2020年5月21日
2020年05月21日
ウバイド人もシュメール人も同じ民族である~灌漑農耕が私権社会への引き金となった
ウバイド人もシュメール人も謎が多く、出自に諸説あり未だに民族の系譜は明らかになっていない。
挙句の果てにはシュメールは宇宙人だとか、ウバイドはキングメーカー等と極端な説が登場しており、未だ謎のままである。
今回はこの出自の問題にケリをつけたい。
これらの民族がなぜ謎なのかの一番の理由は今から7000年も8000年も前にも関わらず高度な文明の痕跡を残したという事のようだ。
その解明のヒントは以下の部分にある。
>黄金の利用価値を理解していたため、ウバイド人たちは世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図った。収集の方法は、ウバイド人が各地に移住し、高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に密かに収集していた。灌漑によって飛躍的に食料生産規模を高めたエリアは文明が発達していった。リンクより引用
ウバイド人は黄金を理解していた、そこに目を付けがちだが、この文章で重要なのは灌漑技術の発見である。種から栽培し人工的に植物を生み出す農業は既に11000年前に人類史に登場しているが、灌漑技術はそれから下って約8500年前に登場したと言われている。灌漑技術とはそれまでコントロールできなかった“水資源”をコントロールできるようになったこともあって、河から水路を作る事で乾燥地であってもで水を必要な時に農地に供給する画期的な仕組みを編み出した。それまでは限られた湿潤地帯でしかできなかった農業を河川周辺であればどこでも農業が可能になり、多くの人を養う事が可能になり、都市の形成が始まるきっかけとなる。実際にメソポタミアでは1万人を超える都市国家が生まれている。
灌漑農耕の最大の謎は鉄がまだ登場していない時代に「どのように土を掘り、水路を固める等、大掛かりな土木工事をする事ができたのだろうか」という点。この謎には別途取り組んでみたいが、私が考えるに馬や牛に木製や石造の農工具を引かせて固い土を切り開いたのではないだろうか?またウバイド人は既に高度な土器文化も持っており、粘土質の河川周辺の土も水路の表面を突き固める材料として上手く利用した可能性がある。いずれにしてもこの時代に大土木工事をするというのは相当な人工と集団の結集が必要になった事は明らかで、乾燥地帯に登場した彼らが「厳しい外圧」を直視して生み出した人類最大の産業革命であっただろう。
しかし一旦灌漑農業が発明されるとその後はその民族、その地域は圧倒的に進化する。
それが彼らが高度な文明を持っていたとされる所以で、すべては最初の灌漑農耕にあったのだと解釈。ウバイド人はこうして灌漑農耕を起点に定住し、土器を発明、黄金の収集も行った。まとめると元々メソポタミア地方周辺に居た土着採取民、農耕民が牧畜を開始、そこで得た動物のコントルール技術を元に灌漑土木工事を遂行、乾燥を契機に灌漑農業を開発し、地域一帯に広がった。歴史を長く俯瞰すると戦争の始まりが私権社会の始まりであるが、この灌漑農耕の発生が私有意識を生み出し、水の利権争いを発生させ、やがてその争いは民族同士の闘争=戦争へ繋がっていく。灌漑農耕の時代=ウバイド期はその後5000年間継続する私権時代の前夜だったと言える。
次に約6000年前に登場したシュメール人である。歴史上はウバイド人はシュメール人に押し出されてメソポタミアにはシュメール人が残り、メソポタミア文明はシュメール人によって生み出されたとされている。但し、このシュメール人の出自が明らかでなく、一説にはドラビダ人、さらに宇宙人という説もある。しかし実はシュメール人は突然来たのではなく、これもウバイド人同様に土着の民が灌漑技術を元に都市国家を形成したのである。なぜ土着かと言えば、最大の理由が日本人同様に彼らの言語体系にある。膠着語という言語様式を持っており、この言語は古代人である縄文人(→日本語)でしか見られない最古の言語形態だ。そう考えると、シュメール人とウバイド人は同部族であり、ウバイド人=シュメール人である事はほぼ確実だ。実際、ウバイド人とシュメール人は戦争の痕跡もないし、どちらも高度な灌漑技術をもっていた。また、彼らはセム・ハムで言えばハム系であり、シュメール人もその後周辺の武装部族に押し出され、インド、北アフリカへ移動する。
シュメール人はその後、インドでインダス文明を立上げるが、500年後には武力部族のアーリアに押し出され、西方へ。大月氏としてチベットの奥でしばらく定着。2230年前に中国に進出し、秦を立ち上げる。秦の始皇帝はシュメールと何らか重なっており、秦時代の技術者=秦氏が日本に渡来し、天皇系に繋がる。秦の始皇帝は中華民族ではなく、異人と言われ、西方から来た事は既に歴史書に書かれている。秦や天皇家がシュメールと繋がるという学者は居るがどよのように繋がっているかを示した説は殆どない。当ブログでは、上記に書いた経路が始皇帝、天皇家=シュメール人と言われる流れとして提起したい。
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下記、メソポタミアの灌漑農耕について書かれたブログの引用である。概況がよくわかる。
人類が最初に灌漑農業をおこなったとされているウバイド期は、BC6500~3800年の2000年以上もつづいた。しかし、ウバイド期がどのような社会であったのか、よくわかっていない。
わかっているのは、泥の日干しレンガで家屋を建設していたこと、灌漑農業をおこなっていたこと、コムギ、オオムギ、豆類、亜麻などを栽培していたこと、ヒツジ、ヤギ、ウシの牧畜をおこなっていたこと、漁撈をおこなっていたこと、彩色土器がさかんにつくられたこと、10ha以上の「都市」があらわれたこと、社会の階層化が徐々にすすんでウバイド期の代表的な遺跡としては、エリドゥがある。エリドゥは、最大時に1万人が居住し、世界でもっとも早く登場した「都市」と考えられている。いったことなどである。古代のメソポタミアの農業についての研究は、粘土板文書の文献研究が中心で、考古学的な研究がほとんどすすんでいない。文献研究では、前川和也先生の研究がある。
前川先生は、ウル第三王朝時代の粘土板文書から、“erin”と呼ばれる集団労働組織が存在し、灌漑の専門の仕事に従事していたのではないかと推察している。水門、用水路などの灌漑施設の建設と管理は、部族集団の組織的な労働、高度な知識の蓄積、社会の階層化、ポトラッチによる部族間の利害の調整など、社会の高度化をもたらした。そして、都市の登場によって、知識の集積と社会の高度化が急速にすすみ、農耕文明の成立につながっていったと思われる。
投稿者 tanog : 2020年05月21日 Tweet