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2008年12月13日

DNAから人類の拡散を探る  その6

:roll: :roll: さて、このシリーズも最終章です。 :roll: :roll:
saahさんがアメリカ先住民はやはりわれわれ同様のモンゴロイド子孫でしたとレポートしてくれました。
では最後のテーマ
⑪『新大陸に渡ったのはいつか』
    ~新大陸への移動のルートと時期は

を探ります。
その前に
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⑪『新大陸に渡ったのはいつか』
    ~新大陸への移動のルートと時期は
さて、新大陸へ人はいつどうやって渡ったのでしょうか?
まず、saahさんの先回のレポートへのTanoさんのコメントで紹介された記事も調べてみました。
サウスカロライナ大のアルバート・グッドイヤー博士は北米大陸には5万年前から人が住み着いているとの発表を2004年にすでに行なっています。
しかしなかなか反対意見も強いようで、もしかして、この時の発表はつぶされたのかもしれません。
今回の発表も、もちろん反対意見はあるようですが、今回の発見に関するグッドイヤー博士の論文は、学術誌が来年に掲載する予定があるとか、同博士の発掘手法や年代測定などに問題がないか、考古学界で議論されることになる予定があるようです。
 また、来年10月には考古学関連の学会が開かれて 、集まった考古学者がトッパー地区を見学する予定あるそうで結構注目されている。今回は期待できそうです。
さらに同じように5万年前から人がいたとする、以前に紹介した南米の別遺跡の例もあります。
『最初のアメリカ人とは?』
>5万年前 シェラ・ダ・カピバラの洞窟壁画、炭化物など(その中の人骨は9000~1万2000年前の物で
ニグロイドに似たものだった。しかも、オーストラリア先住民、アボリジニーの頭蓋骨と極めて近いとされています)・・BBCで遺跡の紹介が放映された。<

このように、予想以上に古い時代に人が新大陸に移動している可能性があります。
ではDNAはどういった答えを出したのでしょうか?
アメリカ先住民のハプログループを調べた結果、新大陸に持ち込まれたのは少なくとも2万年前(最終氷期の最盛期より前)から最大4万年前という結果になっています。
これはいわゆる定説とは違っています。クロヴィス文化を創り上げた人よりも早く新大陸に現れたということです。
又、こんな例があります。南米大陸に栄えた文明はミイラが有名ですが、そんな中で、ナスカのミイラのDNA分析のデーターがあります。
ナスカとは、あの地上絵で有名なナスカです。ナスカはインカ帝国の少し前に栄えた文明で、紀前100年から紀元700年頃まで南米ペルーの南部海岸地帯に広く栄えました。
ここもインカ同様ミイラが多く保存されています。そのミイラのDNA分析が行なわれました。
20070320092407.jpg ナスカのミイラの1例です。分析したミイラではありません
ペルー倶楽部からお借りしました
このナスカの子供のミイラのハプログループはグループAでした。更にA2というサブグループに所属します。
グループAは3万年前バイカル湖付近で生まれたと考えられています。俗に言うマンモスハンターと呼ばれる、寒冷適応したモンゴロイドと思われます。
そしてその中でも分岐が先と考えられるA2のサブグループに属する人が、ナスカにいたということです。
さて、これまでの結論ですが、明らかに定説は壊れつつあります。それも大幅に書き換えられる可能性があります。想像以上に古い時代から人は新大陸に移動していたのは事実だと思います。
確かに氷河に閉ざされていた新大陸ですが、全てが閉ざされていたわけでなく、海は繋がっていました。
人は約5万年前にスンダランドから約1000キロの海を渡ってオーストラリアに移住しています。航海技術上は十分に海岸沿いに新大陸への移動は可能であった証拠と思います。
この人たちと同じグループの人が新大陸にも渡っていったと考えると、北米、南米の遺跡の年代も納得が行きます。
よって5万年前に渡ったと思われる人々も、ナスカのミイラの祖先たちも、基本的にはアジアから移動した人たちと思われます。
遺跡の分析とDNAによる分析とズレはありますが、更に研究が進むことで、新大陸へ人の移動は3万年は遡ると思います。

投稿者 dokidoki : 2008年12月13日 List  

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コメント

日本古代において、渡来人の影響は大きかったことはこれまでの議論の中でも分かってきたことで、特に支配者層においてはその影響は多大なものであったと思われます。
人類の拡散を見ても大陸からの影響を受けていることは明白になりつつあると思いますが、
>日本へ渡来した人々や文化の中には「伽耶(加羅)」の要素がその言語とともに色濃く浸透している可能性があるということです。<
渡来人以前の文化や言語とはどのようなものだったのでしょうか?

投稿者 ルーツ : 2009年1月5日 15:31

ばかじゃないの?例3つで確信ですか。
nameは名前と似ていますが?
砂はsandと似ていますが?

投稿者 匿名 : 2009年1月10日 15:53

逆に、朝鮮半島南東部が日本の影響を強く残しているとも考えられますね。
有史以来、日本は何度も朝鮮本土に侵攻していますし、朝鮮を併合していた事もあります。
朝鮮は日本に侵攻しても対馬すら攻略できずに撤退する有様です。
あ、モンゴルの属軍として侵攻してきた時には対馬は落としましたね。
新羅の建国に倭人が関わっていたとか、新羅は都を何度も倭に攻められた等の記述も新羅本記にあるようですし。
海を挟んでいるとはいえ隣国ですから、当然、相互に文化的影響を受けていますが、
どちらがより強く影響を受けたかと言えば・・・、まぁ自明ではないでしょうか?

