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2009年12月19日

素人の創造シリーズ4~創造の資質

創造する力ってなんでしょうか。知識が豊かで、論理的に話しの出来る人なんかは、頭も良さそうで創造力のある人なのかなと思いがちです。でも、本当は、そういう力より大事な能力があるようです。そして、創造力とは統合力なり。
世の中の発明品や新製品を見ると、「俺も同じアイデア思いついたのにな」などと思った経験ありませんか?でも実現しないアイデアを持っていても創造したとはいえません。様々な課題を乗り越えて、この世の中に実現できたんだと考えると、創造力=統合力というのはうなずけます。
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さらに認識を統合するとなるとどんな資質が求められるのでしょうか?
「るいネット」から創造の核心に迫る投稿があったので紹介します。Blog Ranking にほんブログ村 歴史ブログへ

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“>素人の社会活動「創造の資質」

しかし、認識を統合できる者が殆どいない。
☆いったい、認識の統合者=創造者の資質は、何なのか?それが出来る者と出来ない者の違いは、何なのか?
●まず、知識が豊かであるとか言葉が巧みであるという様な事とは無縁であるらしい事は、多くのダメ投稿群の例から見ても、明らかである。つまり、観念回路そのものには統合力(従って創造力)は、ないらしいと考えられる。だとすれば、観念以前の回路、つまり本能回路・共認回路・(自我回路)が、意識の統合の(従って創造の)カギを握っているという事になる。そこで、これら本能・共認・(自我)回路が生み出す意識を、仮に(言葉以前の意識という意味で)潜在思念と呼ぶ事にする。
●誰もが、これらの潜在回路を使って現実を対象化し、可能性を探索している。そして、実現可能な方向や方法を探り当てた時に、全意識がその可能性に収束して、潜在思念が統合される訳だが、この潜在思念の統合力こそが、統合(創造)のカギを握っており、かつ人によって潜在思念の統合力に大きな差があるらしい。

例えば、評論家は、すばらしい建築や美術作品について、上手に解説することができますが、自分が創ることはできません。人々は、実は解説がなくても言葉以前に作品のよさを潜在思念で感じているわけです。こんなケースを考えると、「答え=創造物」は言葉以前に潜在思念に導き出されたものなのかなと納得します。

●この差は、本能・共認・自我の夫々の回路の発達度合い(おそらくは、本能充足・共認充足・自我充足という夫々の充足体験度合い)に規定されていると考えられる。つまり、充足体験の豊かな(従って潜在回路の発達した)者は、どこまでも潜在思念で現実を対象化する。従って、様々な切り口が出てくるし、いずれは突破口を探り当てる事が出来る。
あるいはそれ以前に、潜在思念がその都度それなりに統合されているので(つまり、実感に裏打ちされているので)、彼が語る言葉は概ね整合しており、分かり易い。
それに対して充足体験が貧弱な者は、現実を対象化しても潜在思念を統合し切れずに、すぐに出来合いの観念に飛びついて終う。しかし、どんなに観念をいじくり回し組み合わせてみても(本人はそれで整合していると錯覚しているらしいが)、肝心の潜在思念が統合されていないので、彼の言葉は全く整合していないし、極めて分かり難い。

現代美術の解説などは、言葉が先で、潜在思念がついて来ないなんてこともありがちですね。理屈がないと評価できないような作品はきっとたいしたことないんでしょうね。
そして、言葉を重ねれば重ねるほど「正当化」に陥っていくなんてこともありがちです。

●その上、もっとまずい事に、現代人(特に35歳以上の人)は、本能充足や共認(本源)充足の体験が貧弱で、自我充足の体験だけが豊かである。従って、潜在思念も専ら自我回路によって統合する事になる。2チャンネルの投稿者がそれである。彼らの悪口やケンカは、もちろん何も生み出す事は出来ないが、自我という潜在思念がそれなりに統合されているので、実感が込められており、それなりに分かり易い。
それに対して、一応頭では自我を否定しているが、しかし自我に替わるべき本能充足や共認充足の体験が乏しい者たちのるいネットでの投稿は、問題を難しくこんがらがらせるだけで、整合性が低く、実感も薄いという惨々たる結果に陥って終うことになる。

