2016年8月16日
2016年08月16日
あまりにも平穏な、権力者と人民の闘争=百姓一揆
虐げられた農民たちの怒りが頂点に達し起こるのが、武装蜂起「百姓一揆」である。最新の教科書にも「幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、指導者を厳罰に処した。しかし一揆は増加し続け、凶作や飢饉のときには全国各地で同時発生した。」と強調されるように、権力者と民間人の衝突の最前線とみなされている。
「江戸時代=百姓一揆の時代」とイメージする人も多いのではなかろうか。
また、百姓一揆といえば、打ちこわしをともなう乱暴なものであり、鎮圧せんとする領主側と血で血を洗う武力抗争に発展し、多くの命が失わ
れたと思われている。
しかし、そのような一揆像に訂正を迫る研究が進展している。
様々な事例を見ていこう。
投稿者 tanog : 2016年08月16日 Tweet
2016年08月16日
新説「日本史」第7回~藤原(秦)時代~《後半》
第7回は藤原時代の後半を描いてみます。後半は藤原支配が東国武士に取って代わる時代です。不比等が作った百済系日本は平安朝でその栄華を極めますが、日本を統一的に支配していた訳ではありません。平安時代とは文字通り平安を願った百済系天皇桓武が起こしたのですが、平安とは名ばかりでこの400年間は日本史の中でも最も不安定な時代でした。これは日本にあった東と西の別々の国が対立を深めバラバラになる可能性があった時代です。
西は藤原が率いる朝廷国家―貴族社会、東は高句麗人が土着縄文人と形成した続縄文国家です。西は律令制により地域の掌握が浸透していきますが、東は全く受け付けず逆に土着の共同体は強固になり独自に自衛組織を持つ武士集団を抱えます。日本史は専ら朝廷中心に書かれており、都合の悪い東の歴史などは正しく書かれず、ゆえに東の存在は蝦夷討伐や反乱といった表現になります。朝廷が征夷大将軍と名づけて時の武将を持ち上げたのは東の悪しき高句麗人、縄文人を征夷せよという意味合いが入っています。従って初代征夷大将軍の坂上田村麻呂が成した蝦夷討伐は英雄物語として称えられたのです。(実際には蝦夷討伐などは全く達成されておらず、その後の混乱、武士の誕生へと繋がっていきます)
そして武士の時代が始まります。10世紀半ばに始まる武士の時代とは力の中枢が朝廷から武士に移行した時代であり、藤原支配から高句麗系武士(坂東武士)へ力が移行した時代でもあったのです。言い換えると西から東へ力の中心が移行し、その後誕生した鎌倉時代とは日本的に言えば百済支配から(一旦は)脱却した画期的時代でもあったのです。
時に朝廷から派生して生まれた源氏、平氏は彼ら武士を統合し、朝廷と繋げる役割を果たします。出自も含めて源平は謎だらけですが、藤原家と付かず離れずで動いた彼らこそ、その後の武士社会を動かしていきます。
新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
================================
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
藤原時代は藤原京、平城京、平安京とそれまでの既存勢力を排斥する目的で遷都を繰り返し、平安時代以後は百済一色の藤原支配が確立した。
668年に滅びた高句麗は、その一部が関東、東北に渡来。その後の武士に繋がる勢力を形成していく。高句麗勢力の国内の拡大に危機を持った朝廷は平安時代に入ると度々蝦夷討伐で兵を繰り出し、801年蝦夷征伐に成功する。しかし、東北に拠点を得たに過ぎず、完全に征伐されていない高句麗残党は100年間で力をつけ、武士団として再生する。
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
================================
平安時代とはどういう時代だったか