投稿者 匿名 : 2009年3月17日 22:40

DNAなどの調査から日本人はバイカル湖周辺にいた北方民族、中国東部、中国南部、東南アジアなどから渡来した民族の混合民族である事が分かっており、特に頭蓋骨の形状から中国南部の民族のものが多いという研究もあります。又、言語で言うならば、日本語は北方系というより南方系言語が混在したものと考えたほうが妥当であるという説が有力になりつつあると思います。なぜならば言語の骨格にあたる助詞が南方系のものが多いからです。つまり、日本人の祖先のうち最初に多数を占めた人々は南方系の人たちであり、北方系の人や中国系の人たちは、それ以後に日本に断続的に渡来しては帰化したのでDNAのパーセントは北方系や中国系が多いのですが、言葉は南方系ということになったのだと思われます。そして、重要な事は日本と韓国では日本が先で韓国が後に民族や文化の伝播があったということです。日本人は南方から来たわけです。韓国の古代の歴史にも百済の王の祖先はインドから来たという伝説があります。古代に日本人の活動範囲は日本列島および朝鮮半島南部に広がりましたので、前方後円墳が朝鮮半島では南部にだけあるわけです。又、言語においても韓国語の中に日本語と共通の言葉があるのは日本人の活動範囲が古代において朝鮮半島南部にあったことの証拠とも言えますし、朝鮮半島に古代あった三韓国家も南方系であるとも言えるわけです。あくまでも言っておきますが日本の祖が韓国ということではありません。

投稿者 匿名 : 2009年5月9日 05:46

釜山には弥生時代から北九州系倭人による鉄採掘遺跡もあり、
以来、日本への鉄の供給が滞った時期がないのは、
大和朝廷の管轄地であったからでしょう。
また好太王碑文、日本書紀、三国史記など文献史学的にも、
日本が半島に関わってたのは明白なはず。
こんな事は韓国側が認めなくても、日本の古代史会の常識なはず。
澤田洋太郎や井沢元彦などの寡文をわざわざもって来る意図がわからない。

投稿者 おーやん : 2009年5月17日 09:58

1現代韓国語(この場合は慶尚道方言)と現代日本語において、比較的意味がちかい語が、たまたま音韻が似ていたから、
日本語のルーツは韓国語だ、というのは学問的にはありえない手続きではないですか?古代朝鮮語と古代日本語を比較するの
ならわかりますが。まさにNameと名前は似ているから、英語の
ルーツは日本語だというようなたぐいの議論です。
2厳密には韓国語の「ハンダヘド」(「するとしても」)と日本語の「けど」(「けれども」の口語的表現)は意味は同じだといえるでしょうか?

投稿者 buhnyan : 2009年5月29日 18:25

「カムサハムニダ」(ありがとうございます)の「カムサ」は、日本語の「感謝」が元でできた言葉だとか。
それも、韓国併合以降にできた言葉だって。

投稿者 匿名 : 2009年6月6日 23:50

「カムサハムニダ」(ありがとうございます)の「カムサ」は、日本語の「感謝」が元でできた言葉だとか。
それも、韓国併合以降にできた言葉だって。

投稿者 あああ : 2009年6月6日 23:50

韓国人の妄想による本を参考にするとは。
真面目なエントリをお願いします。

投稿者 弥生人系 : 2009年6月17日 11:18

上の方のコメントでも言ってるように
日本→朝鮮半島南部に対して大きな文化的、言語的、民族的影響があったという見方が正しいと思います
当時の朝鮮半島南部は倭人の強い影響下(または支配下)にあり、倭人はその場所を利用して広く大陸の文物を摂取していた
しかし時が経つにつれて半島南部における倭人の影響力が少なくなり(倭人が日本本土での国家体制の整理などに注視するようになったり、半島を利用する機会が減ったため)、半島南部の国々は本格的に半島の統一を目指すようになる
そして半島南部の国々と半島北部の国等の争いを経て最終的に朝鮮半島が統一されるに至る
このように古代朝鮮語(半島内でどんな分布をしてたかは分かりませんが)は古代日本語の強い影響を受けてると思われます

投稿者 たっち : 2009年6月19日 06:41

韓国人の自尊心(今の朝鮮人の先祖は偉かった、などということはマァ無いです、残念ですが事実です。)は、日本語が韓国語の子孫だというが、実際は逆である、朝鮮半島にも倭人(日本人の先祖であり日本語を話していた)の住む地域であり、北京にまでその言語の影響は及んでいた。。。そうです。 http://www31.tok2.com/home2/okunouso/nimaru.htm
百済の位置は、遼東半島の東です。高句麗の範囲は間違っています。
古代の支那・朝鮮半島・日本の歴史は鮮卑(シベリア由来の騎馬民族)が作っていたように感じます。今の朝鮮民族は、どの時代にも蹂躙されたほうの民族、文化も言語も自力で持ったような時代は無さそう。
それに、、、どうも、朝鮮語は、言語的に発音が汚い言葉ですね、、、英語とドイツ語の関係でいうと、朝鮮語のほうが崩れた言語であることは、英語がドイツ語をルーツとして崩れた言語であるような印象がします。

投稿者 んs : 2009年7月7日 02:06

古代朝鮮語とはハングル以前の言葉であり、当時の文献はすべて漢字で書かれています。それがどのように発音されていたのかはほとんどわかっていないのです。
ようするに似ているかどうかはわからないのですが、似ているという人には何らかの意図と願望があり言っているのだと思います。日韓併合後は圧倒的な日本の影響下で韓国朝鮮の言葉は変容してきました。今の韓国語が日本語と似ているのは当然のことなのです。

投稿者 KM : 2009年11月24日 20:20

いーえ
日本は誇り高き白人の分派です。
ネーム→なまえ
ロード→どうろ
ドクトール→毒取る→いしゃ
さあ、これだけ証拠が出てきました。完璧ですね。

投稿者 匿名 : 2009年12月3日 21:59

せっかく『面白い』と紹介してくれたのに
教養が身についてないようなコメントが多くて嫌に
なりました。
柔軟に読んで事実を検証したらいいのに。
キッと怒るのは自信が無い証拠みたい。
共通語については・・・
自分はネパール語、ヒンディー語、タイ語がわかりますが
仏教由来の言葉で共通する物はありますが、
普通の言葉でも日本語と似た言葉はありますよ。
基本的な言葉でも何千と単語はありますから
二文字くらいなら偶然かぶってしまう単語が出ます。
かぶらない物のほうが圧倒的に多いなら
関連は薄いでしょうね。

