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シリーズ:『イスラムを探る』第3回【ムハンマド登場と急拡大したイスラム教】

こんにちは
ムハンマドがアッラーの啓示を受けてから、約20年後にはアラビア半島をほぼ統一しイスラム共同体を作り上げている。
こんな短期間に統合国家を実現するのは驚異の沙汰。
しかも、ムハンマドの死後、内部対立がありながらも、その統合中心であるイスラム教は現在まで厳然と生き続けている。
如何にして実現したのか、追ってみたい。
570年頃 ムハンマド(マホメット)が生まれる
610年頃 ムハンマド、神(アッラー)の啓示を受ける
622年  ヒジュラ(聖遷)イスラム紀元
630年  ムハンマド、メッカを征服(→アラビア半島統一)
632年  ムハンマド死去。正統カリフ時代始まる
642年  イスラム帝国がササン朝ペルシア軍を撃破(ササン朝は651年滅亡)
650年頃 コーラン(クルアーン)の成立
661年  ウマイヤ朝成立(~750年) →スンニ派とシーア派に分裂
711年  西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配
750年  アッバース朝が成立(~1258年)
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●ムハンマド登場の背景
シリーズ:『イスラムを探る』第2回 イスラム教誕生前夜の状況 [3]にあるように、ムハンマドが登場したのは、遊牧共同体集団が急激に市場の旨みを手にしたことによる共同体崩壊の危機の潮流であった。
●アラブ統合はどのように実現したか
集団を越えて社会を統合するのに必要なのは、統合の担い手は勿論のこと、統合観念と、統合ならしめる力。
 統合者(統合機関)  :ムハンマドとその仲間→ウンマ→国家
 統合観念(法律、規範):ムハンマドの教え→イスラム教
 力(武力)        :軍事力
 順に見ていきたい。
●統合観念(ムハンマドの教え→イスラム教)
 イスラムを見ていくと以下のような単純な疑問が浮かぶ。
・部族集団の多神教から、なぜいきなり一神教となったのか?
・イスラム教はなぜ厳しい戒律を課しているのか?

『なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(4)観念力の本質である考える力とは』 [4]より
それまでの部族連合国家では守護神信仰や神話の共認によって統合されていたが、部族間の緊張圧力や交易や連合、さらには服属部族をどう支配するかといった課題に対しては、部族間の意思疎通が不可欠であり、その部族の中でしか通用しない守護神や神話では統合できない。観念に世界的普遍性をもたせる必要がある。
こうして各部族の潜在意識のレベルで社会統合機運が上昇し、それを鋭敏にキャッチして、守護神や神話を超えた、より普遍的な観念(古代宗教)を作り出したのが、釈迦や孔子やユダヤ教の預言者たちである。

 

『統合機運の基盤⇒イスラム教(遊牧共同体国家による市場の制御)』 [5]より
ムハンマドの目指したものは、集団の破壊ベクトルをもつ市場を遊牧部族の共同体連合国家によって制御することだったのではないだろうか。集団を超えた市場を制御するためには、集団を超えた規範観念の共認が不可欠である。『コーラン』をはじめとするイスラム法が、人々のあらゆる活動を律する規範体系となっているのは、そのためであろう。

いずれも社会統合の為に必要だったわけですね。
古代宗教が登場したのが約2,600年前、ムハンマドはそこから約1,200年後に登場している。
当然、既存の宗教を手本に考察を重ねていったと考えられます。
一神教のアッラーの神は各部族の守護神信仰を超えた存在として設定する必要があったわけですが、イスラム教は宗教というよりは、部族集団の共同体規範をベースとして、自我を制御するための規範観念の体系と捉えた方が分かりやすそうです。
●力(軍事力)
いつ頃からムハンマドが強大な武力を持つに至ったかは正確には分かりませんが、630年のメッカ征服時には、1万人の軍隊を率いて無血征服を成し遂げているようです。
力の背景があったのは間違いないようです。
●統合過程(ムハンマドとその仲間→ウンマ→国家)
では実際にどのように統合を進めていったのでしょう。
・まずメッカにて、神の規範に従う事で統合されている血縁を超えた個々の人間の結びつき、
 つまり宗教による共同体をつくろう、と呼びかける。
・そうしてメッカでの信徒は約70人に至る。
 初期の仲間には高い能力をもつ政治家・戦略家・武将などの知識層を多数擁している
・621年、メディナ紛争の調停者としてムハンマドが招かれる。
・622年、70人の信徒とともにメディナに移住する。
・メディナでイスラム共同体=ウンマ建設にとりかかる。
・内乱を調停後、「メディナ憲章」を各アラブ集団から取り付ける。
 ムハンマドの教えや定めた規律に従ってメディナ社会を再建することになり、ウンマが樹立。
・アラビア半島への勢力の拡大
 個々のアラブ集団と盟約・契約関係を結ぶという形で勢力を広げる。
 条件として「イスラームを受け入れること」と、サダカ=喜捨を納めること。
 異教徒のまま服属した場合は、ジズヤ=人頭税を課し、
 代わりに武力を背景に安全保障が与えられる。
・ムハンマドが亡くなるまでに、アラビア半島のほとんどの集落、都市、部族が契約関係を結んだと言われている。
・ムハンマドの時代はイスラム共同体とも言うべきもので、ムハンマドの死後、661年にはウマイヤ家によるウマイヤ王朝=イスラム王朝が成立している。
ムハンマド時代の終わりまで
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 地図は「世界史地図理解」 [6]さんからお借りしました。
概略の拡大過程を見てきましたが、超短期間のうちにアラビア半島を統一ならしめたのは、やはり急激な市場化により個人主義の横行・自我肥大→集団崩壊の危機→統合機運の上昇という実現基盤がすでに顕在化していた事が大きいと思われます。
そこにムハンマドという稀代の戦略家を熱望する土壌があったのでしょう。
拡大過程における喜捨や人頭税には、市場をうまく発展させるためのシステムが組み込まれていますが、この辺は次の『第4回 市場化の中でうまれたイスラム』にて確認しましょう。

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