宗教ってなに?6~近代思想と宗教は同根~ |
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2010年05月18日
シリーズ:『イスラムを探る』第3回【ムハンマド登場と急拡大したイスラム教】
こんにちは
ムハンマドがアッラーの啓示を受けてから、約20年後にはアラビア半島をほぼ統一しイスラム共同体を作り上げている。
こんな短期間に統合国家を実現するのは驚異の沙汰。
しかも、ムハンマドの死後、内部対立がありながらも、その統合中心であるイスラム教は現在まで厳然と生き続けている。
如何にして実現したのか、追ってみたい。
570年頃 ムハンマド(マホメット)が生まれる
610年頃 ムハンマド、神(アッラー)の啓示を受ける
622年 ヒジュラ(聖遷)イスラム紀元
630年 ムハンマド、メッカを征服(→アラビア半島統一)
632年 ムハンマド死去。正統カリフ時代始まる
642年 イスラム帝国がササン朝ペルシア軍を撃破(ササン朝は651年滅亡)
650年頃 コーラン(クルアーン)の成立
661年 ウマイヤ朝成立(~750年) →スンニ派とシーア派に分裂
711年 西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配
750年 アッバース朝が成立(~1258年)
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●ムハンマド登場の背景
シリーズ:『イスラムを探る』第2回 イスラム教誕生前夜の状況にあるように、ムハンマドが登場したのは、遊牧共同体集団が急激に市場の旨みを手にしたことによる共同体崩壊の危機の潮流であった。
●アラブ統合はどのように実現したか
集団を越えて社会を統合するのに必要なのは、統合の担い手は勿論のこと、統合観念と、統合ならしめる力。
統合者(統合機関) :ムハンマドとその仲間→ウンマ→国家
統合観念(法律、規範):ムハンマドの教え→イスラム教
力(武力) :軍事力
順に見ていきたい。
●統合観念(ムハンマドの教え→イスラム教)
イスラムを見ていくと以下のような単純な疑問が浮かぶ。
・部族集団の多神教から、なぜいきなり一神教となったのか?
・イスラム教はなぜ厳しい戒律を課しているのか?
『なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(4)観念力の本質である考える力とは』より
それまでの部族連合国家では守護神信仰や神話の共認によって統合されていたが、部族間の緊張圧力や交易や連合、さらには服属部族をどう支配するかといった課題に対しては、部族間の意思疎通が不可欠であり、その部族の中でしか通用しない守護神や神話では統合できない。観念に世界的普遍性をもたせる必要がある。
こうして各部族の潜在意識のレベルで社会統合機運が上昇し、それを鋭敏にキャッチして、守護神や神話を超えた、より普遍的な観念(古代宗教)を作り出したのが、釈迦や孔子やユダヤ教の預言者たちである。
『統合機運の基盤⇒イスラム教(遊牧共同体国家による市場の制御)』より
ムハンマドの目指したものは、集団の破壊ベクトルをもつ市場を遊牧部族の共同体連合国家によって制御することだったのではないだろうか。集団を超えた市場を制御するためには、集団を超えた規範観念の共認が不可欠である。『コーラン』をはじめとするイスラム法が、人々のあらゆる活動を律する規範体系となっているのは、そのためであろう。
いずれも社会統合の為に必要だったわけですね。
古代宗教が登場したのが約2,600年前、ムハンマドはそこから約1,200年後に登場している。
当然、既存の宗教を手本に考察を重ねていったと考えられます。
一神教のアッラーの神は各部族の守護神信仰を超えた存在として設定する必要があったわけですが、イスラム教は宗教というよりは、部族集団の共同体規範をベースとして、自我を制御するための規範観念の体系と捉えた方が分かりやすそうです。
●力(軍事力)
いつ頃からムハンマドが強大な武力を持つに至ったかは正確には分かりませんが、630年のメッカ征服時には、1万人の軍隊を率いて無血征服を成し遂げているようです。
力の背景があったのは間違いないようです。