投稿者 fun : 2009年12月13日 17:00

ある言語のルーツはどこの言語にあるかを
研究する学問を比較言語学と言います。
その比較言語学で重視されるものは
基礎語彙の共通性なのですが
この基礎語彙が日本語と韓国語とでは
非常に離れていることが判明しています
もし、本気である言語のルーツを調べたいと思うのなら
この比較言語学について調べてみるべきでしょう。
また、本物の言語学者が書いた本を読むべきです。

投稿者 匿名 : 2010年3月12日 00:49

元横綱朝昇龍関の、故郷でのインタビューをみて、
なんとなくハングルに似てると思ってしまいました。
韓国の歴史研究の実態はよく知りませんが、日本に輸入ばかりの研究で、自国に影響を与えたり輸入されたとゆう研究は
少ないのでしょうか?そうだとしたら、淋しい歴史観に
なってしまいますね。

投稿者 スバール : 2010年3月19日 22:18

興味深く拝読いたしました。
まぁ、日本語と韓国語どっちが先か、ということにうはなりませんが、ちょっと思い当たる節があったので書かせて頂きます。
ここには書かれてないのですが、
韓国語を学ぶ際に「日本人が韓国語を話すと、標準語(ソウル語)ではなく慶尚語のようなアクセントになってしまうから気をつけろ」という話を聞きました。
まぁ日本語の中でもさまざまなそれが混在してますから、なんとも言えないでしょうが、標準語ではなく慶尚、という点が気になったのと、アクセントについてあまり論じられてなかったので、書かせて頂きました。
少なくとも、単語のいくつかが似てる・似てないだけを取り上げてるコメントは、あんまり意味はない気がします。
それとコメント中、「カムサ=感謝」というのは、
日本語が元というより、「感謝」を韓国式に読んでるだけで、そもそもが同じ言葉です。
日本語本来の言葉(大和語)でもなければ、朝鮮本来の言葉でもない(おそらく)ので、根拠にはならないかと。

投稿者 匿名 : 2010年5月25日 09:15

未だにこういった韓国のナショナリズムに基づく妄想を無邪気に信じちゃう人がいるんだねぇ

投稿者 匿名 : 2010年10月24日 04:39

どうしていまの古代日本史の大学の先生は 物語 古事記&日本書記を信じるのでしょうか?たしかに 記紀 読むとおもろいですよね。
ボクもほんとのことだったらいいなあなんて憧れたこともあったですよ。しかし それは所詮 人の書いた物語だからおもしろいのですよね。で、麻痺させられますね。
でも、物語を真実だと思うことはおかしい。現代でも たかが100年まえのことでさへ わかったものじゃない。自分のじいさんのじいさんのじいさん 名前言える人 愛子様だけでしょ。
700年ごろに 600年のことわかるわけがない。ましてや4.5.6世紀のことなんて。いくらでもぶっ飛んで そして架空の人物やできごと なんぼでも 創造できるよね。。。。。
3世紀の日本はきっとまだ 卑弥呼や豊与さまをふくめ はじめ人間ギャートルズの世界だったに違いない。
4世紀もくれになって初めて支配者がまず南加羅からやってきた。箸墓は はじめに 半島からきて奈良県を支配した大王 崇神サンの墓だったのですね。卑弥呼の墓であるはずがない。
そして記紀では重要視されてないけど尾張も物部や息長もあなどれないですね。この人たちは 崇神様のなかまで きっと 5世紀を支配していたのでしょう。
5世紀の倭の5王さんたちはその崇神王朝そのものだったのですね。で、応神こと昆支さんは その初代王朝に 百済からきてムコ入りした 愛子様のご先祖だったのですね。この推理はすごい。。。
そのお母さん神功皇后は日本史のなかで僕の大好きなヒロインでしたが 架空の人物。卑弥呼や豊与との関係疑ってたのに なんも関係なく 本当に残念です。。。
で、さらに わかたけるなんてかっこいいので ヒーローだった雄略さまも 架空の人でした。考えてみれば大悪党ブレツがいそうにないのに そのじいさんユウリャクもいないよなあ。
6世紀の初期の大山古墳はその昆史さんの弟 継体の墓。これで 記紀の言う 5世紀の河内王朝10人天皇ぶっとびました。そして 彼もまた 崇神王朝へムコ入りしてたなんて。
そして その兄弟のあととり合戦が 6.7世紀の間  極めておもしろく 続行されてたなんて。 鋭すぎる推理に しびれてしびれて。なかなかついていけません。。
  欽明天皇は はじめ日本書記読んだときあんまりおもしろくなく 重要人物でなかったけど 昆支の子供だったとは。だからその子供が大王多いわけですね。
ところで昔の最高札(=一万円札)なんだったのでしょうかね?聖徳太子は馬子で用明大王でそしてアメノタリシホコで応神の孫だったのですね。彼が隠れたヒーロだ。
ボクは小学校の修学旅行は法隆寺でしたが 校長先生は嘘を教えてくれていたんですよね。悲しいですよね。で、貝タコ姫こそ 日本史のヒロインだ。
でで、7世紀 中大兄王子はそのご先祖の兄弟のあととり合戦で 最終勝利者だったのですね。しかも、その兄さんが 天武天皇だったなんて。いいですねえ。楽しいですよね。感動しますよね。
そして 以上の事実を 物語記紀のなかから 極めて論理的に推理され 拾い上げた探偵さんこそ 石渡信一郎教授です。異端児あつかいは それこそ日本古代史学会の不幸です。
石渡教授は真の歴史研究者です。 飛鳥は アスカラ【大東加羅】 の ラが 落ちたものだなんて。すじが通ってます!。極上の推理ですよね。在野の歴史家ではもったいない!
石渡教授はもうお年みたいですね。東大か京大は 石渡教授を古代史の教授に ただちに推挙すべきです。そして、国は 古代史ノーベル賞(もしくは国民栄誉賞)を 先生にさしあげるべきです。
税金で お勉強している国立大学の古代史研究の先生は 今からでも遅くありません。自家出版された先生の本 『日本古代王朝の成立と百済』を すぐにでも購入され よく読まれ 
その本を学生にも購入させ 石渡学説を中心にして 講義をすべきです。どうして 古代史学会(本当はすぐに解散すべきです)が 先生の説と向き合おうとしないのでしょうか? 
センタ試験で日本史選択した自分が悲しいです。真実でないことをマークシートして 大学入試で通る国は 日本の国立大学だけでしょうね。税金の無駄使いです。
山川出版の日本史の教科書すきだったんですけどね 本当に悲しいです。3世紀から8世紀の内容を書き直せ。創造作文はもういいですよ。。。。。。
でで、以上のことを 普及に努めておられる 林順治先生も偉大です。『アマテラス誕生』を図書館で 読んでよかった。読んでいなかったら僕は麻痺したままで ウソを信じたままでしたから。
関さん森さん石黒さんの歴史本もおもろいですが 石渡&林コンビのほうが 絶対に楽しい。それは 理論的な推理を伴った頭を使う真実追究だから。あまりにに天才的な発見であり 
最初は なにをいっているのか こんがらがって わけわからなかった。ウソつけ。変な人たちだなあと思いましたよ。無理もないですね。最初に記紀という創造作文を読んで麻痺させられているから。。
で、マスコミももっともっと先生たちの説をみんなに紹介すべきです。真実は真実。物語は物語。その区別くらい小学生でもできます。先生の説が真実であればあるほど 天皇さんの価値は上がります。
記紀は それはそれで 物語としては 極めて価値あるものです。そして 事実をまげて創造作文し広めることができるたのは征服者 王様すなわち天皇様だけだからです。
だから、天皇様は偉大なのです。アマテラスさまをつくることができたのですから。そして だから アマテラスさんの子孫でいいのですよね 愛子様。。
で、日本語は半島からきた言葉だったのですね。われわれの先祖は1600年前に民族大移動した大陸からきた人たちだったのですね。日本民族はゲルマン民族と同じ行動をしたのですね。
では、新羅に出されたのでしょうか。追い出されて 実はいいところに住んでるなんて われわれのご先祖様はえらいとおもいませか?出されたのではなく きっと新羅を置いてきたのですね。
40代が 実は16代程度だった。それでも それはそれでいいじゃないですか。ねえ愛子様 じいさんのじいさんのじいさんのじいさんのほんとのことが知りたいよね !!!
古代史は真実を追求するおもしろい学問ですよね。創造作文して書き直した人たちがいたのですから また書き直されて 当然です。みなさん真実を追求する 林先生&石渡教授を応援しましょう。

