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2012年12月04日

日本の源流を東北に見る(9)~大和支配の外にあったもう一つの日本

東北シリーズ、これまで8回進めてきましたが、自然への同化、縄文への回帰という部分が東北の特徴としてキーワードになってきました。しかしこの東北の地も弥生時代を超えると西日本と同様に否応なく渡来人の影響、支配を受けるようになります。
ではその影響も西日本と同様だったのでしょうか 🙄 ?
いえ、やはりここでも、東北は西日本とは違った影響を受けているようです
今回はそれ以降の東北の歴史の一側面を形成していった渡来人の流れを追ってみたいと思います

日本には大きく朝鮮半島からの渡来民がさまざまに関与しています。
百済、新羅、任那といった南朝鮮の渡来民は西日本へまず定着し、水田稲作を伝えながら大和朝廷を作りますが、朝鮮半島の北方、高句麗から来た渡来民はそれらの地域とは別の場所を目指したようです。
東北の歴史に大きく影響したのは高句麗でした。
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画像はこちらこちらより頂きました。
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高句麗の渡来文化
高句麗の日本列島との関係は史実によると5世紀に遡ります。長野県、埼玉県、群馬県に高句麗の関連する遺跡が発掘されています。また、東京―埼玉の間にも高麗と呼ばれる地域が多くあり、古墳時代の前半には新潟から埼玉に至る地域にかけて高句麗の渡来民は定着していったのでしょう。また、既にこの時代から馬文化を日本に伝えています。
古墳形態も前方後方墳をつくり、前方後円墳を中心とした大和の勢力とは明らかに異なる別の文化をもった勢力が東日本の関東を中心にかなりの広がりを示していた事がわかります。馬具を象徴する埴輪も関東に集中しており、最後まで稲作が広がらなかったことも含めて大和系の勢力を寄せ付けない渡来系と土着系の混合勢力ができあがっていたのではないでしょうか。

長野は高句麗の渡来文化の影響が強いところである。百済からは新羅を横切って日本海を渡るしかないし、大和からの距離もある。一方で高句麗からは日本海を渡れば、糸魚川から簡単に入ってこられる。高句麗の故地は冷涼な山岳地帯で、狩猟文化+農耕文化を持つ彼らの生活基盤とよく似た自然条件だからである。
るいネット『五世紀から始まる東国における高句麗人の足跡』


画像はこちらより。
大和朝廷と東北勢力
高句麗は6世紀末に唐―新羅の連合軍によって滅ぼされますが、滅ぼされた一派は北へ逃れ、沿海州方面にいた靺鞨(マッカツ)人と共に渤海という国を作ります。東北地方に高句麗勢力が入り込んできたのはこの時代からではないかと思われます。727年に始めて渤海使が出羽国に到着する以前から、日本海を挟むネットワークはあったものと考えるからです。また、同時期に百済も滅亡し、大和朝廷は国内の高句麗勢力殲滅の為に関東に百済の居住民を数百人規模で植民し、農業を広げていきます。関東の高句麗勢力がそれに伴い東北に移動した可能性もあります。

教科書では遣唐使が大々的に取り上げられますが、頻度を見れば渤海史が圧倒的に多いことがわかります。「渤海国使」は、秋~冬に北西の季節風を利用して来日し、春~夏に太平洋から吹き上げる「南寄り」の季節風を受けて帰国したと考えられています。画像はこちらより。
大和朝廷は後の平安時代9世紀に征夷大将軍・坂上田村麻呂を送り込み、再三東北に攻め込みます。これは一説には蝦夷(縄文人の末裔)の征伐と言われていますが、本当のところは、大和朝廷に逆らう東の勢力、高句麗残党が勢力をもった東国を意識していたのではないでしょうか? 大和朝廷が数度の進行を経てようやく征圧したと言われていますが、只の縄文人支配にこれほど手間と時間がかかるとは思えません。アテルイやモレはおそらく高句麗系の騎馬民族であった可能性が高いと思われます。アテルイの肖像はそれを示しています。
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アテルイの面 画像はこちらより。
東北の勢力基盤は交易
一方、東北へ移住した高句麗人は何をしていたのでしょう?
南方朝鮮系と異なり、稲作文化は元々持っていません。彼らは純粋遊牧民の血統で、馬の飼育や交易民として生業をなしていたと思われます。さらに土着の縄文人との関係においては、支配というよりも用心棒として村落を守る形で入植していたのではないでしょうか?これらは以下の事によって示されます。
東北は有数の馬産業が古来から発達していました。古墳時代には馬は既に全国各地で飼育されていましたが、岩手県北~青森県(糠部)は名馬の産地として定評があったのです。というのも西の馬と東の馬は全く使い方も馬の性能も異なっており、西の馬は体格も貧弱で、運搬用としてもっぱら使われていたのに対して、東北の馬は戦闘馬専用に飼育されていました。平安以降の乗馬戦争の需要が高まるにつれて、東北の馬は朝廷や貴族たちの羨望の的となり、遠く運ばれ高く売れました。
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画像はこちらより。
対唐・新羅連合への牽制として始まった渤海交易も、国交貿易とはいいながら遣唐使、遣新羅使とは異なり、実際には民間貿易をベースにした商品の流通網でした。東北には交易に長けた氏族が相当量定着していた事を物語ります。東北の交易技術、交易の業は渤海交易なき後も継続し、十三湊での海外交易や、奥州藤原の金属貿易にも継承されていったことと思います。近代においてはアイヌ民族が東北の交易の洗礼を受けており、アイヌから物資を調達して大和へ売りさばく形で、松前藩は栄えていきます。
武士へと引き継がれる高句麗系譜
東北の高句麗の系譜はその後、10世紀以降の武士の発生、発達へ引き継がれていきます。武士は元々は土着の農民を守る自衛団として発生したと言われています。
坂東武士は関東の出自ですが、同様に東北にも強力な武力軍事集団が居たのではないでしょうか。馬を駆使し、駆け引きと戦闘力でのし上がった武士という役割にはどうも騎馬民族高句麗の系譜があるように思われるのです。
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画像はこちらより。
大和支配の外にあったもう一つの日本
東北の歴史は高句麗渡来の影響を受けた歴史である、こう考えると天皇中心の百済系支配の日本史から東北や古墳時代の関東の歴史が意図的に削除されている理由も附に落ちます。ただ、高句麗渡来民の支配が百済や新羅系の勢力より弱く、また日本支配において後発であったために、組織化が進まず縄文人集団が比較的温存されたのかもしれません。さらに稲作で土地とセットで縛られなかった為、生産という点において渡来系氏族とは別に縄文人が存続できた点が東北の特徴ではないかと思われます。
東北の人は豪快 😛 !と後輩から聞いたことがあります
これは全くの想像ですが、東北の人々は縄文由来の本源性と大陸由来のしたたかさ、闘争性、これを時の外圧によって使い分けているのかもしれませんね。

投稿者 mituko : 2012年12月04日 List  

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