2020年8月6日
2020年08月06日
密教~性を肯定視した教え~性を通して宇宙に繋がっている。
投稿者 tanog : 2020年08月06日 Tweet
2020年08月06日
縄文人と自然災害~貝塚に見る縄文人の災害意識
今年も長雨と集中豪雨の影響で日本全国で甚大な被害をもたらしました。 近年は毎年、なにがしかの災害に見舞われ、いつどこで起こるかわからない天災に対してさすがに警戒心も高まってきているように思えます。
縄文時代は1万年続いてきたわけですから、そりゃあもうたくさんの自然災害があったと言えます。
遺跡にはしばしば火山灰の堆積層や、土石流などの堆積層があらわれたりします。地震ではっきりと地層がずれていることだってあります。平和に暮らしていたとされる縄文人だって自然には随分悩まされていたのでしょう。
縄文時代は早期。場所は九州南部。この地域はこの頃の縄文文化のトップランナーでした。作られる土器は他のどの地域よりも洗練され、多様で、おしゃれをするためのものも大量に出土しています。しかし今から7300年前、鬼界カルデラの大噴火という九州南方の海域で起きた噴火で、九州どころか西日本の縄文文化は壊滅的なダメージを受けてしまいました。ほとんど全滅といってもいいくらいの破壊だったようです。
噴火はもちろん九州だけではありません。東北では十和田火山、もちろん富士山だって何度も噴火しています。そのたびに縄文人はその場を去らなければならなかったのでしょう。
それからよく言われるのは津波や河川の氾濫などの水害の対策です。実際東日本大震災ではほとんど100%、太平洋側にたくさんあった縄文時代の貝塚は津波の被害に遭っていません。津波の来ない高台を選んで縄文人は集落を形成していたためです。縄文時代の集落のあった場所の地形を見るとほとんど、全くといっていいほど、大きな河川の支流が近くを流れる台地の高台のへりに作られています。これは自然災害を折り込んで集落を作っていたからなんでしょう。
縄文ファン https://aomori-jomon.jp/essay/?p=8465より
「縄文時代にも災害はあったのですか」と中学生から質問を受けました。その答えは「もちろんありました」です。 災害といってもいろいろあるのですが、考古学的にわかるものに火事があります。多くの縄文遺跡から、焼け落ちた住居の跡がみつかっています。
そして地震。最近は地震考古学という新しい分野が注目されています。地震の証拠である液状化現象や噴砂の跡だけでなく、広い範囲で地割れや地すべりの跡、長い活断層もみつかっています。縄文時代だけでなく歴史時代の記録を参照することで、実証的な成果を挙げています。
地震に関係して津波があります。東日本大震災で大きな被害をうけたことが発掘や研究を進めました。東北地方の太平洋側は古くからたびたび津波に襲われているのですが、青森県の三八地方から福島県にかけての海岸線にある480ヶ所の貝塚を調べた考古学者の岡村道雄さんは、縄文人は津波の怖さを知っていてムラを高い場所に作っていた、だからあまり被害を受けなかったのだと考えています。
大規模な被害といえば火山があります。 日本では7200年前の鹿児島県の鬼界カルデラの爆発があります。その火山灰は南九州では1m、北九州、瀬戸内海、近畿地方では20cmもの厚さに積もっています。雨にうたれると表面がコンクリートのようにかたまるので、植生が大きく変わったのです。その影響で西日本の縄文社会は力を失ったのだと私は考えています。
火山活動は大陸プレートの動きと関係するので、この時代は東日本でも活発でした。例えば東北では十和田火山の噴火が知られています。ところが、三内丸山遺跡では、噴火によって森が壊され疎林や草原になった環境を利用して社会力を伸ばしていったと辻誠一郎さんは考えています。西と東に見られる地域差は火山噴火の規模によるということもできますが、災害に対処する知恵や技術も重要だったと思います。
災害の被害の大きさは人の集まり方(都市化)にかかっているともいえるでしょう。少人数のグループが物をあまり持たず、住居も簡単である狩猟採集社会は、簡単に移動して難を避けることができます。オーストラリアの中央砂漠で調査をしていた頃、時ならぬ大雨で、近代的な都市アリス・スプリングスは洪水で機能マヒをおこしたのに、周辺に住むアボリジニたちは丘に上ることでらくらくと難を避けたという話を聞きました。電気、水道などのライフラインに象徴されるような文明の利器に囲まれた私たちの生活がはたしてすべてなのかどうか、もう一度考える必要がありそうです。
海洋制作研究所 https://www.spf.org/opri/newsletter/272_3.html
貝塚と大津波―縄文に学ぶ未来の景観
貝塚は残った