私の世代にも話をこんがらがらせる理屈っぽい人が結構いるかもしれません。
理屈っぽい人ほど創造力がないってことかもしれません。
潜在思念をもっと磨きたいものですね。

投稿者 hiroshi : 2009年12月19日 List  

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コメント

 記事をあげたmilkteaです。
本文にもありますように、これからイギリスへ行きますので、コメントをいただけた場合のリコメは、帰国後にさせていただきますね。
 尚、このシリーズは、大王(天皇)の行った行為の是非ではなく、存在そのものの意義についての考察になります。
 今後共よろしくお願いします。

投稿者 milktea : 2010年2月23日 06:42

milkteaさん
こんにちは&ようこそ当ブログへ!
日本史をたどっていると、結局「天皇って何なん?」「なんで日本人だけ後生大事に天皇なん?」という素朴な疑問がわいてきますね。
普段は意識していませんが、では、自分はどうかと問われると、ここまで続いてきたのだからずっと続いてほしい、と単純に思います。そして、その思いの底にあるのが、右とか左では切れない「日本人の起源」なのではないか、行き着くところはそこではないか、と直感するので、余計に気になるのでしょう。
だから、なかなか手が出せない。
milkteaさんの果敢な挑戦に期待しています。

投稿者 うらら : 2010年2月23日 11:07

milkteaさんこんばんわ。
今頃イギリスのロンドン辺りでショッピングをされているかもしれませんが、こちら日本はいよいよ春の訪れで毎日温暖な気候で暮らしております。
さて、王権シリーズですが、最初の前提部分について私の意見を申し上げてみたいと思います。参考にできる部分は今後の展開に使ってみてください。
>社会を構成する最小集団は家族である。
この部分は間違いないと思いますが、家族をイメージする際に現在のように一対婚家庭に子供が複数といった状況ではやや固定的です。
家族というのは時代の時々で変わっていきます。現在のように核家族もあれば少し前は3世代が同居する血縁大家族という時代もありました。また縄文時代にまで遡れば、一夫一婦制が前提ではなく、複数の男女と子供が同時に生活する集団形態をとっていたものと思われます。それが数十人の集団になることもあり、生産と消費を共にした本源集団が家族集団の原点になるのでしょう。その場合、敢えて家族と呼ぶのか集団のままでよいのかは議論が分かれるところですが、私は先入観を外す意味でも集団と呼ぶほうがよいと思います。
>ムラという共同体とリーダーが誕生した瞬間でしょう。この時点で、リーダーとムラを構成する人達の間に『支配者』『被支配者』という構図は、潜在的に潜んでいたにせよ、当事者間にその認識はまだ無かったと思われます。諸問題を調停、解決する能力を持った人物に共同体を託すことが望まれたからです。
集団と集団が近接するとそこに同類圧力が生じ、milkteaさんが書かれているように「どう対応していいかわからない」という緊張圧力が発生します。日本人は縄文時代中期にすでにこの経験をしており、そこでは贈り物をしあって緊張緩和をおこなっていました。集団間の利害調整もお互いの長老が話し合うことで解消してきたと思います。問題はムラという共同体とリーダーがなぜ弥生時代に必要になったのかという事です。
これはmilkteaさんが書かれている諸問題の調停という部分に関わってくると思います。
諸問題の中に集団間の調整だけでなく、武力や収奪という破壊分子が登場したことが上げられるのではないでしょうか?
武力には武力で対抗せねばならず、物量と合わせて兵力を確保する為、集団の規模も必要になります。戦争という形で顕在化したのは弥生の晩期の一時期でしたが、この時代に戦争圧力が高まっていたのは明らかでしょう。それを加圧したのが異分子である渡来民であり、その調整や統合に一役買って出たのも先行して縄文人に馴染んでいた渡来民族との混合集団だったのではないでしょうか。
縄文時代には悩む必要も困惑する事もなかった集団と集団の争いが顕在化したのが弥生時代の特徴だったのだと思います。農業による土地や水利の争いといのもその意味ではそれらに突入した基礎条件のひとつにはなったのでしょうが、一番大きな変化は半島から持ち込まれた「私権意識」という厄介な贈り物だったのだと思います。