●統合過程(ムハンマドとその仲間→ウンマ→国家)
では実際にどのように統合を進めていったのでしょう。
・まずメッカにて、神の規範に従う事で統合されている血縁を超えた個々の人間の結びつき、
つまり宗教による共同体をつくろう、と呼びかける。
・そうしてメッカでの信徒は約70人に至る。
初期の仲間には高い能力をもつ政治家・戦略家・武将などの知識層を多数擁している
・621年、メディナ紛争の調停者としてムハンマドが招かれる。
・622年、70人の信徒とともにメディナに移住する。
・メディナでイスラム共同体=ウンマ建設にとりかかる。
・内乱を調停後、「メディナ憲章」を各アラブ集団から取り付ける。
ムハンマドの教えや定めた規律に従ってメディナ社会を再建することになり、ウンマが樹立。
・アラビア半島への勢力の拡大
個々のアラブ集団と盟約・契約関係を結ぶという形で勢力を広げる。
条件として「イスラームを受け入れること」と、サダカ=喜捨を納めること。
異教徒のまま服属した場合は、ジズヤ=人頭税を課し、
代わりに武力を背景に安全保障が与えられる。
・ムハンマドが亡くなるまでに、アラビア半島のほとんどの集落、都市、部族が契約関係を結んだと言われている。
・ムハンマドの時代はイスラム共同体とも言うべきもので、ムハンマドの死後、661年にはウマイヤ家によるウマイヤ王朝=イスラム王朝が成立している。
ムハンマド時代の終わりまで
地図は「世界史地図理解」さんからお借りしました。
概略の拡大過程を見てきましたが、超短期間のうちにアラビア半島を統一ならしめたのは、やはり急激な市場化により個人主義の横行・自我肥大→集団崩壊の危機→統合機運の上昇という実現基盤がすでに顕在化していた事が大きいと思われます。
そこにムハンマドという稀代の戦略家を熱望する土壌があったのでしょう。
拡大過程における喜捨や人頭税には、市場をうまく発展させるためのシステムが組み込まれていますが、この辺は次の『第4回 市場化の中でうまれたイスラム』にて確認しましょう。
投稿者 nishipa : 2010年05月18日 TweetList
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コメント
投稿者 Hiroshi : 2010年8月21日 19:24
イスラム社会と日本社会との協働は、大変興味深いですね。
両社会にはあまりに接点が無いような感じがして、一瞬「ん???」と思ったのですが、なるほど、どちらも【人類本来の共同性を色濃く残している】という点では、これ以上ないほどの共通点を有しているということですね。
確かに協働可能性はありそうですね。
投稿者 いろはす : 2010年8月21日 19:24
>押し寄せる私権・市場社会の集団の構成員の個々の自我肥大、それによる部族集団の団結心や連帯感、充足規範の崩壊・分派独立・拡散を、ムハンマド以降のイスラム思想をもった人々は、集団統合を、イスラム以外の外部世界との取引や闘争によって秩序維持しようとしました。
⇒島国である日本と外部社会との関係は、上記のイスラムと似ていると思います。しかし、否が応でも外部社会と対峙せざるを得ないイスラムは、
>好意的に接するものへの寛容性(逆に言えば税金の収奪の相手としての温存・貧困を解消してくれる相手への寛容性)、敵視したものに対するジハードと呼ばれる掠奪の正当化(他者否定と自己正当化)、アッラーフの元には、全て平等(逆に言えば選民思想)とアッラーフとクルアーン(コーラン)という超越観念の存在と現実社会の実現思考との断層を解消する観念化(逆言えば、倒錯観念化と自己正当化)であります。
⇒イスラムの規範を共有化すれば仲間と受け入れ、そうでないと極端な場合はジハード=敵視される。しかし、大元は共同体規範はゆるぎないものと思います。そこを事実と認められれば日本とイスラムは繋がれる可能性はあると思います。
投稿者 sakashun : 2010年8月21日 19:28
>イスラム国家でもない日本で、イスラム教の教えが最もよく実践されており・・・・
イスラムの世界って、それまでかなり縁遠い世界だと思っていたのですが、それ自体が自分の思い込みだった気がついた・・・。
今後も折に触れ追及続けていきたいですね。