【新説提案】現世人類の最古の産業は漁労ではないか? |
メイン
2019年12月31日
飛鳥地方に見られる日本の原風景
現在の奈良県明日香村は、1400年前の飛鳥時代の歴史や文化を伝える「屋根のない博物館」といわれています。
また、飛鳥時代の宮や史跡が多く発掘されていることから「日本の心のふるさと」とも紹介されています。
明日香村は日本で唯一、全域が古都保存法対象地域の自治体であり、明日香村特別措置法によって村全体が歴史的風土の保存対象になっています。
明日香村の魅力として数々の名所・旧跡があげられますが、それ以上に、現在でも残るおおらかな大自然が日本人の原風景として愛されています。
例えば、飛鳥川に大きめの石を渡して橋として使った「飛び石」、これは万葉集にも数多く詠まれた場所で、現在でも当時のまま残っています。
この飛鳥川は現在でも蛍が見られるほど水がきれいで、遠い飛鳥の時代の日本がそのまま現代にタイムスリップしたような感覚になる貴重な場所です。
飛鳥時代は、日本で初めて律令制が導入され、また仏教が入ってきたことによって仏教文化が栄えた時代です。
法隆寺・東大寺などの文化的遺産も大きな魅力ではありますが、それ以上に「古き良き日本の田舎」を感じることができるところにあるのではないでしょうか。 だからこそ、万葉の時代を感じさせるおおらかな大自然は、現代人を心身ともに癒すことができるのではないでしょうか。
【万葉集は日本人の心のふるさと】
万葉集は日本に現存する歌集の中で最も古いもので、正確な成立時期は不明ですが何度かの編纂を経て、奈良時代の末期には現在の形になったとされています。
万葉集の歌の大半はおよそ舒明天皇即位(629年)から759年の間の一世紀半の間に作られたもので、全20巻、およそ4500首の和歌が収められています。
そして一番大きな特徴としては、天皇から一般庶民や農民まで、貴賤を問わずに和歌が選ばれている点です。 日本におけるこの時代は、天皇と中心とした貴族と庶民の暮らしには天と地ほどの差がありました。
しかし、和歌の世界では身分は問わないという万葉集の姿勢は、世界的に見ても特殊なものとされています。 そのため万葉集に収められた歌は、男性的でおおらかな歌から、女性的なある意味女々しい歌まで、様々なものが見られます。
そして一番の魅力は、万葉集の歌が「実写的」つまり思ったままそして見たまま詠まれた歌だということです。
後に編纂された古今和歌集などのような観念的な歌よりも、万葉集が現代人の心をつかむのは、この「ストレートな感情の表現」なのではないでしょうか。
【飛鳥地方のみどころ】
明日香村には、謎の巨石遺跡や石造物がたくさん存在する石舞台古墳があります。
国の特別史跡に指定されている石舞台古墳は桜の名所としても有名で、石舞台を中心に円を描くように植えられたソメイヨシノが満開の頃には見事な眺めとなります。
この石舞台古墳が誰の墓であったかはには諸説ありますが、一番有力とされているのは蘇我馬子の墓だという説です。
「飛鳥寺」は蘇我馬子が建立した寺で、祀られている「飛鳥大仏」は飛鳥時代に作られた日本最古の大仏です。
「橘寺」は聖徳太子誕生の地として知られており、本殿(太子殿)には「聖徳太子御誕生所」と記されています。
また明日香村には、壁画で有名な特別史跡・キトラ古墳があり、発掘調査後は盗掘で破壊された石槨も、現在では修復されてきれいに整備されています。
【飛鳥文化の特徴、日本初の仏教文化、国際性豊かな文化】
飛鳥文化の一番の特徴は、推古天皇の時代を頂点として花開いた仏教文化で、時期としては仏教渡来から大化の改新までの時期の文化を指します。
飛鳥文化は、日本初の仏教文化とされており、仏法興隆の詔・聖徳太子による三経義疏など、仏教に関わる様々なものが作られました。
百済から仏教が伝わったのは538年または552年とされており、日本書紀には552年に百済の聖明王の使者が金銅釈迦仏像・教典などが天皇に献上されたと記されています。
当時仏教を真っ先に受容したのは蘇我稲目で、百済の使者が朝廷に献上した仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置して、さらに向原の家を清めて向原寺としました。
そして、仏教を受容した蘇我氏と反対する物部氏とが対立し、それが蘇我氏と物部氏との豪族同士の争いに発展し、勝利した蘇我氏が中心となって飛鳥京を中心に仏教文化が栄えることになります。
飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられており、渡来した僧の数人は帰化して飛鳥寺に住むようになりました。
そして7世紀後半には中央政府が地方への寺院建築を奨励し、寺院が全国的に建設されるようになっていきました。
飛鳥時代の文化のもう一つの大きな特徴は、朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた国際性豊かな文化ということです。