投稿者 むらかみからむ : 2010年11月30日 00:35

すごい長文・・ファンタジーをご苦労様

投稿者 if if : 2011年2月25日 05:42

韓国語と日本語が似ていると言うと異常な反応を示す人が多いのに驚きます。
韓国語と日本語は注意深く見ると似た語彙が沢山あります。
韓国で美味しい事を「マシッソヨ」と言います。
日本語の「ウマシ」と良く似ているでしょう。韓国語の「mas」に「ウ」を付けただけと言う事は誰にでも判るでしょう。「馬(ma)」に「ウ」を付けるみたいな事はよくある事です。
保守系論客の岡崎久彦氏も(『隣の国で考えたこと』【日本経済新聞社、1977】)
「《韓国語を覚え始めて、誰しもが思うことは、韓国語と日本語の似方はただごとでないということです。
(中略)
 ……最近数多く出版されている日韓両語の起源に関する本や論文を読んで来た人は、「韓国語と日本語は同一系統の言語であるかどうか即断できない」とか、「日本語は、ウラル・アルタイ系言語と南方語との混合言語である」というような結論を予備知識として持って来ますので、日韓両語が似ているというとかえって抵抗を示します。このことは、まさに、後で詳しく議論する主題ですが、日本語の起源に関する専門書を沢山読めば読むほど、そういう本のまとめとしては、この結論も一つの正解なのですが、日韓両語を知っている欧米人、あるいは少しでも実際に韓国語をやった日本人の持っている常識とこういう結論との間のズレが、最も問題なのです。》
《……こんなことをいつまで言っていてもきりがないのでもう止めますが、つまり文法が似ていると一口に言いますが、これは大変なことです。日韓両語の親近性を論じる時に、「文法は確かによく似ているが」、と一言で片づけて、「しかし発音と語彙は似ている所が少ない」という話になるので、そういう本を読んで来た人は、文法の重要性を認識するひまもありませんが、少しでも韓国語を勉強した人は、誰もが、この似方はただごとではないと思わざるを得ません。私自身、韓国語を覚え始めた時、二十年以上外国を渡り歩いて来て、初めて、外国語でない言葉を習っているという感じがしました。たとえて言えば、日本語と中国語とアラビア語ばかり勉強して来たアメリカ人が、ドイツ語かフランス語か、あるいはロシア語でも、初めて勉強すれば、そういう感じがするかもしれません》
と言っています。
参考まで。

投稿者 mutouha : 2011年3月22日 19:21

韓国と日本の言語が似ているってww
じゃ中国と日本は似てないの??
不用は日本でフヨウ・・中国語ではプヨウじゃなかった??
古代朝鮮語と韓国語が同じだと言う↑↑の人達は古代朝鮮語知ってるの??
私は知らないです。

投稿者 korekore : 2011年5月17日 18:10

こういういいサイトで紹介する著作とは思えませんなあ。
まあいろいろな意見もあっていいわけだけど、
1古代朝鮮語記録皆無
2半島内陸人の渡来は遅い
3海岸部倭種の交流は縄文時代から
言葉の基層は最古のもの、つまり縄文語に求めるのが常道とする立場からは日本語は南島、北方双方縄文語を基層にしたクレオール言語と考えるほうが正道でしょう。朝鮮語は文法として入っている。

