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2010年05月12日

シリーズ:『イスラムを探る』第2回 イスラム教誕生前夜の状況

シリーズ:『イスラムを探る』第2回 イスラム教誕生前夜の状況


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イスラムの世界を知るには、アラビア半島の自然環境やイスラム以前のジャーヒリーヤ時代の歴史を紐解く必要があります。ジャーヒリーヤ時代の詳細は後日、詳細分析をしたいですが、なんせ、資料が少ないこともあり、今回は、簡単にご紹介いたします。(この時代は、『頑固猫の小さな書斎イスラーム前史:古代アラビア史1~4』が詳しいです。)イスラム教誕生前夜の状況は、紀元前から厳しい環境の中でも安定して暮らしていた遊牧民の歴史と伝統のなかで育まれた日常や規範が、急速な市場拡大により、崩壊の危機にさらされた背景があると思われます。社会統合・国家統合という観念のない(=武力支配国家の成立していない)彼らにとっては、それは大きな脅威であったと思われます。イスラム教は、それらとどう折り合いをつけるかを考え誕生したように思えます。そう考えると、過酷な環境を生き抜いてきた遊牧民も、イスラム前夜の時代は、人間本来の本源性を有しているとも見られ、この状況を正確に押えることで、全世界で11億人信徒を抱えるイスラムの可能性を探って見ます。
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◆1】イスラム教誕生以前のジャーヒリーヤ時代の状況
まず、イスラム教誕生以前のジャーヒリーヤ(ジャーヒルは、無知を表し、真なる知識を持たなかった時代と言う意味。無明時代ともいうが、事実とは違うらしいです。)の状況と歴史を簡単に押えておきましょう。
『頑固猫の小さな書斎イスラーム前史:古代アラビア史1~4』ほかから抜粋しています。
この時代のアラビア半島の歴史的記述は、あま正確に残っていないようなので想像するしかありませんが、北アラビアと南アラビアでは外圧・社会状況が若干、異なるようです。こんな状況でした。
1】環境・自然
常に辺境の地、不毛の地、砂漠乾燥地帯だが未開ではなかった。南は若干、灌漑設備があれば、農耕ができたようだが、メッカを含む北アラビアは、非常に不毛の地であったが、オリエントやシリアに近い状況ではあった。
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2】言語
アラビア語を使うが、半島の北と南では、文字も違い、単語の発音にも差違も大きかった。別言語のようだが、話し言葉以外に北アラビアでは詩や散文、商業上の契約のために書記が扱う文章語としてのアラビア語が共有されていたようである。(このアラビア文語はクルアーン後期の散文的啓示を手本とした正則アラビア語の元となった言語であると言われている。)
3】生産様式
半農民半牧畜または遊牧の生産様式。沙漠化が進行するに伴い、都市文化が衰退していった。
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4】集団の系譜など
イスラム前史における集団の系譜は母系とも言われる。7世紀の急激な市場化に伴い、私有財産継承などの理由から、父方の系譜を重視したとも言われる。部族的系譜神話を自集団に付与、他集団と言語とともに共有。血縁はあまり重視されていない。
5】民族意識
無数の小集団が幾つかの都市や定期市や巡礼を介して、遠い祖先を同じくするかもしれない「アラブ」として認識を共有し、緩やかに結びついていたと思われる。
6】マッカ(メッカ)
定期市場や巡礼、人的交流等のコミュニケーションの場、中継基地的な都市の一つが、マッカだが、複数あった交流拠点の一つでしかなく、また他の都市やオアシスに比べて重要度は、さして高くなかったと思われる。辺境のアラビア半島における、さらに地方にあった小さなオアシス、神殿都市に過ぎなかったのである。7世紀前後のメッカは経済的にも豊かで、社会的にも周辺アラブ諸族の宗教・文化センターとして発展しつつある時期。その後、経済活動の活発化、都市化の進展は、貧富差の拡大、都市問題など新たな問題を生み、遊牧民の部族信仰では対応しきれなくなっていた。
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7】政治・戦争・部族間同類闘争
アラビア半島における政治史は、資料は少なく詳細は不明。部族集団間で協力関係もあった。勢力としては、大雑把に北アラブの勢力と南アラブ(イエメン)の勢力に分ける事が出来るようだ。紀元前9世紀以降サムード族など、シリアから北アラビアに存在した人々が記録される様になった。南北もいくつかの小都市を作って、互いに争い合っていたようである。
