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2020年08月06日
密教~性を肯定視した教え~性を通して宇宙に繋がっている。
空海の持ち込んだ密教は生を徹底的に肯定視した。生きながら仏になるという即身成仏という考え方。
さらに身体性も以下のように肯定視している。
>身体性の原理を、はっきり肯定するのである。この身体を除いて、どこにわれわれの住む世界があろう。
またその身体性とは宇宙と同化するのである
>密教は偉大なるコスモロジーをもっている。コスモスの中で我々の存在が考えられるのである。
生を肯定視した密教はやはりその後、生の最も究極的な男女の性も肯定視していた。
理趣経という経典の中に以下のような教えが書かれている。
空海が伝えてからかなり後に経典としてまとまったそうだが、的を得ている。
密教の密教(=純教)たる所以とはこの性を肯定視した考え方にあるのかもしれない。
リンクより掲載
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1、(五つの根本の知の自他無二平等をあらわす)
性交の妙なる一体感は、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<妙適(びょうてき)清浄句是菩薩位>
2、愛欲のはやる思いも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<慾箭(よくせん)清浄句是菩薩位>
3、愛撫し合うのも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<觸(しょく)清浄句是菩薩位>
4、離れたくない愛の縛(しば)りも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<愛縛(あいはく)清浄句是菩提位>
5、その身のすべてを任(まか)せることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<一切自在主(いっせいしさいしゅ)清浄句是菩提位>
6、愛(いと)おしく相手を見ることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<見(けん)清浄句是菩提位>
7、交わりの心地好い悦(よろこ)びも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<適悦(てきえつ)清浄句是菩提位>
8、互いに恋い慕い合うことも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<愛(あい)清浄句是菩提位>
9、愛の誇(ほこ)り高ぶりも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<慢(まん)清浄句是菩提位>
10、その身を美しく飾ることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<荘嚴(そうげん)清浄句是菩提位>
11、満ち足りて、心が愛情でいっぱいに潤(うるお)うことも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<意滋澤(いしたく)清浄句是菩提位>
12、満ち足りて、心が光り輝くことも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<光明(こうべい)清浄句是菩提位>
13、満ち足りて、充実した身体感覚も、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<身楽(しんらく)清浄句是菩提位>
14、美しさを愛でることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<色(しょく)清浄句是菩提位>
15、心地好い声も、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<聲(せい)清浄句是菩提位>
16、芳しい香りも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<香(きょう)清浄句是菩提位>
17、甘美な味わいも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。
<味(び)清浄句是菩提位>
(『理趣経』初段「大楽の法門」金剛サッタの巻:十七の清浄なる生)
生きとし生けるものすべてが分け隔てなく生を楽しんでいる。
この実在する生の世界と、その喜びのすがたにこそ、さとりがあると説く。
理趣経とは・・・。ウィキペディア
この経典は『般若波羅蜜多理趣品』(原タイトルは『百五十頌般若』)とあることから、般若部の経典とされているが、内容的に見れば方等部の密教経典群に位置するという見方もある。理趣とは、道筋の意味であり、「般若の知恵に至るための道筋」の意味である。他の密教の教えが全て修行を前提としている為、専門の僧侶でないと読んでもわからないのに対し、『般若理趣経』は行法についてほとんど触れておらず、一般向けの密教の入門書という位置づけだと考えられている。
「十七清浄句」
真言密教では、「自性清浄」という思想が根本にある。これは天台宗の本覚思想と対比、また同一視されるが、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないというものである。『理趣経』は、この自性清浄に基づき人間の営みが本来は清浄なものであると述べているのが特徴である。
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密教の曼荼羅は女性原理を表しているとも言われてています。リンク
>その根底には世界の女性原理的な実在性、ないしは、その多様な発現に対する信頼がもとになっています。女性的原理の霊力のあらわれである大母神、ないし、その下位のさまざまな神格の崇拝に、ヨーガの実修をもあわせ持たち、これらは多様な土俗的要素を取りこんだ原インド的な実体をもつといわれています。
密教の捉えた性とは生命力であり、宇宙に繋がるエネルギーへの希求だったのかもしれない。
古代宗教が須らく性(=欲望)とは悪しきもの、忌み嫌うもの、また女性とはまともに課題にしてこなかった。近代思想も含めて私権社会のパラダイムとは性も女もとるに足らない問題として捨象してきたことにある。その意味ではこの密教の十七清浄句は一線を画している。真っすぐそこに向かっている。
また、「実現論」の中には同様にこの事を的確に記載されている。
>特に深く自戒すべきは、私権時代の男たちである。私権闘争存在たる男は、少なくとも顕在意識においては私権第一・仕事第一と観念しており、それ故に解脱過程を「必要ではあるが不充分なもの」、あるいは単なる発散過程であって「取るに足りないもの」と見做しがちである。従って、性や女についても同様に「不充分なもの」、あるいは「取るに足りないもの」と見做し続けてきた。
現にこれまで、私権時代の男たちは誰一人、性や女の問題を社会構造上の最基底の問題として真っ正面から取り上げ、追求しようとはして来なかった。だが、実は意識下では(=肉体的には)、外圧の低下に即応して、何よりも強く性や女に解脱収束していたのである。
にも拘わらず私権時代の男たちは、男支配の社会に安住し、表面上は性や女を軽視し続けてきた。それが、やがてどのような結末をもたらすことになるかを、この時代の男たちは誰一人気付けなかったのである。
投稿者 tanog : 2020年08月06日 TweetList
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