表に出ることなく、裏で日本を操ってきた秦氏 |
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2020年05月07日
カルタゴの歴史はローマによって抹消~奥の院の出自は抹消されたカルタゴ発
現在の金貸しの奥の院である「サボイ」「デルバンコ」「タクシス」はいずれもフェニキア人(海賊)の末裔と言われている。かつてはカルタゴで貿易国家を謳歌していたフェニキア人達は、ローマに殲滅されヨーロッパの各地へ拡散、追っ手の恐怖に怯えながらイタリアやスペインで生きながらえた。彼らがその後逆襲に出ながらも決して表舞台の国家や政治を担わずひたすら裏で支配の手を磨いてきたのもカルタゴ消滅の歴史に拠る。
以下、いくつかのブログからカルタゴとフェニキア人を紹介しておきたい。
著者はかなりカルタゴやフェニキア人に入れ込んでおられるが、少なくとも史書が焼き捨てられ、歴史を抹消されたとする件は、日本における奈良時代の藤原不比等の歴史書き換えによる国家乗っ取りと似ている。日本人は歴史を抹消されただけで縄文人を母体とする土着は生かされたが、地中海のフェニキア人はローマ人に徹底的に迫害、殲滅された。その凄まじさが奥の院の徹底した現実主義、生きる為の追求エネルギーにその後転化したのでは。
リンクより掲載
フェニキア人の地中海における交易路
■カルタゴとフェニキア人
私達が今日目にすることができるのは、勝者であるローマが作り上げた歴史のみです。
その中では、カルタゴは野蛮なアフリカの一国家であり、バール神に人身御供を捧げ、地中海で海賊行為を働き、ローマに討伐されたことになっています。また、第2ポエニ戦役で活躍したカルタゴの名将ハンニバルについても、酷薄な野心家として描写され、第2ポエニ戦役勃発の責任を、全て彼の条約破棄による独断専行が原因であると決めつけています。しかし、本当にそうだったのでしょうか?
敗者カルタゴの歴史は抹消され、検証すべくもありません。ローマは、第3ポエニ戦役の後、カルタゴの城邑を破壊し尽くし、民を殺し、その地に塩を撒いて、人の住めない荒地にしてしまいました。何故そこまでする必要があったのでしょう?私はここに、勝者ローマの作為を強く感じます。
カルタゴ人の祖先、フェニキア人は、私達が世界史で最初に習ったように、アルファベットを考案した民族でした。彼らは、ローマがまだ未開の地であった頃に、高い文明を打ち立て、交易相手を求めて、勇敢に地中海へと乗り出していったのです。そして、今のチュニジアに建国した中継都市がカルタゴでした。
従って、カルタゴは、純粋な商業都市国家であり、王というものは存在しません。元老院・百人会・民会という3つの議会により全てを決定し、対外的な代表としてスフェスと呼ばれる執政官を選出していました。軍隊は自衛用にわずかを保有するだけであり、ギリシア等と争いが起こった時には、隣国ヌミディア(今のスーダン)を初めとする外国の傭兵を雇い入れていたのです。これは、日本の戦国時代の「堺」に良く似ています。
地中海世界の殆どの国が、未開か、原始的な王制であった、紀元前700年という時代に、カルタゴは既に貴族主導とはいえ民主制を導入していたのです。
ローマにとって見れば、膨大な商業利権と富を持ちながら軍事力を持たないカルタゴは、自国の権益を拡張する上で、目の上の瘤であると同時に、絶好のターゲットであったはずです。カルタゴが作り上げていた貿易ネットワークに新規参入してきたローマは、最も簡便で効果的な方法を採りました。「相手を叩き潰して、根こそぎ奪い取る」です。ローマは、軍事力を盾に、次々とカルタゴの交易相手を屈服させていき、ここに両国の利害は真正面から衝突することになりました。商船は撃沈され、商業権益を奪われて、貿易立国のカルタゴは、国家存亡の危機に陥ります。
ついにカルタゴは、国家の存立を賭けて、ローマとの戦争に踏み切り、おびただしい傭兵を雇い入れます。これが第1ポエニ戦役でした。しかし、ローマの正規軍に対して、金で雇われた寄せ集めの傭兵は歯が立たず、民兵は訓練不足で役に立ちません。商船を改造した軍船は、ローマのガレー船に近づくこともできず、次々に沈められていきます。カルタゴは、23年間持ちこたえましたが、ついに敗れ、ローマは、地中海の制海権と権益を奪い取ります。敗れたカルタゴには、膨大な賠償金が課され、報酬を受け取ることができなくなった傭兵たちの反乱も加わって、国内は大混乱に陥ります。
この事態を収拾したのが、ハンニバルの父、ハミルカルでした。
「稲妻」と呼ばれ、優れた将軍であった彼は、各地に点在するフェニキアの植民市のうち、殆ど未開であったスペインの「カルタゴ・ノヴァ(カルタヘナ)」に目をつけ、一族を率いて移住します。そして、現地の民族を味方に引き入れ、カルタゴのアキレス腱であった軍事力を充実させて、ローマの脅威に備える一方、現地の金銀をカルタゴ本国に送り、財政の建て直しを図ります。ハミルカルのこの行動と、本国の政治家たちの奔走により、ようやくカルタゴは復興していくのです。
(中略)
敗れたカルタゴの人々は、海上に逃れ、海賊となって、その後もローマに抵抗を続けます。それは、一つの民族の怨念と言えるでしょう。後に三頭政治の一角を形成するポンペイウスが鎮圧した海賊とは、このカルタゴの遺民たちのことです。
こうして、カルタゴは、歴史の中に消えてゆきました。ローマはその後、千年の繁栄を謳歌し、敗者たちを貶め、嘘の歴史を作り上げました。しかし、わずかに残る断片的な文献は、これらの歴史が作為的なものであることを、如実に伝えてくれます。後世の史家や文学者達は、それらを渉猟し、真実に迫ろうとして努力を続け、最近では、カルタゴに対する評価は、依然とは全く違ったものになろうとしています。歪められた歴史の是正には、実に2千年余りの月日を要したのです。
■(ざっくりと)フェニキア人とは何者か?
フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍する。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。
フェニキア人の建設した主な主要都市には、アラドス(現在のアルワード島)、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュブロス、ベリュトス(現在のベイルート)などがある。後期青銅器時代には、これらの都市が存在していたことがアマルナ文書から確認できる[4]。フェニキア人は海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。
しかし紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。アッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。しかし、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によってティルスが征服されると、マケドニア系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となった。
一方、紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。
■そしてこのフェニキア人は秦氏に繋がり、日本に繋がっていると言われている。
そのくだりは次回の投稿とさせてもらいます。
投稿者 tanog : 2020年05月07日 TweetList
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