●北アラビア
 紀元前4世紀頃~紀元前後、ローマ帝国の属国となるまでナバテア王国が勃興。壮麗な遺構で知られる首都ペトラを中心に乳香貿易などで財をなし、紀元前1世紀頃から急速に領土を拡大し交易路と隊商都市を抑えて北アラビアの大部分と現在のダマスカスまで至るシリア南部を制圧して勢威を振るった。アラビア語を使用した遊牧集団。宗教的には古代アラブの多神教と信仰体系を同じくしていた。紀元前後には内陸交易の衰退に伴って没落。その後、ローマの管理下、シリアと北アラビアは、その後は平和の時代が長く続いた。
●南アラビア
南アラブはイエメン(ヤマン)のヒムヤル王国を主軸としてイエメン誕生。降水量がアラビア半島では例外的に多く、潅漑・給水施設が整っていれば自活できる農耕が可能な場所。また小規模な国家が1000年以上存続するなど、長く安定した社会を形成。言語は文字や話し言葉について、紅海を隔てたアフリカ大陸のアクスム王国との類似性があり、同一の文化圏を形成していたと推定。南アラビアでは紀元前八世紀前後にいくつかの社会集団が形成され、前六世紀頃に国家と呼べる組織を作りだしたようである。人々は主にシリア方面との交易を行い、道路と港、宿駅を整備し、都市を発展させていった。
イエメンの主な王国としては以下のものが挙げられる。
・アウサーン王国(首都ハガール・ヤヒール、紀元前八世紀~紀元前五世紀頃。滅亡後も首都自体は繁栄)
・ハドラマウト(首都シャブア、前八世紀頃~紀元後300年頃。イエメン南東に成立)
・マイーン(首都カールナウ。前八世紀頃~前一世紀。最も北の内陸に成立)
・サバァ(所謂シバの王国、首都はマリーブ。前八世紀~紀元後275年。イエメン北西から内陸にかけて勢力を持った)
・カタバーン(首都ティムナ、前八世紀頃~紀元後200年頃。南西部から内陸に領土を拡大)
大まかにいえば、時と共に南アラビアの小王国や遊牧民は統合され、最終的に紀元後に新たに勃興してきたヒムヤル王国に政治的に統一されていったとなろう。紀元1世紀から2世紀にかけて、サバァ、ハドラマウト、ヒムヤル南アラビアの三王国は互いに絶え間なく争い、政治混乱が続いていたと言う事である。その原因は、おそらくは経済的なものであったと思われる。
以降、南アラブの人々の中で、アクスム王国の圧力で離散したり、北方に移住したりする人々が増えていった。また北アラブの人々が南下して、南北の混交が進んでいくことになる。4世紀、ローマ帝国が分裂し、6世紀後半、ササン朝ペルシャとビザンツとの対決姿勢が再び鮮明となって、メソポタミア経由の従来のシルク=ロードが遮断され、代わってアラビア半島経由の交易路が活性化した。特に紅海沿岸のヒジャーズ地方のメッカなどの諸都市が繁栄し、貧富の格差増大や部族社会(相互扶助の伝統)の崩壊などの変化が生じ、宗教・社会改革の必要性が生じ、イスラム教成立の背景となった。
8】宗教
宗教はアニミズム的偶像崇拝。聖岩・奇岩・偶像を氏神として尊崇し、これに現世利益を願うものであった。これらの偶像神には特定の各部族集団個々に、あるいは複数の部族集団によって尊崇されたものがあった。しかし当時すでにこれらはなかば儀礼化・形骸化していた。
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◆イスラム誕生前夜の外圧状況
以上、簡単ですが、イスラム前史を見てみました。さて、このイスラム思想の誕生の背景がよくわかるサイトをご紹介しましょう。
『イスラム文明論』
日本を守るのに右も左もない『統合機運の基盤⇒イスラム教(遊牧共同体国家による市場の制御)』
『イスラム誕生前夜、7世紀頃のメッカの状況』( 匿名希望☆)
縄文と古代文明を探求しよう!『イスラムの夜明け ~メッカと国際情勢~』
これらのサイトを読んだ上で、前史の状況を勘案すると、こんな仮説が成立しないか?と思っております。この時代の外圧状況は、
1】イスラム前史における遊牧民は、安定して部族集団どうしでもオアシスを分け合う等協働関係を持ち、しかも、紀元後7世紀になるまでは、母系集団であり、環境の厳しい辺境の地でありながらも、協働性≒本源性を残しつつ、安定した生活を営んでいた。また、環境が少しでも変化すると限られたオアシスを廻って奪い合いとなるしかなく、小部族間での小競り合いは多かった。
2】生活は豊かではなく、降雨がなければ牧草も家畜も育たないベドウィン(アラブ系遊牧民)に見られる、飢餓に直面し、定住民や他部族を襲い、略奪をするが、人を殺さないという規範(殺せば必ず報復を受ける)や客人や助けを求める者に対しては、これを快くむかえて保護を与えることを義務とする意識の傾向は、本源性を垣間見ることができる。
3】当時のメッカはかなり裕福であり、急激な市場化の波にさらされていた。しかし、自然外圧が高く、集団の結束力は維持したまま、集団同士で争いあっていたように思われる。