飛鳥時代に造られた仏像の材質は木造と金銅造で、代表的なものとして、飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)・法隆寺金堂釈迦三尊像・法隆寺夢殿救世観音像・法隆寺百済観音像などがあげられます。
飛鳥大仏・法隆寺釈迦三尊像などに代表される様式を「止利式」といい、特徴としては、杏仁型の眼・仰月形の鋭い唇・唇の端を引き上げるようなアルカイックスマイル、そして左右対称の幾何学衣文や正面から観照することを意識して作られた造形などがあげられます。
【飛鳥時代の「飛鳥」の名前の由来】
飛鳥時代の主な出来事としては、憲法17条や大宝律令などによって中央集権国家が形成され、同時に仏教の伝来など文化面でも大きな変遷が見られたことです。
言い換えれば飛鳥時代は、日本で初めて政治的な争いが歴史を彩った時代だともいえます。
ちなみに、「日本」という言葉は飛鳥時代から使われていたとされています。
飛鳥時代の「飛鳥」は、現在の奈良県高市郡明日香村にある「飛鳥」という地に宮(都)が置かれていたことに由来します。
万葉集の中に、その地が「遠つ飛鳥」と呼ばれており、現在の大阪府羽曳野市に「近つ飛鳥」という場所の記載があります。
「近つ飛鳥」周辺には、大陸系の遺物が出土される6世紀以降の群衆墳が広がっています。
そしてその「遠い・近い」は、河内王朝のあった大阪南部が基準とされているという説があります。
ここで、なぜ「飛鳥」「明日香」と二種類の漢字が存在するのでしょうか。 元々「あすか」というのは、日本に漢字が伝わる以前にあった地名で「スカ地」を意味します。 スカ地とは、川の流れによってできた砂州のことを指し、それに接頭語の「あ」がついて「あすか」となったという説が有力です。
そしてそれに「明日香」という美しい漢字が充てられたとされます。
そして全国各地に存在する「あすか」と区別するために、日本の中心であった「あすか」には「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞がつけられ、これが「あすか」に二つの漢字が充てられた理由とされています。
もう一つの興味深い説
飛鳥時代のに最も有名な人物と言えば、聖徳太子です。
その聖徳太子が生まれたとされている、明日香村の橘寺から見える景色が飛ぶ鳥に見えた、そしてそこが「飛鳥」になったという説です。
橘寺の近くには聖徳太子誕生の石碑があり、橘寺は丘の上にありとても見晴らしがいい場所です。
そこから北方を見ると、真ん中の三輪山を中心として、左に龍王山・右に巻向山があり、この3つの山が大きな飛ぶ鳥に見えるということなのです。
【日本の古代道路の歴史】
日本で道路建設が始まったのは5世紀だとされる説があり、また仁徳天皇の時代に造られた宮の周囲に、人馬の往来があったとされる道路の遺構も発掘されました。 しかし、直線的で計画的な道路が整備されたのは7世紀からだとされています。
推古天皇期に、宮のある飛鳥から各方向に直線道路が敷かれ、これらの道路は広い幅員と直線的である事が特徴で、これは遣隋使による隋との交流で、隋からの使節団を迎えるために道路整備に朝廷が力を注いだためとみられています。 また、飛鳥時代の陸上交通は徒歩がほとんどで、牛馬などの家畜は貴重だったことから庶民にまでは行き渡っていませんでした。
長距離の経路を確保するには、人や馬を休息または交代させる必要があり、大化の改新の詔では駅伝制を奨励しました。 これを「宿駅伝馬制度」といい、宿駅の機能は街道に沿って各国の国富や郡衙が兼任していたとされています。
駅路とは、律令制で定められた駅使が通行する街道のことで「七道駅路」とも呼ばれています。 七道駅路は、中央と地方諸国を結ぶ7本の幹線道路で、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海動・西海道を指します。
その原型は大化の改新以前に形成されていましたが、飛鳥時代後期の天智・天武期ごろに本格的な整備が進みました。
近年の考古学調査によると、その幅は最小でも6m、最大では30mを超えていたことが判明し、また整備された直線道路であったことも特徴とされています。
駅路の公式な使われ方は、第一には有事の際の迅速な情報伝達、第二には軍隊の移動、第三には公用の役人の移動、第四には租庸調によって納められる物資の輸送でした。
その他、国司の公務での移動など、あらかじめ定められた駅路を通ることが義務付けられていました。
【飛鳥時代で「紫」が高貴な色とされた理由とは?】
聖徳太子が紫という色を冠位十二階で最高位としたのは、中国からの影響が大きいとされています。
そして中国が紫を最高位としたのは、ギリシャやローマの影響なのです。
日本では603年に制定された冠位十二階が「紫色」の最初の出自とされており、濃い紫が最も高貴な色とされました。 この後に制定された冠位十三階では、明確に紫が最高位の色と記されており、その後様々な色順位の変遷があるにもかかわらず、紫は常に高位の色とされてきました。
