アフガニスタンで何が起こっているか? |
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2008年12月12日
イスラム教の対立って???
こんにちは!
mitsukoさんの記事「アフガニスタンで何が起こっているか」からバトンを受けて、イスラム教内の対立についてちょっとお勉強してみましょう 😉
アフガニスタンからはちょっと脱線してしまいますが、これが分ればイスラム教の絡んだニュースが今までより分かるようになるかも・・・
さて、みなさんは「スンニ派」と「シーア派」という単語、聞いたことありませんか?
イラクやイランのニュースが出るたびに耳にしたことがあるはずです
実はこの「スンニ派」と「シーア派」がイスラム教における二大派閥なんですね
さて、じゃあ何がどう違うのか?
続きは・・・
ポチッとしてからお願いします
じゃあ、それぞれの派閥を説明する前に、イスラム教について簡単にまとめたものを・・・
◆イスラム教
<始祖>
ムハンマド(マホメット):アラブ人(クライシュ族)
アラブ人商人。富豪の妻と結婚し不自由ない生活を送っていた。
<成立時期・過程>
・紀元610年頃
悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた
ムハンマドが、大天使ジブリールに会い、唯一神(アッラーフ)
の啓示を受けたとされる。
モーゼ・イエスを預言者として認めながら、自らを最大にして
最後の預言者とした。
→イスラム教の成立。
ムハンマドが自身の理想を中心に作り上げたイスラム共同体の
略奪闘争を正当化する為に、作り上げた宗教と言うのが実態。
<特徴・教義>
1.「一神教」
唯一神(アッラーフ=ヤハウェ)のみを信仰する。
2.「平等観念」
すべての信者は神の下に平等である。
聖職者の存在は認めない。
3.「聖戦(ジハード)推進」
イスラーム世界を拡大あるいは防衛するための行為、戦い=
異教徒に対するジハードは、イスラームの教えに照らせば原則
正しい行為と認識。(必ずしも戦争を意味しない)
4.「六信五行」
「信じる心」も「行動」もどちらも重要視
(六信=「神」「天使」「啓典」「預言者」「来世」「天命」
5行=「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」)
以上4つの特徴に加えて、「商人の倫理」を重視している点
(ムハンマドも商人)も見逃せない。
~るいネットより引用しました~
このように簡単にまとまってると、引用するほうもやりやすいですね
では、本題。
スンニ派とシーア派それぞれのご説明を・・・
「スンニ派」(スンナ派とも呼ばれる)はイスラム教の二大宗派のひとつ。
イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。
「スンナ」とは・・・
預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた「慣行」(スンナ)を守る宗派という意味で、アラビア語で「スンナに従う人」を意味する「スンニー(Sunnī)」の語からスンニー派、スンニ派とも呼ばれます。
もともとは、ムハンマドから数えて、最初の四代のCaliph、つまり教主だけを正統と認め、Sunnaという、口伝の法律、口伝律法というようですが、それを重視する教派です。
そして一方の「シーア派」はスンナ派に続く2番目の勢力。
「シーア」は、アラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーア派の人々が、「アリーの派」(シーア・アリー)と呼ばれたことに由来しています。のちには、シーアに単に定冠詞を付したアル=シーアという語で「アリーの派」を意味するようになり、派の名称として定着しました。
もともとは、四代目の教主、ムハンマドの娘婿(従兄弟でもあったようです。)の Ali(アリー)が正統の後継者であって、最初の三代の教主は正統と認めず、Sunna(スンナ)も重視しない、ということです。
という違いがあります。
何となくわかっていただけましたでしょうか
そうしましたら、それぞれの成り立ちについてもう少し詳しく見てみましょう。
はい、ここから大事です。
引用をメインにしていきますのでちょっと長くなりますが、そこはご容赦を 😥
アルタクセルクセスの王宮さんより引用させていただきました。
では「シーア・アリー」とは何か。これはなんとイスラム教初期にまでさかのぼる。
イスラム教を始めアラビア半島をほぼ支配下におさめた預言者ムハンマドが632年に死んだとき、ウンマ(信徒の共同体)はその代表を決めることを迫られた。ムハンマドは後継者を指名せずに逝ったからである。
