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2017年09月21日

「教科書の嘘を検証する」第7回~江戸時代は庶民と地方の時代

日本の歴史において最も平和で安定し、庶民の文化が発展したのはこの時代。
江戸時代の日本の文明レベルはその教育レベルにおいても諸外国と比べても遜色なく、むしろ、欧米を凌ぐレベルであった事が近年知られています。
しかしながら、明治以降を文明時代とする教科書のスタンスは江戸は徳川が支配する悪しき身分序列の時代と教えています。教科書が明治以降を美化し、江戸を蔑むその構造を見ていきたいと思います。いつものように先に教科書の記述を記載します。

江戸幕府の成立
 豊臣秀吉の死後、関東を領地とする徳川家康が勢力をのばしました。1600年、秀吉の子豊臣秀頼の政権を守ろうとした石田三成は、毛利輝元などの大名に呼びかけ、家康に対して兵を挙げました。家康も三成に反発する大名を味方につけ、全国の大名はそれぞれ三成と家康に分かれて戦いました(関が原の戦い)。これに勝利した家康は、全国支配の実権をにぎりました。1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を開きました。江戸幕府は、260年余りも続く戦乱のない平和な時代を作り上げました。この時代を江戸時代といいます。家康は1614年、1615年の2度に渡る大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、幕府の権力を固めました。

 大名や朝廷の統制
 幕府は武家諸法度という法律を定め、大名が許可なく城を修理したり大名どうしが無断で縁組をしたりする事を禁止しました。大名の参勤(江戸に来ること)は主従関係の確認という意味があり、第3代将軍徳川家光は、参勤交代を制度として定めました。これ以降、大名は1年おきに領土と江戸とを往復することになり、その費用や江戸での生活のため、多くの出費を強いられました。また、幕府は京都所司代をおいて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度という法律で天皇や公家の行動を制限し、政治上の力を持たせませんでした。

 教育の広がり
 京都や大阪などでは、学者が私塾を開き、武士だけでなく町人や百姓の入門も許しました。大阪の医者緒方洪庵の適塾には、全国から弟子が集まりました。長崎では、オランダ商館の医者シーボルトが医学塾を開き、手術などを行って見せました。諸藩では藩校を設け、武士に学問や武道を教え、人材の育成を図りました。庶民の間にも教育への関心が高まり、町や農村に寺子屋が開かれ、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技術を教えました。

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江戸時代を知る為の重要なポイントとして以下の3つの点があると思われます。学校の先生はそれを聞かれた時にどう答えるでしょうか?私はそれらを考えるきっかけを教科書の中に盛り込むべきだと思っています。

1.徳川はなぜ江戸に幕府を開いたのか?
2.参勤交代は何の為に行われたのか、本当に幕府の権力を維持する為だけだろうか?
3.江戸時代になぜ教育や学問が拡がったのか?寺子屋とは今の学校とどう違うの?
教科書の記述に決定的な間違いはありませんが、必要な歴史認識が書かれていません。赤文字を追記してみました。

 江戸幕府の成立
豊臣秀吉は天下を取ると同時に最も恐れたのが徳川家康の力です1590年に関東を押さえていた北條氏を滅ぼすと徳川家康に北條氏の旧領土を与え、代わりに家康が保有していた駿河、遠江、三河など五ヵ国の領土を取り上げます。関東を押さえる役割を与えたのと同時に怖い徳川家康を追いやったのです。しかし、豊臣秀吉の死後、家康が江戸を基点に勢力をのばします。江戸を含む関東地方は広く東北地方と繋がり、武士の起源でもあり、古く縄文時代の日本人の体質も残していました。
1600年、豊臣家を守ろうとして西側の武士に呼びかけて結集した西軍、石田三成との関が原の戦いに勝利した家康は、全国支配の実権をにぎりました。1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を開きます。江戸幕府は、260年余りも続く戦乱のない平和な時代を作り上げました。この時代を江戸時代といいます。家康は、1614年、1615年の2度に渡る大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、幕府の権力を固めました。

参勤交代が生み出した経済と自治のしくみ
幕府は武家諸法度という法律を定め、大名が許可なく城を修理したり大名どうしが無断で縁組をしたりする事を禁止しました。大名の参勤(江戸に来ること)は主従関係の確認という意味があり、第3代将軍徳川家光は、参勤交代を制度として定めました。これ以降、大名は1年おきに領土と江戸とを往復することになり、その費用や江戸での生活のため、多くの出費を強いられました。
しかし、一方で江戸に全国の情報や物産が集まり、大名は江戸に来ることで最先端の情報を地方に持ち帰ることができました。さらに江戸に巨大な消費が生まれる事で江戸を中心とした市場経済が生み出され、全国に広がっていきます。江戸時代は幕府が地方自治、地方の自給自足を奨励した為、各大名は互いに競いあい、江戸から持ち帰った技術や情報は各藩の活力にも繋がっていきます。このように参勤交代は当初の目的以上の社会的効果をもたらしました。

 教育の広がり
戦争がなく治安の安定した江戸時代の最大の特徴は教育や学問の自然発生的広がりです。
京都や大阪などでは、学者が私塾を開き、武士だけでなく町人や百姓の入門も許しました。大阪の医者緒方洪庵の適塾には、全国から弟子が集まりました。長崎では、オランダ商館の医者シーボルトが医学塾を開き、手術などを行って見せました。諸藩では藩校を設け、武士に学問や武道を教え、人材の育成を図りました。庶民の間にも教育への関心が高まり、町や農村に自主的に寺子屋が開かれ、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技術を教えました。
寺子屋は19世紀の初め頃から登場し、江戸だけでも400~500、全国では1000~1500ほどあったと言われています。その結果江戸時代の日本人の識字率は90%以上あったとも言われており、これは同時代の諸外国と比べても飛びぬけて高い数字です。明治以降の教育は国が中心になって作り上げたのに対して江戸時代の教育は庶民達が中心なって教材も教師も学校も作り出していた事は注目に値する事実です。

参考記事)
江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由

江戸は縄文の再生3.~中央と地方を逆転させた江戸の理(ことわり)

明治以降の義務教育で日本人が失ったもの 1

 

投稿者 tanog : 2017年09月21日 List  

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