネットワークを残し続ける事で、その情報力、影響力は現在に至るまで厳然と残っています。
kaedeinarijinjya_01

>藤原家は、確かに秦氏とは婚姻関係にありますが、秦氏ではありません。藤原の祖は鎌足で、元は中臣(なかとみ)と言います。中臣氏の一族が鎌足の代になって帝より藤原の名を頂いて、それから藤原家が始まっているのです。元々は卜部(うらべ)氏や忌部(いんべ)氏など神道の神事を行っていた一族の血筋です。(中略)
天皇家の名のもとに色々と動かしていたのは藤原の事。秦氏が建立した全国の神社は八万社。関係している社をあわせると九万社に及ぶ。天皇家よりも古くから神事に関わっていたのは忌部氏。忌部氏は、物部の血筋。日向族から天皇制度が始まり、物部も秦氏も天皇家に支配される。秦氏の一部は山背の鴨川流域に拠点を置き‘鴨’を名乗り‘賀茂氏’となる。
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投稿者 tanog : 2016年08月12日 List  

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コメント

百済の亡命者は、本国を失って日本を第二の百済にしょうとした?
藤原鎌足は百済からの亡命者であったとすると、後の世に、それが成功したというわけだ・・・。

投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2016年8月13日 20:02

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