シリーズ「日本人はなにを信じるのか?」~10.日本人における自然信仰と祖霊信仰の共存構造 |
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2012年09月11日
日本の源流を東北にみる(2)~賢治にみる東北・縄文の世界
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
(画像はこちらからいただきました。)
みなさんよくご存知の宮沢賢治の詩、「雨ニモマケズ」の冒頭です。
明治以降の詩人には、石川啄木、宮沢賢治、土井晩翠、斉藤茂吉・・・などが挙げられますが、すべて東北人です。また島崎藤村や高村光太郎も東北と深い関係をもつ詩人であり、東北は詩人を生み、育てたとも言えると思います。中でも宮沢賢治は、生涯を通じてほぼ東北で過ごしました。
彼の詩や童話は、現代でも多くの人に読まれ、愛され続けています。今日は、東北の地に居座った賢治から、東北・縄文の世界を覗いてみたいと思います。
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宮沢賢治の経歴
賢治(1986~1933)は岩手県花巻市に生まれ、幼い頃より宗教に親しみ、植物や鉱物採集にも熱中し短歌も多く作りました。22才の時に初めて童話を書き、以後創作と農業指導の道を柱とし短い生涯を烈しく生きぬく生涯を送ります。大正13年(38才)「春と修羅」「注文の多い料理店」を出版しますが、生前刊行の本はこれだけで、没後に賢治の人格と芸術への評価は高まり、数多くの童話、詩集が刊行されることとなりました。昭和6年(45才)病床で書かれた詩「雨ニモマケズ」は賢治の目指す考え方や行動を率直に表現された代表作です。47才で永眠。(こちらより引用させていただきました。)
近代主義に染まらなかった
梅原猛氏は著書『日本の深層』において、石川啄木、太宰治、宮沢賢治は以下の二点において、まさに「東北人」であったと述べています。そのひとつは、かつて縄文時代、日本の文化の中心地であったことからくる無意識の「(東北人としての)強い自負」、もうひとつは「奔放な想像力」。しかしながらさらに、賢治にしかないものを以下のように言い当てています。
賢治には、啄木や太宰のもたないものがある。それは賢治は、啄木や太宰とちがって、現実生活においても思想においても、東北にいすわっていることである。啄木や太宰は、やはり思想的に、近代主義者である。近代主義者であった啄木や太宰は、東北人としての自分を、心の底に深い愛情を抱きつつも激しく呪った。しかし賢治はちがう。彼は東北を愛し、その思想も、近代主義を超えているのである。
確かに啄木も太宰も故郷を離れ上京しましたが、賢治は東北岩手の地に留まりました。
また、彼の作品が死後に発表されて評価されていることからも、当時の学問(文学?)を志した者が誰しもそれでの立身出世を求めていたのに対し、賢治にはそうした意識は薄かったのではないでしょうか。実際に、たびたび冷害、旱魃、飢饉に襲われ苦しむ故郷のために役に立ちたいと思い、後年は稲作の肥料研究へとまい進しています。
東北の厳しい外圧が生んだ自然への深い同化力
東北の地における稲作の定着は困難でした。冷害や干害に見舞われ凶作になると、飢餓に必ず直結したのです。そうした時は、「トコロを山に堀り、トチ、ナラの実を拾い、フキ、ユリ、フムギ、ヤマゴボウをあさり、カラムシやツクナシの葉などまで食った」(『宮沢賢治 縄文の記憶』より)そうですし、お年よりや幼い子が多く餓死していったそうです。そのような自然環境の下では、全面的に稲作にシフトすることはできず、旧来の狩猟採集(縄文)スタイルが長く残存したはずです。厳しい自然への畏怖、だからこそのそのわずかな恵への深い深い感謝の想い。東北の地に生きる人びとの自然への同化力が深くなるのは必然だったといえるでしょう。
それは、賢治の描く山男と柳田国男の描く山人の違いからも見えてきます。
「狩猟採集を中心とした非稲作人の末裔が山人であり、後からきた稲作民族に侵入され、追いやられた者たちである」と考えたのは民俗学者の柳田国男ですが、柳田の『遠野物語』には、 “荒々しくて恐ろしくて、強力な存在”、具体的には「村の娘をさらい、自分(鬼)の妻にしてしまう。そしてその間に子供が生まれても、自分に似ていない場合はその子供を食って殺してしまう」というような残虐な存在として山人が登場します。
しかし賢治の、例えば『祭の晩』という童話には、「祭の晩、町に出かけた山男が、団子二串を無銭飲食したとの理由で、さんざんな目にあっていたところを、その代金を払って助けてやった亮二に対して、山男は山のように積まれた太い薪と、キラキラと輝くような栗の実を大量においていった」というように、じつに素朴で、素直で、ウソをつくことを知らない無垢な存在として山男は登場します。
山に縄文、純粋、幼児の精神を宿らせ、里に大人の社会、近代文明を設定した賢治は、当然のことながら、山男を前者の象徴として描いたのです。
東北の地が生んだ賢治の自然観、世界観
鳥や木や草、獣や山や川にいたるまで、すべてが人間と同じように永遠の生命をもっていると賢治はみなしています。
それを表す代表的童話に「なめとこ山の熊」があります。
淵沢小十郎は熊狩の名人であるが、好きこのんで殺生をやっているわけではない。己と家族の生命維持によって必要な最低の行為が熊を殺すことなのです。町の狡知にたけた商人に二束三文でたたかれることを知りながらも、毛皮と肝を売るために熊を撃たねばならないのです。小十郎は、熊に「おれは、てめえを憎くて殺したのではねえんだぞ。これも商売だから、てめえも撃たなくちゃならねぇ。てめえも、熊に生まれたのが因果なら、おれもこの商売が因果だ。やい、この次は熊なんぞに生まれるな」といって、熊を殺します。しかしこの小十郎も、やがて時期がくれば熊に殺されます。「おぉ小十郎おまへを殺すつもりはなかった」という熊の声を聞きながら。(『日本の深層』より)
(熊たちが厳かに小十郎を見送るシーンです。画像はこちらより頂きました。)
狩猟採集の時代における生命維持にとって決定的なものは、生態系の維持であり、滞りない食物連鎖です。ですから、完全な自然依存型の生活スタイルをとって生かされている人間に、己だけの勝手なふるまいは許されません。人間だけが特別なことはないのです。
宮沢賢治は岩手の山野を好んで歩いたそうです。農業研究者(自然科学者)として地質調査するためだけではなく、きっと賢治は、この風土の中にいまも激しく脈動している原東北の縄文人の感情をまさぐり、一体になろうとしていたのではないでしょうか。
最後に、「雨ニモマケズ」を全文掲載したいと思います。
賢治の作品に今も多くの日本人が惹きつけられるのは、「自分よりみんな」「役に立ちたい」というその本源性ゆえなのだろうと感じます。
(画像は こちらより頂きました。)
参考書籍
『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』 梅原猛著
『宮沢賢治 縄文の記憶』 綱澤満昭著
投稿者 mituko : 2012年09月11日 TweetList
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