投稿者 Kawakatu : 2011年5月21日 10:13

訂正→朝鮮語は文法として入っている→単語として
ウラルアルタイ系文法は北方縄文人が持っていたものでしょう。そこに南島単語が入っているのが縄文語。それを基層にして弥生渡来が改良。

投稿者 Kawakatu : 2011年5月21日 10:20

kawakatsu様、横レス失礼します。仰る意見に賛成です。朝鮮語は日本語へは単語が入っているだけで、起源という位置にあるわけではないと私も思います。
なお、日本語の文法についてですがアルタイ語由来というよりも、南方由来と考えております。つまり、オーストロネシア語はかつては膠着語であったのだろうと。それが、スンダランド水没過程の民族移動、民族接触で孤立語に転じたのではないかと。
というのは、日本語の音韻体系は明らかに南方由来、オーストロネシア語に近いためです。文法は北方、音韻は南方由来というのはどうもスッキリしないと考えたのです。どうでしょう。

投稿者 fwz2 : 2011年5月24日 22:18

大変興味のある記事であります。
物部、蘇我、藤原氏、天皇家のルーツを知る上で、余りにも捏造が多すぎ周辺諸国の歴史書が多いに役立ちますし、言語も当時の朝鮮と大和朝廷が通訳なしで話し合えたようなので、その後の言語がそれぞれ進化した結果分かれたのでしょう。
但し、半島の土着民と北方から侵入した王族の言語が少しだけ違っていただけです。
先史時代から日本には沖縄から樺太までアイヌ民族と言われる源日本人が居住し、DNAは同じです。
アイヌ犬も樺太犬も琉球犬も同一DNAです。
おそらくは雀も。
その日本列島に中央部から侵入してきた大陸からの王族が支配階層になり、混血を繰り返しているのです。
強大な権力で半島に繰り出し故国を忘れず、故地回復も願い各地の王族と親交していたのです。
日本には、半島だけでなく秦人や唐人、北方ツングース民族も渡来しており、混血はごちゃごちゃです。

投稿者 sivbikku : 2011年7月17日 14:38

 あ、そう云えば昔旭川市で編成された24師団が沖縄に移駐し、現地の琉球の方が私達と同じ容貌だと驚かれたと言います。
それは北海道全域から召集されたアイヌ人が余りにも似ていたからです。
何故か、近年DNA比較すると同じ民族でした。
オマケに樺太犬もアイヌ犬も琉球犬も同じDNAでインドネシアの犬からも同一の種類を確認できました。
まあ、韓国が何を云おうが、北九州から切り出した木材で慶尚南道界隈の墳墓構築した証拠もありますし、中国の歴史書には滅亡国家の王族と臣下が日本に渡り国家再興した旨の記述もあります。日本の豪族や天皇家のルーツは高句麗、渤海、夫余、百済など国が違えど言語は同じで同一民族同士で興亡と和合を繰り返し、早くに九州から入植した一族や伊勢地方の一族が韓国慶尚南道付近に逆上陸し日本府と鉄鉱山を維持していた事実は隠しようがないはずです。
神社に祭られている鹿が深く意味するところもありますし、縄文人といわれる原住民が暮らす日本に渡来した大陸の王族が興亡を繰り返しながら、大和朝廷を形成したと考える次第です。
倭人そのものも韓国南部と日本の倭と対馬の海賊の倭、そして越の海賊の倭が同一表記されてますが日本や韓国に稲作を伝えた集団は越の倭と個人的には信じてます。

投稿者 sivbikku : 2011年7月21日 04:24

 ミナマとか伽耶とか、あれま変換が。
兎に角、百済、日本府が新羅、大唐帝国連合軍に打ち破れ、ボトピープルとして日本に漂着する集団と棄民として慶尚南道に残された集団に分かれたとすれば船に乗れた集団が僅かで大勢が捨て置かれたと考えます。
言語がその後の李氏朝鮮の影響を受けたとしても、方言として現在も生き継がれているいるのは当然ではないかと考えます。

投稿者 sivbikku : 2011年7月21日 21:48

上の↑ ボトピープルはボートピープルです。

投稿者 sivbikku : 2011年7月21日 21:53

 古代のワイ人と言う人々の言語は夫余、高句麗、百済とミナマと倭で使われていて、同一民族です。
いえ、同一民族と個人的に信じています。
夫余は鹿の意味で物部氏に通じています。
軍事的には弓矢に長けた集団で大和朝廷でも重用され、日本から半島に進出し韓国の方言に影響を与えています。
ワイ人も後世に漢人とモンゴル人に挟撃され支配下に置かれると言語も相当変化したと考えます。
半島も北方から征服者として浸入した現朝鮮人が人口比で多くなると、言語も廃れたと思われます。
物部氏の出自と歴史に関わる文献も焼け、その後は蘇我蝦夷の館も焼かれ、所持していた文献も消失してしまいましたので証明出来ないのが残念です。

投稿者 sivbikku : 2011年7月22日 21:31

北方から浸入した民族は倭人とも半島人とも近い金や満州人であれば遺伝子が同じなのですが、元の時代にモンゴル人との混血が進み、更に漢人の流入が多く現在の朝鮮人と日本人は同質性が薄くなってます。
出来れば、韓国内で地域別の詳細なDNA鑑定を行なうと、倭人の末裔の多い地域が特定されとか、関連性が浮かぶ可能性があるかもしれません。
慶尚南道でのDNA鑑定結果が出てくると面白いと思います。