3月11日、大地震を引き金に東日本の太平洋沿岸を襲った大津波は、津々浦々の美しい村や町を人々の生活とともに呑みこんでいった。 大きな被害を受けた三陸地方の沿岸は、縄文時代の貝塚が多いことでも有名である。宮城県だけでも3百を数える。今回の大津波で、貝塚などの貴重な遺跡もまた、大きな被害を受けたのではないだろうか。私は、じつは、そうではないと思っていた。国土地理院などが公開した津波の浸水域が、貝塚の位置と微妙に食い違っていたのである。実際に、現地を見て回ると、多くの貝塚が津波の被害を免れていた。ある貝塚では復元された竪穴住居の横で自衛隊の人たちがキャンプしていたり、子供たちが遊んでいたりしたのが印象に残っている。
職住分離型の生活
東北地方の貝塚は、およそ5千5百年前から3千年前の縄文中期から晩期にかけてのものが多い。貝塚は、教科書などでは縄文時代のごみ捨て場と紹介されているが、多くの場合、すぐ隣に大きな集落を伴っており、生活の中心になる場所だったと思われる。貝塚に含まれる動物の骨からは、当時の人びとがじつにさまざまなものを食料にしていたことがわかる。魚は、マグロやタイ、イワシなど外洋から内湾のものまで、動物には、イルカなどの海のものから、陸ではシカやイノシシ、クマ、ノウサギ、タヌキにいたるまで幅広く食されていた。宮城県の松島湾は、複雑に入り組んだ海岸線と島々で独特の美しい風景が広がり、日本三景のひとつに数えられているが、この地形が、縄文時代以来のものであることはあまり知られていない。縄文時代中ごろの日本の海岸線は、今よりも3~5メートル高く、内陸深く入り込んでいた。しかし、松島湾周辺では地盤が縄文時代以降、海と同じペースで沈んでいったため、当時の海岸線がほぼそのまま残っている。ここにも、貝塚が数多く、70個あまりが知られている。これらの遺跡は、海岸線にほとんど接しているように見える。しかし、実際は標高15~30メートルの高台にあり、被害を受けずにすんだ。このように、当時の集落の大半はいわば海と山の接点にあって、調査しても災害の形跡が見当たらない場合が多い。人が住んだ場所には、必ず何かの痕跡が残るもので、津波を受けなかった集落だけが今まで残ったわけではない。それでは、なぜ貝塚は被災を免れたのだろうか。 私は、その秘密が当時の生き方にあるのではないかと考えている。狩猟や漁労、木の実の採集など、自然の資源にそのまま依存して生きた人びとは、じつにさまざまな環境を利用していた。効率良く食べ物を集めるために、海にも山にもどちらにも行きやすい場所。それが、貝塚が高台に作られた理由なのではないだろうか。多様な環境を、いわば「広く薄く」利用していたために、津波や山崩れなど特定の場所をおそう災害から逃れられたのではないか。 一方、弥生時代より後になると、遺跡に災害の痕跡が目立つようになる。例えば、内陸に4キロメートルの場所にある仙台市の沓形(くつかた)遺跡では、今回、すぐそばにある高速道路が防波堤になったおかげでかろうじて被害を受けなかった。しかし最近の調査では、およそ2千年前の大津波によって水田が断絶し、以後4百年にわたって人が住まなかったことがわかっている。農耕中心の生活が始まると、水田などの耕作適地に集中的に投資が行われ、特定の環境を「狭く濃く」利用するようになった。生活の中心と仕事場は同じ場所に営まれ、生産の効率は上がり、人口も増えたかわりに、災害に見舞われるとすべてを失う弱さをかかえるようになったのである。特定の土地に執着するため、何度も同じ災害にあう傾向も生まれた。
人間の限界を認識する
縄文時代と弥生時代とでは、自然観が大きく違うと考えている。縄文人は、人と自然とを切り離さず、人の力が及ばない領域(あの世)を強く意識していた。人も食べ物も、「あの世」から訪れた客人であり、それぞれの役割を終えた後に、再び「あの世」に戻っていく。その客人を精一杯もてなし、にぎやかに送り出すとともに、再来を願う儀式が行われた場所こそが、貝塚だったのではないか。貝塚には、人も埋葬されている。集落にほど近い場所でこのような営みが繰り返されたからこそ、大きな塚となって残ったのである。弥生時代以降は、自分たちの管理下にある領域を自然からはっきりと区別するようになった。自分たちで食料を栽培し、自分たちで自然を変えることができる、そう思い込むようになったのではないか。 今の日本人の生き方は、弥生時代に近いようだ。弥生人が稲作に適した低い土地に集中し、自然を切り開いていったように、現代人も、仕事に通いやすい、便利な場所に人が集中し、極端な自然開発をおしすすめてきた。被災地の人たちが、もとの暮らしを取り戻したいと考えるのは当然のことである。しかし、悲劇を繰り返さないように、今後の地域のデザインを考えていく必要があるだろう。歴史のかなたに埋もれていると思われている縄文人だが、彼らの「広く薄く」環境を利用する営み、働く場所と住む場所を切り離す一方、自然からくらしを切り離さないという思想に学ぶところは多いのではないか。 今回の災害は、千年に一度のものといわれている。悲しみを乗り越え、長い目で地に足のついた景観を作り上げていくために、歴史を見渡して、遠い先人たちの知恵を活かすことが、今こそ必要になっているのではないだろうか。
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