平安時代は百済系桓武天皇が伽耶、新羅系を完全に押さえきり、百済一系で皇族を押さえた現在にいたる皇室体制の始まりの時です。桓武、嵯峨天皇は着任すると同時に唐からの文化を強力に取り込み、厳格な律令制と仏教を用い、それまでの日本で育まれた縄文土着と大陸渡来文化の混交社会からの脱却を図ります。平安京には1600人の貴族が集結し、あらたな百済系中心の日本社会が形成されていきます。
平安時代は女にとって、男にとって受難の時代だった。
藤原の最大課題は高句麗残党の居た蝦夷討伐
蝦夷を配下に置くことは大和朝廷からの積年の課題であった。
古くは斉明天皇時代の阿部比羅夫の658年蝦夷進行に始まる。
以降、奈良時代にも数回に渡り蝦夷へ兵を送り柵を造営する。
唐の圧力が弱まった平安時代、兵力を一気に国内に向け、本格的に蝦夷制圧が始まる。788年から攻め続け、アテルイ初めとする東北の縄文末裔の集団である陸奥制圧に50年かけて到達する。
平安時代の年表(武士の歴史は私権社会に対する集団防衛から始まった)
東にあったもうひとつの日本とは
高句麗は6世紀末に唐―新羅の連合軍によって滅ぼされますが、滅ぼされた一派は北へ逃れ、沿海州方面にいた靺鞨(マッカツ)人と共に渤海という国を作ります。東北地方に高句麗勢力が入り込んできたのはこの時代からではないかと思われます。727年に始めて渤海使が出羽国に到着する以前から、日本海を挟むネットワークはあったものと考えるからです。
また、同時期に百済も滅亡し、大和朝廷は国内の高句麗勢力殲滅の為に関東に百済の居住民を数百人規模で植民し、農業を広げていきます。関東の高句麗勢力がそれに伴い東北に移動した可能性もあります。大和朝廷は後の平安時代9世紀に征夷大将軍・坂上田村麻呂を送り込み、再三東北に攻め込みます。これは一説には蝦夷(縄文人の末裔)の征伐と言われていますが、本当のところは、大和朝廷に逆らう東の勢力、高句麗残党が勢力をもった東国を意識していたのではないでしょうか? 大和朝廷が数度の進行を経てようやく征圧したと言われていますが、只の縄文人支配にこれほど手間と時間がかかるとは思えません。アテルイやモレはおそらく高句麗系の騎馬民族であった可能性が高いと思われます。アテルイの肖像はそれを示しています。
日本の源流を東北に見る(9)~大和支配の外にあったもう一つの日本
武士の起源は坂東にあった
坂東侍を抜きにして武士の歴史を語ることは出来ない。坂東の侍は気性が激しく、土地を中心とした結束が固く主従の関係も強い絆で結ばれていた。坂東とは箱根と碓氷を結んだ線の東側にある相模(神奈川)武蔵(埼玉、東京、神奈川東部)安房(千葉南部)上総(千葉中部)下総(千葉北部、茨城南部)常陸(茨城)上野(群馬)下野(栃木)の八カ国の地域を指す。坂東の人々は農耕と同時に狩猟生活も営んでいたので、気質は勇猛果敢、特に馬に乗り弓矢を使うことが巧みで武芸に優れていることから、九州防衛の防人(さきもり)や蝦夷鎮圧のために多くの坂東人が駆り出された。
また、奥羽地方では度々大規模な反乱が起こった。しかし朝廷には常備軍がいなかった為に、朝廷はそのたびに征夷大将軍を任命し、征夷大将軍に任命された者は坂東に来て討伐軍を募集、編成し反乱鎮定のために奥羽地方に向かった。従って事がある度に坂東の武者達は駆り出された。このような条件の下、坂東人は鍛えられ戦闘に巧みな者が育っていった。
坂東武士の基本構造
武士と朝廷を繋いだ源平
都では平安初期に東国を攻め、9世紀初頭までに東北地方各地に城址を築く。それまで東国を運営していた高句麗人+縄文人の土着集団を解体する目的で、武術を有する蝦夷の民を都に連れ帰り 組織化した。それが俘囚制度である。彼らがその後に国家の常備軍として戦地に送られるが、平時には京で武術を教える人材となる。
坂東で盗賊蜂起による混乱が発生すると、手柄によって位を上げたがっていた平氏達は進んでその鎮圧に動いた。平氏は武力で混乱を制するとそのままその地の受領として定着する。武士第一号が平高望で、彼は坂東の地で英雄になっていく。
その後高望率いる平家一族が別れて坂東の地で分割統治する。これが坂東武士の起源である。
平将門の乱
なぜ中世の武士は源平に収斂したのか
投稿者 tanog : 2016年08月16日 Tweet