投稿者 sivbikku : 2011年7月23日 22:13

sivbikkuさんコメントありがとうございます。
なかなか返事ができずにすいません。
いずれの記事も補足していただく内容で納得です。
すべてコメントを返せないので、最後の記事だけレスをさせていただきます。
>北方から浸入した民族は倭人とも半島人とも近い金や満州人であれば遺伝子が同じなのですが、元の時代にモンゴル人との混血が進み、更に漢人の流入が多く現在の朝鮮人と日本人は同質性が薄くなってます。
韓国と日本が近くて遠いように感じるのはやはり北方ツングースの支配が強い朝鮮半島と、それがまだ後発で緩やかな日本との違いだと思います。また日本列島は朝鮮半島が戦乱につぐ戦乱の時代にほとんど大きな戦争を経験していません。
>出来れば、韓国内で地域別の詳細なDNA鑑定を行なうと、倭人の末裔の多い地域が特定されとか、関連性が浮かぶ可能性があるかもしれません。
日本人に多い、縄文人の遺伝子D2は隣国である韓国にはほとんど居ません。中国のO2b、03が殆ど支配しているのが朝鮮半島のY遺伝子の構図です。その意味では遺伝子的にも日本と朝鮮半島はかなり異なっているようです。
朝鮮と日本、この異なる歴史、異なる民族を理解することが、お互いの理解が始っていくように思います。

投稿者 tano : 2011年7月23日 23:29

 適当すぎるかきこにお返事まで頂きまして、恐縮しております。
昨晩書斎の本棚をかき混ぜて、自身の無知ぶりを自覚しております。
昔、大陸生活が長かった人物と交際してましたが(生きていれば100歳以上)その方の現地(古の秦)の人々の印象は容貌が日本人にそっくりで朝鮮人より似ていたと言うかそっくりであったと申しておりました。
古代の商と言うか殷の住民、そして周王朝に征服された秦の居留民(但し統治者は周の臣下で漢民族)そしてチベット民族が漢民族と言われる征服者に圧迫され結果言語も変化し混血も進み居住地も辺境に限定されたのではないかと考えています。
縄文人と言われるアイヌ、蝦夷、琉球人と同一の遺伝子を持つと個人的には信じてますが、何分にも歴史の荒波の中で民族の興亡と移動、混血により証明が困難です。
新羅の言葉が秦からの流民で構成された国家であれば半島の他の王国と異質であるかもしれません。
日本自体も南方から水稲技術を持った、越の亡民が流入していると考えていますので、大和朝廷成立以前には倭の王国の一角を成していたはずです。
縄文人の人口密度の低い照葉樹林帯での水田開墾は平和的に進められ初期には先住民との戦争もなかったのではないでしょうか。
始皇帝の時代には不老不死の薬を持ち帰ると言った詐欺師が大船団で日本に移住した伝説もありますし、新羅の人と同族が倭の一角に小王国を築いたかもと思います。
紀元前、紀元後を通じてワイ人の軍事集団が日本に上陸し、原住民を征服していったのではないでしょうか。
時代を経るに従い大陸からの移住者が多くなり、西日本を制圧し、半島に逆上陸し倭人国家を樹立し同族の百済、高句麗と親交、覇を唱え同族間で覇権抗争をしていたと考えて居ます。
同族同士なので言語的にも同一で半島に当時の名残があると言うのは、寧ろ当然と云えませんでしょうか。
琉球沖縄の方言は現代と古代では可也変化していて理解できる老人はもういないかもしれません。
マゼランだったか忘れましたが、フィリピンで出会った琉球人は礼節を知り、教養が溢れる民族として絶賛されていた記憶があります。
高度な航海術で外洋を自由に行き来できる民族は縄文人の優秀さを証明しています。
アイヌ人の考え方には現代人が真似出来ない、再生可能、持続可能な文化があり、元寇の時には樺太に上陸した敵兵を殲滅した誇り高い民族であります。
日本の言語と民族性は大和朝廷成立時から混血による融合で変換し、大陸と可也違っています。

投稿者 sivbikku : 2011年7月24日 13:52

上の↑変換→変化です

投稿者 sivbikku : 2011年7月24日 13:53

神社の神主さんと雑談していた時に(ベロベロに酔ってましたが)神社その物の起源がインド北部にあると言われてました。
おいおい、それは仏教の起源だろうと一蹴して信じてませんでしたが、確かに古代サンスクリット文字と関連性がある?のかも。
しかし、チベット人と百済人の因果関係が証明できれば信憑性が高まります。
百済、高句麗の王族がチベット人であれば、旅の始まりと終着点が見えてきそうです。
今、韓国では考古学の世界でもナショナリズムの波で、歴史さえも捏造しかねないほどの勢いがあると友人から聞きました。
自身の思いとすれば、隣国同士で仲良く中立な立場で歴史を探求すべきと思ってますが、歴史も教科書も韓国に都合よく塗り替えられることは避けるべきと考えます。
天皇のルーツは朝鮮人かもしれませんし、個人的にはそう思ってます。

投稿者 sivbikku : 2011年8月6日 12:40

韓国語を勉強した時に(即時挫折)これは日本語のルーツではないかと直感するほど親近感がありました。
言葉も思考も酷似していると感じました。
中国語や中国人の考え方は異質な感じがありましたが、何故なんでしょうか?
アイヌ語も勉強しましたが、より韓国語のほうが親近感があります。

投稿者 sivbikku : 2011年8月6日 13:05

sivbikku さん、再々なる書き込みありがとうございます。
百済、高句麗の王族はチベット系という話は聞いた事がありません。一般的には扶余族(ツングース系)が両国の王族ではないかと考えています。
もちろん天皇家もその血統を受け継いでいると思います。
ただ、確たる証拠はありませんので、今後も追求していきたいと思います。
sivbikku さんへお願いです。歴史に詳しい方と存じますので、当ブログの他の記事へのコメントもぜひお願いします。