【飛鳥時代の日本にペルシャ人の役人がいた?!】
昭和40年から41年にかけて、京都から奈良・和歌山に通じる国道24号線バイパス敷設にともなって、平城京付近の発掘調査が行われました。
この調査の際に、1万点を超える木簡が発掘され、大部分が式部省関連のものでした。 式部省とは、日本の律令制における八省のうちの一つで、出土した木簡を解読することによって興味深い事実が明らかになったのです。
そこには、「破斯清通(はしのきよみち)」という名があり、奈良時代の官吏の名とされています。 その破斯清通は、式部省大学寮に勤務していたペルシャ人と推測されているのです。 式部省大学寮とは、式部省の直轄下にある官僚育成機関で、官僚候補生である学生の教育と試験を行いました。
破斯清通は「員外大属(いんがいだいさかん)」という職に就いていたとされており、大属は大学寮の四等事務官にあたる下級官吏でした。 員外とは定員外の枠で任じられた特別職で、外国人の学問的知識を教えるために特別枠として任命されたと推定されており、勤務体系に関しては他の役人と同じだった事も解明されています。
「破斯清通」という名の「破斯」という文字は、ペルシャを意味する「波斯」と同音そして同様の意味を持つと判断され、出土品の中からペルシャ人を示す文字が確認されたのは、この発掘調査が日本初でした。
古代日本で紙の代りとして使用されていた木簡に書かれていた文字は、それまでは判読不能でしたが、この発掘調査で赤外線を使って調査した結果、日本在住のペルシャ人の役人の名前が発見されたのです。
約1400年前に、アラビアのイスラム勢力が世界に存在をアピールするために、当時の大国だったペルシャ帝国を侵略しました。
当時のペルシャ王はササン朝のヤズゲルド三世で、イスラム勢力の襲撃によってペルシャは負けてしまい、その結果多くのペルシャ人が国外に逃げたとされます。 国外に逃げた人々の中にはササン朝のペルシャの王族もいて、その一部は中国さらに日本にまで来たと伝えられており、その証拠が奈良の正倉院に残っています。
また、興味深いことに、日本とイランの行事に似通っている点が多くみられるのです。
例えば、年の暮れに行う大掃除、お正月のお年玉、お盆の行事等で、天皇家のシンボル「菊花」とペルセポリスの壁画に残るマークも良く似ているとされています。 そしてその時期にペルシャから渡ってきた人物の末裔であるという日本人も存在しており、在日本イラン大使館のペルシャ人専門家によると、「確実な証拠はないが、歴史的に見れば正しい主張である可能性は高い」とされています。
【飛鳥時代の土地制度】
まず、大化の改新(645年)によって「公地公民制」が導入され、全ての土地が国家の所有であることが定められました。
公地公民制は、各地の有力者が長年所有していた土地や人民を全て明け渡すことを意味していますが、当然有力者達は自分の土地や利権を簡単に明け渡すことはしませんでした。
そのため645年に実施された公地公民制は、有力者たちの反発によって、また、土地や人民の私有禁止が正式に発令されなかったために、実現するまで長い時間がかかりました。
公地公民制の本格的な実現は、702年の大宝律令によるものと考えられています。
公地公民制の根幹には、「戸籍」「班田収授」という制度があり、戸籍で人民を管理し、戸籍で把握した人民に口分田(土地)を与えるというのが、班田収授の仕組みです。
公地公民制によって、朝廷は農民から効率的に税を搾取できるようになり、財政は豊かになりました。
この公地公民制はこの後奈良時代にも継続され、平城京造営や大仏や寺院を建てるなど巨大な公共事業が行われるようになり、これらの資金は公地公民制によって得た税金などが使われたと考えられます。
公地公民制の役割そして意義は、次の3点になります。
・兵力を効率的に動員できる
・人に対して賦課する税金の創設
・土地に賦課する税金の創設
公地公民制によって国家の軍事と財産は支えられたといえますが、農民の身分は低く、重税を課されることによって苦しい生活が強いられました。 奈良時代には税金の負担や労役から逃れるために、豪族や貴族のもとに身を寄せる人民が増えることになり、次第に口分田の不足や荒廃が問題となっていきます。
そのため朝廷は「三世一身法」「墾田永年私財法」などを制定するのですが、次第に公地公民制は廃れていき、その後、寺社や貴族が所有する私有地「荘園」が発生して拡大していくのです。
飛鳥時代の政治・宗教・生活ナビhttps://www.asuka-jidai.com/info/post-64を参照しました。
投稿者 tanog : 2019年12月31日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/12/3621.html/trackback