『まず第一にわれわれの常識を覆すのは次のことである。それを一言で言うならば、「イスラムは砂漠の砂嵐の中から生まれたというよりは、むしろ都市の金銭の洪水の中から生まれた」ということである。』

『そもそもイスラムというのは、砂漠の遊牧民の中から生まれたものではなく、高度に経済的に繁栄した都市の真中で誕生したものなのである。そして当時のメッカというのは、まさしく砂漠の真中に忽然として出現した金銭万能の小宇宙だったのである。』

『当時のメッカは本質的に商品経済が高度に発達した商業社会だった。都市内部には当然のこととして農業を職業とする人々はほとんどおらず、市民のほとんどは商業によって収入を得るビジネスマンによって構成されていた。
 彼らメッカ市民の性格を一言で言えば、それは「個人主義者」の一言に尽きるといってよい。確かに彼らはあまり本を読まず、したがって見るべき文化や芸術も発達させることはなかったが、それらは彼らの文明水準の低さの証というよりは、むしろ彼らが金儲けに忙し過ぎたからである。実際、商業に役立つものでありさえすれば、例えば為替だの簿記だのといった技術は相当に高いレベルにあったとみられる。』

『東西通商のちょうど中央位置を占める彼らは、金さえあれば東西世界の最新の品物を容易に集めることができた』

『そんな彼らにとって人生の目的とは何かと言われれば、むろんそれはビジネス・チャンスをつかんで金持ちになることだった。』

『イスラム文明論』より。
という状況であるようだ。
4】エリート層を取り込むことの可能な思想であったらしい。
『キリスト教世界の歴史は、下層階級による階級闘争と、知識人の脱獄の歴史である。これに対してイスラムは全く逆である。当時のメッカ市民が金儲けに忙しくてギリシャの本を読む暇がなく、議論の粗探しをして喜ぶだけのしょうもない似非インテリが少なかったことが幸いして、彼らはギリシャ的教養との死闘を経ることなしにエリート層を取り込むことが可能だったのである。』
メッカは、イスラム以前から、かなり「進んだ」都市の中の個人主義社会だったとの説もあるが、前史の状況を考えると、私はこう考える。
もともと相互扶助、オアシス契約などの安定した社会を築いていた本源性をもった遊牧部族が、国家や武力の制覇力を持たない緩やかな部族統合社会を、厳しい環境の中においても実現していたが、大国(ササン朝ペルシャとビザンツ帝国(東ローマ帝国)の衝突により通商交易ルートのシルクロード封鎖→南へ迂回しアラビア半島を経由し始めたために、いきなり、むき出しの金銭万能の社会という市場原理や自由恋愛思想の席捲にさらされ、道徳や規範の退廃、個人のエゴ=自我肥大が短期的に急激に金銭を軸にして増殖し、共同体の秩序・規範を凄まじい速度で食い潰しつつあった時代であると思われます。
 言い直せば、共同体的遊牧部族たちが、武力という制覇力=力の原理を持たない状況で、いきなり自我をくすぐる市場化の急激な波にのみこまれ、共同体規範と社会統合規範を悉く駆逐してゆく社会状況に追い込まれたということだろうと。
『急激な力の制御なき自我肥大社会』が訪れ、きわめて危機的状況が生まれたと考えられます。