投稿者 tano : 2011年8月6日 23:10

歴史の勉強は日本史も世界史も大嫌いで、丸暗記で試験に臨んだ物です。
小学生の時に真田十勇士に興味を覚え、父の書斎から吉川英二の三国志を読み出してから戦史に興味を抱き変わり者の子供になりました。
中学生になってからは、中国の春秋戦国時代の呉越の戦に熱中し、親に怒られた記憶があります。
第一次世界大戦後にポーランド人がアルプス越えをしてまで、中東に移住したことや、モスクワに人肉市場が出来た記録を見て、裏面史にこそ真実があると妄想を膨らました人物です。
何分にも、ありとあらゆる板に書きこする悪戯を覚えご迷惑を掛けたことお許し下さい。

投稿者 sivbikku : 2011年8月7日 00:15

日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の 『倭韓交差王朝説』は
きわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)
(注:私は 倭は韓(=百済)を通ってきた と考えたいので 倭百済通過説のほうがいいかもしれないと思いますが。。。)
『倭韓交差王朝説=倭百済通過説』とは
①崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
②5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
③昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
④応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
⑤継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
⑥欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
⑦蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
⑧蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。 
⑨馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
⑩天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。
以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、
内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、
石渡教授が論理的に証明された真実です。
ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。
そしてこの『倭韓交差王朝説=倭百済通過説』で 3から8世紀の日本史の教科書は書きかえられるべきです。
私の子供もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください
どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??

投稿者 むらかみからむ : 2011年8月9日 00:08

 上の投稿の内容に引き込まれます。
上記の通りだとすれば、矛盾だらけの日本史の疑問が払拭されます。
矢張りそうだろうと考えていましたが、矛盾が解消される説で説得力がありますね。
大蛇退治の伝説も蛇神さまを崇拝する王族を虐殺若しくは征服した記録なのでしょうね。
証拠を拭い去り書き改めているのですから、証明には苦労する事でしょう。

投稿者 sivbikku : 2011年8月17日 05:05

 言語も時代とともに変化することが理解出来ましたが、違う民族と言語が雑じりあうと学者も色んな解説でそれぞれ言い分が違うということが判りました。
韓国語と日本語の違いは直感的に感じる何かがあると思います。

投稿者 sivbikku : 2011年8月17日 05:28

 任天堂DS冬のソナタで韓国語の勉強をすると、楽しく韓国語が勉強できるしタイトル(この板)の趣旨が理解できると思います。
昔NHK教育で韓国語の勉強をしていたのは、美人アナンサーに夢中になった為で案外不純な動機でした。
その美人アナウンサーもノーベル賞学者と電撃的な結婚でテレビから消え韓国語に怨みを抱きました。嘘です~

投稿者 sivbikku : 2011年8月21日 17:03

 韓国語のお勉強は日本語と対訳して学んで行けますが、中国語の勉強では日本語より英語と中国語を対訳して学んだほうが理解しやすい感じがしました。
文字に関しては親しみのある漢字が簡体字ではあるものの中国語に軍配が上がりますが、会話と思考回路では英語に近い印象があり、韓国語のほうが日本語に断然似ています。
思考回路と言うか考え方も全く似ており、元は同じなんじゃないかと疑ってしまいそうです。
まぁ~疑り深い方は一度体験してみてください。

投稿者 sivbikku : 2011年8月21日 17:25

ちょっと遡りますが。
不用 フヨウ
感謝 カンシャ
これらは漢語なので同じ読みに近くなるのは当たり前です。

投稿者 栗辺 : 2011年9月9日 13:48

朝鮮語が日本語のルーツと言っているのは朝鮮人だけです。
こうやってあたかも本当のように朝鮮人は言いふらしています。
そもそも日本語は母音言語であり、子音言語である朝鮮語、またはその他の言語からは派生しえないのです。
茶道、侍、忍者、武士、寿司等の起源は韓国であるという話の内の一つに日本語も韓国起源だというのがあるだけです。

投稿者 silva : 2011年12月11日 19:29

日本語のルーツは縄文人と稲作技術を持った大陸南部からの移民の言語が根底にありますが、半島の言語を使う大和朝廷も支配者として日本語に多大な影響を与えた結果、洗練された美しい日本語が生まれたのではないでしょうか。弥生時代を稲作開始時期として理解すると区切りとしては都合が良いのですが、実際の時期は縄文時代に遡り、原住民と移民の間に言語の交流と変化があった筈です。更に半島人と同一言語を話す大和朝廷の言語が流入し、どちらに呑み込まれたかが不明です。

投稿者 sivbikku : 2011年12月23日 04:50

大化の改新の際も外交使節の韓人と通訳なしで会談してますので朝廷の人々は日本列島では少数派であっても半島語であったのですが、その後の漢文の流入と話し言葉の変化は「書き言葉」と「話し言葉」に二分され、話し言葉の変わりようは避けられず後から書き言葉が追随して変化し、高句麗や百済の王族から見れば訛りのある倭人として認識されていたかも知れません。韓国そのものも古代燕人が主体かもしれずツングース系の北方民族のワイ人王族に支配されていた可能性も多いにあります。

投稿者 sivbikku : 2011年12月23日 05:43

古代から日本語で使われている言葉の一例として、母屋があります。 この母屋の母と云う字が「おも」と呼ばれます。
韓国語で母のことを「おもに」と云います。

投稿者 kk : 2012年1月19日 18:01

古代から日本語で使われている言葉の一例として、母屋があります。 この母屋の母と云う字が「おも」と呼ばれます。
韓国語で母のことを「おもに」と云います。

投稿者 kk : 2012年1月19日 18:02

おもやは、主たる建物の意味でしょう。おもに、とは mainly の意味です
けど、だけど、は、「けれど」「だけれど」が変化したものです。

投稿者 匿名 : 2012年2月6日 17:03

日本人も韓国人も元は同じようなもんだからね

投稿者   : 2012年2月25日 02:31

日本語の単語を古い朝鮮語でどういったのか、どういう意味なのか探していて、このサイトを見つけました。今まで聞いてきた話では、奈良(なら)は国の意味だそうです。「あすか(明日香)」は安住の地という意味だそうです。本当かどうかもわかりませんが、勝手に本当だと考えていました。このブログで「石渡教授は真の歴史研究者です。 飛鳥は アスカラ【大東加羅】 の ラが 落ちたものだなんて。」とあるのを見つけてうれしかったです。そうであれば、明日香と書いても飛鳥と書いても同じ「アスカ」ということですね。飛鳥と書いてなんでアスカと読ませたのかはまだなぞですが。
 ところで、くまの(熊野)は古代朝鮮語で何かあてはまりそうな言葉はありませんか?渡来人が出雲で熊野神社を造り、その社伝に紀伊の熊野神社はここから移住した者が造ったとあるし、紀伊の熊野神社では三本足のやたがらす(J1の由来)が神鳥で、高句麗建国神話の中にでてくる三本足の神鳥と同じなので、濃厚な関連があります。どなたか、くまの(熊野)の言葉を古代朝鮮語で解き明かしていただけませんでしょうか?よろしくお願いします。