当時ウンマには三つの派閥があり、ムハンマドと共にメッカからメディナに移住(622年)した最古参層、メディナでムハンマドに援助した層、そして当初ムハンマドに反対しのちにムハンマドのメッカ征服によって改宗したメッカの有力者クライシュ族の一門ウマイヤ家があった。結局伝統に従い、最古参層でムハンマドの妻アーイシャの父親であるアブー・バクルが選ばれた。
アブー・バクルは初代の「ハリーファ・ラスール・アッラー」、つまり「神の使徒の代理人」と呼ばれ、世俗指導面での後継者とされた。この「ハリーファ」が訛って「カリフ」と呼ばれるようになる。2代目はその親友ウマル(在位634年~644年)、3代目は有力者ウマイヤ家から選ばれたウスマーンだった。ウスマーンはウマイヤ家の一門を重用しすぎたため古参層に恨まれ、656年に暗殺された。
ウスマーンの死後、ムハンマドの従兄弟で娘婿(ムハンマドの娘ファーティマの婿)でもあるアリーがカリフに選出された。ところがシリア総督でウマイヤ家一門のムアーウィヤやムハンマドの未亡人アーイシャはアリーに反対し、既に中東の大部分を支配していたイスラム教徒同士の内戦になった。カリフが神ではなく人間の互選によって選ばれることに不満を持ったアリーの支持者の一部(ハワーリジュ派)はアリーとムアーウィヤ双方に刺客を送り、アリーの暗殺のみに成功した(661年2月)。生き延びたムアーウィヤはカリフとしてイスラム世界の単独支配に成功し、ダマスカスを都としてウマイヤ朝を開く。
う~ん。「後継者」とか「暗殺」とか「内戦」とか、なんか神様関係ない話が出てきてますね~。
そして・・・
この内戦の際アリーを支持していた人々は「シーア・アリー」(アリー派)と呼ばれていたが、これが「シーア」の起こりである。彼らはムアーウィヤをカリフとは認めなかった。680年にムアーウィヤが死んだ際、ムアーウィヤは息子のヤジードを後継カリフに指名したが、当然アリーの支持者はこれに反対し、生き残っていたアリーの次男フセインを担ぎ出したが、旧暦1月10日にイラクのカルバラーでヤジードの軍に包囲殲滅され殺された。シーアはこの日をアーシュラーと呼び、自傷してフセインの殉教を今も悼む。
シーアは預言者ムハンマドと血の繋がりのあるアリーとその子孫に一種の超能力的神聖性を認め、最高指導者(イマーム)と崇めた。それ以外は「ただの人」であり、イスラムの指導者たりえないとする。一方ムハンマドの慣行(スンナ)と聖典コーランのみを崇めるべきとする人々はシーアを神ではなく人間を崇拝するものと批判し、スンニ派と呼ばれる。
やっと出てきました「シーア」!
でも、ここまで読んでいただいた方なら何となく気づかれてるかもしれませんが、シーア派の成り立ちって、まさしく私権闘争ですよね?簡単に言えば勢力争い。
それを正当化するかのように宗派として成立させているように見えませんか?
始まりが勢力争いならば、中近東の各地で起きている宗教対立も結局はこの延長戦上でしかないのではないでしょうか?
mitsukoさんの記事にもありましたが、アメリカの参入も結局は私権闘争。アメリカにとって必要があればそのうち「アメリカ派」が成立したりして・・・というのは悪ふざけが過ぎますが、私権闘争という切り口で捉えれば同じ位相での争いが続いてきたことがわかります。
少なくともイスラム=テロVS民主主義という図式ではないですよね
では、今日はここまで
さらに調査を続け、色々な角度から明らかにしていきたいと思いますっ
投稿者 maru : 2008年12月12日 TweetList
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コメント
投稿者 くまな : 2009年1月13日 23:06
>人々は大地母神の体にほかならぬ地面を猛烈な火で焼いた。それに伴って当時の人々はごく自然に、大地母神が火で体を焼かれて苦しみながら、ありとあらゆる資源を出産してくれるという信仰を、持つようになったのだと想像できるからだ。
なるほど。母神(大地)が火で焼かれ→母神の身体(大地)から様々な自然の恵みが生み出される。これが焼畑に関連して生み出された観念として伝承され、神話になった、ということなんですね。
焼畑農耕は南方文化で、縄文文化の基層(の一部)になっていると考えられます。実際、記紀神話や縄文の遺物には南方の神話との類似性が見られます。そういう意味で(南方)神話の探求は面白いと思います。
ただ、ちょっと引っかかった(確認したいと思った)のは、縄文の遺物と焼畑農耕との関連についてです。縄文において焼畑が一般であったか?という疑問から以下の二点です。
①土器の中に火で焼いた跡があるのか?
釣手土器の一部に焼いた跡が見られるらしいので、火を入れたのは凶作のような緊急事態に限られたか?
②焼畑と土器の関係は時期や地域において一致するのか?
(ex.土器の使用時期、その地域に焼畑の痕跡はあるか?)
長野県の天竜川流域に限れば成立しそうですが、それ以外の地域でも見られる?地域や時期が限定的だとしても焼畑農耕(民族)の伝来(渡来)との関係で説明できる?