投稿者 tano : 2010年2月25日 00:19

うららさん
こんにちは♪
確かにわたし達は普段、改めて天皇の存在について考える必用のない時代に生きていますよね☆
もしかしたら単なる右&左、双方から「異議あり」の答えが待ってるかもしれません。そんなふうに予期しているともいえます(-_-#)
それでもわたしなりの答えを出しますので、どうぞよろしくお願いします(´∀`★)+.゜

投稿者 milktea : 2010年3月2日 21:49

tanoさん
ただ今帰りました♪
コメントありがとうございます。
おっしゃるように、一口に家族と言っても、形態はさまざまです。ここでは、親子でも、夫婦でもいいのですが、『対人関係の発生するふたり以上の集団』と、とらえていただければ、と思います。
そしてこのブログでも度々語られる私権文化ですが、これが輸入されたのは確かにやっかい!!だとわたしも思っています。ただ、これの広がり方が、この国の人々
(日本人と言ってしまいます)のパーソナリティーの形成と重ね合わせてみた場合、やはり大陸とは少々違っていますよね。次回は、多少なりともこのあたりにも触れてみるつもりです。
よろしくお願いします♪

投稿者 milktea : 2010年3月2日 22:03

お帰りなさい。イギリスはどうでしたか?
それはさておき、次週の続編の記事に期待しています。
>ただ、これの広がり方が、この国の人々
(日本人と言ってしまいます)のパーソナリティーの形成と重ね合わせてみた場合、やはり大陸とは少々違っていますよね。
良くも悪くもこの大陸との違いが日本人の特徴ですね。
最近内田樹さんが日本辺境論をだされていますが日本人の特徴をうまく表しているようです。(私は購入しましたがまだ読んでいません・・・)
下記投稿でまずどんな説なのか紹介されています。今後の展開の上でも参考に一読してみてください。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=227588

投稿者 tano : 2010年3月4日 19:03

こんばんは^^最近、ちょっと縄文ブログから離れてしまってますが^^;(反省m(__)m)
>そしてこのブログでも度々語られる私権文化ですが、これが輸入されたのは確かにやっかい!!だとわたしも思っています。ただ、これの広がり方が、この国の人々(日本人と言ってしまいます)のパーソナリティーの形成と重ね合わせてみた場合、やはり大陸とは少々違っていますよね。
そうそう♪そうなんですよ。
ぜひぜひ♪
期待してます!

投稿者 さーね : 2010年3月4日 22:12

tanoさん
こんばんは♪
リンクされているURLに飛んでみました。
わたしも書かれていることと似たニュアンスで捉えています。
そもそも最初「日いづるところ」と中国に対して発言した時、「倭などどいう卑下はしない」と考えたのかもしれませんが、日の出は、中国から見た場合の東です。日本を軸に見ていないわけです 笑

これは余談です
わたしが最後に持っていくつもりの結論とも無関係ではなく、とても参考になりました。
ありがとうございました。

投稿者 milktea : 2010年3月5日 21:00

さーねさん
こんばんは♪コメントありがとうございます。
初めてのエントリーなので、どこまでやれるか自信はありませんが、頑張ってみますね(´∀`★)+.゜
あ、期待はずしちゃったらごめんなさい 笑

投稿者 milktea : 2010年3月5日 21:05

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