このような状況下において、本源性を解体される危機感、身勝手な他者否定・自己正当化の社会を見たムハマンドが、先駆的に潜在思念で現実の状況と折り合いをつけて想像されたのがイスラム思想=イスラム教といえるのではないだろうか?
現に、イスラムの思想は、観念レベルにとどまらない日常生活の規範までも規定し、その厳格さは、厳しい自然外圧を受けた遊牧民の規範と急激な市場化と自我肥大化を抑制し、なおかつ、己の交易・隊商貿易(キャラバン)・商人の思想を否定せず、かつての相互扶助の精神や助け合いの義務を織り込み、女性の強さも理解しその制御までも規範に取り込み、作り上げられたものだろうと思われます。
私達が聖戦(ジハード)とか、原理主義とかいってかなり否定的に捉えがちなイスラムでありますが、これらは、欧米から見たイスラムの世界であり、極端にいったらキリスト教の異端としてみた視点であることをわすれてはいけないと思います。このような外圧状況を把握すると、違った視点で観察できます。
さて、このような状況下において、次は、【ムハンマド登場と急拡大したイスラム教】と続きます。このような社会統合機運が高まったことにより、ムハマンドが登場します。乞うご期待。

投稿者 2310 : 2010年05月12日 List  

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コメント

>「みんなに言いたい。私の教えもこの筏と同じなのです。私の教えは大河を渡るための手段であって、執着する目的ではないのです。だから、私の教えに執着してはなりません。時には捨てるべきなのです。」
なるほど、教えは手段であり目的ではない。釈迦の教えは宗教ではなく法だと言われる所以がここにあります。後の弟子たちが法典をまとめあげていきましたが、この釈迦の「執着するな」という教えが次々と新しい法を塗り重ね深めていく幹になったのだと思います。
>教えの本質は、一人一人に与えられた固有の人生を、積極的に肯定しつつ生き抜いていくことのできる智慧と、たくましい生命力が、人間の内なる心に厳然として実存していることを明らかにすることでした。
宇宙とかカルマと言われる人の中に内在するエネルギーを釈迦は肯定という言葉をもって説いています。たぶんこれを聞いた人が自らの中にまだ未開発な大きなエネルギーを感じ、それを作り上げ、きっと生きていく希望を得た事だと思います。
そしてこの部分はインドのヴェーダ思想からしっかり引きついでいます。
仏教についてこれまで知らなかった点をよく調べて投稿いただきました。勉強になりました。

投稿者 tano : 2010年8月3日 21:07

 釈迦の目指したことが、キリスト教やヒンズー教との違いが良く分かり勉強になりました。
 釈迦の言う「苦悩や欲望に囚われた人間」とは私権意識に染まった人間といえそうですね。
 自我を捨て、ひたすら法(事実の認識)を追及する姿勢は、私たちの目指すところと同じです。
 ただ、貧困にあふれた、私権の拡大期に、私権を否定すれば、社会から遊離するしかなく、仏教が厭世的と言われるのも仕方のない面があったのだと思います。
 「るいネット」には「現在は、(本源価値の)実現の時代である。」http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=7453 とあります。
 釈迦がどうしても超えられなかった壁を、突破する基盤が既に存在しているのです。そのことに感謝して、皆で(本源価値を)実現していきたいですね。

投稿者 tama : 2010年8月3日 22:12

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