投稿者 熊野海賊衆研究生 : 2012年3月4日 18:46

古代朝鮮語ですってw
日ユ論と張りそうですねw
非常に愚かしいですね。
雑誌ムーでも取り上げられたらどうですか?

投稿者 匿名 : 2012年3月5日 20:44

「日本語と韓国語は同系語」のブログをご覧ください。

投稿者 匿名 : 2012年6月18日 03:30

同系統て(笑)
両者系統不明ですよ?
そんなことさえ知らない妄言ブログが
チョウセンを賛美していることが目に見えてます(苦笑)

投稿者 匿名 : 2012年7月17日 03:13

「議論のなかで渡来人の影響が~」など愚の骨頂でしょう
この部分だけでもまるで根拠を欠きますが、
特に支配者層への影響が顕著であるといったようなこともまたご都合主義的です
やはり「結論」ありきなんでしょうなあ
では

投稿者 匿名 : 2012年7月17日 03:19

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
で、アメノタリシホコは
蘇我馬子であり
用明天皇でもあり
聖徳太子でもあります。
この4名は 実は たった一人の実在人物です。
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

投稿者 むらかみからむ : 2012年7月21日 01:13

熊野海賊衆研究生さま、
熊野という言葉は古代朝鮮語でなんと言うかは知りませんが、動物の「クマ」は現代朝鮮語でも古代語でも「クム」(kum)です。「ナラ」は国という意味で、現代でも韓国語でウリナラといえば「わが国」という意味です。つまりこの場合「ウリ」(wuli)とは「われ」(ware/wale)という意味です。どちらも非常に古い言葉です。日本最古の都市を建設して「くに」とか「アスカ」(アンスク=安住の宿)などと名づけた人たちはどっから来たのでしょう。

投稿者 くろねこ : 2012年8月21日 09:47

一言だけ言わせてください
「貴方は勉強不足」

投稿者 みつくんママ : 2012年9月13日 15:32

【飛鳥(あすか)】の語源の【大東韓(カスカラ)】の意味は
 ≪偉大な 東にある(もしくは)新しい 伽耶≫です。
で KASUKARA の語頭のKと語尾のRAが脱落したのです。
(By 石渡信一郎)
あんすくなんて あんまりです。
大和民族は 伽耶と百済を通って 来ました。

投稿者 むらかみからむ : 2012年10月20日 23:42

【飛鳥(あすか)】の語源の【大東韓(カスカラ)】の意味は
 ≪偉大な 東にある(もしくは)新しい 伽耶≫です。
で KASUKARA の語頭のKと語尾のRAが脱落したのです。
(By 石渡信一郎)
あんすくなんて あんまりです。
大和民族は 伽耶と百済を通って 来ました。

投稿者 むらかみからむ : 2012年10月20日 23:42

日本民族の起源を知りたければ、「Y染色体ハプロタイプD2系統」をインターネットで検索してください。
いいかげんに、よけいな事は考えず、遺伝子を調べれば、そこに答えがあるでしょう。

投稿者 匿名 : 2012年10月22日 23:20

あのう、教養が溢れている皆様に質問したいことがあります。
私の様な小学生以下の低脳な爺いもいますが、将来学究生活を志す前途有望な子ども達も訪問されるでしょうから、お手柔らかなご指摘とご指導を賜りたく存じます。
質問は訛りのことですが、秋田弁、山形弁と言った具合に方言がありますが、Sivbikkuには駅弁の違いはハッキリ認識出来ても東北訛りの違いが認識出来ませんし、外国語に聞こえます。
出雲地方の訛りも、東北訛りも同じイントネーションに感じてしまいます。
出雲大社と東北地方は何か因果関係があるのでしょうか?
それとも勘違いでしょうか?

投稿者 sivbikku : 2013年1月13日 08:58

sivbikkuさんお久しぶりです。
出雲と東北ですが、松本清張の「砂の器」でも有名ですが、因果関係は強くあると思います。出雲は弥生ー古墳時代を通じて越人ー楚人ー新羅ー百済ー高句麗とさなざまな渡来人が訪れた地です。また土着の縄文人も多く、彼らは渡来人と混血し、弥生人となっていきました。一般的には出雲から東北へ当時の弥生人が新勢力に押されて移動したと言われています。
しかしこういう説もあります。
縄文晩期の寒冷化で日本海岸に南下して東北の縄文人が出雲に辿り付いた。出雲がずーずー弁なのもそのせいかもしれません。いずれにしても出雲はなかなか奥の深い地域のようですね。今後当ブログでも追求の対象になりそうです。

投稿者 tano : 2013年1月15日 23:43

ご親切な回答ありがとうございます。
出雲と大和、粛慎と戎夷、戎夷と大和、戎夷と揚子江移民は全く言語が違ったのでしょうか。
どの様な変化で統一言語に変遷したか興味深々です。
オロッコとウィルタ、アイヌでは言語は違いますが通訳なしで意思疎通はできました。
お上の言葉と下々の言葉が全く異なっても絶対的多数に飲み込まれる可能性が大きいのでしょうか。
歴史って面白いですね。

投稿者 sivbikku : 2013年2月5日 19:28

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