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2008年12月31日

2008年 縄文ニュースを振り返って2(下半期)

 2008.8.4
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 前回の記事に続いて、2008年下半期の縄文関連ニュースを振り返って紹介したいと思います。
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1,あなたは縄文系?弥生系? 日本人ルーツの研究に新手法 ミトコンドリアDNAから構成比母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案した。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、首都圏では弥生系が約7割と多数派で、東北や南九州など縄文社会が発達した地域では縄文系が7~6割と多かった。11月の日本人類学会大会で発表する。日本人の成り立ちを探る新たな方法として注目されそうだ。
2,世界遺産暫定リストに三内丸山など3件 2008.12.16
 政府は15日、世界遺産条約関係省庁連絡会議を開き、三内丸山遺跡に代表される「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田)など3件を世界文化遺産候補として、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の暫定リストに新規掲載することを決めた。
3,三内丸山遺跡の骨角器が破損 劣化が原因か 2008.12.16
 国内最大級の縄文集落跡として知られる三内丸山遺跡(青森市)で出土した国重要文化財の骨角器の表面が、収納作業中に一部はげ落ちていたことが16日、分かった。青森県教育委員会によると、同遺跡で出土した重文の破損は初めて。劣化が原因とみられる。
4,西日本最大の竪穴式建物跡発見 4千年前の縄文後期 和歌山・かつらぎ町 2008.7.23
 和歌山県かつらぎ町の中飯降(なかいぶり)遺跡で、縄文時代後期前半(約4000年前)の大型竪穴建物跡が見つかり、県文化財センターが23日、発表した。縄文時代の竪穴式の建物跡としては西日本最大という。祭祀(さいし)用の遺物は出土しておらず、同センターは集落の人々が集会場や共同作業場として使った建物の可能性が高いとみている。
 大型の竪穴建物跡は、豪雪地帯などの寒冷地集落で共同作業を行うために作られたとする説が有力で、三内丸山遺跡(青森県)など東日本では確認されていた。しかし降雪量が少ない西日本では集落の規模も小さく、共同作業の必要性が少なかったことから大型のものは存在しないと考えられており、これまで確認されたものも直径10メートル程度のものだけだった。

5,東日本文化の影響を受けた大規模集落跡か 奈良の縄文晩期遺跡 2008.12.3
 祭祀用とみられる土偶や装飾が施された石棒が出土した奈良県橿原、御所両市の縄文時代晩期(約3000年前)の遺跡。骨を納めたとみられる土器棺墓や、近畿では珍しい縄文時代の平地住居跡も出土し、一帯は縄文文化が発達した東日本の影響を受けた大規模集落だった可能性が強まった。西日本の縄文文化の実相を知る上で貴重な資料になりそうだ。
  両遺跡からは計19基の土器棺墓が出土。人骨は残っていなかったが、数基ずつまとまって見つかり、家族ごとに埋められた可能性もあるという。本馬地区遺跡の平地住居跡は直径6メートル。縄文時代の住居跡の出土例は、穴を掘って築造する竪穴式住居が中心で、御所市教委によると、平地住居は近畿では兵庫県の佃遺跡に次いで2例目という。

 以上が2008年、下半期(7月~12月)で取り上げられた縄文に関わる代表的なニュースの抜粋です。皆さんは記憶に残っているものはあったでしょうか?
改めて振り返って見ると、取り上げられた内容としては
1,日本人の起源
2・3,三内丸山遺跡
4・5,西日本の縄文遺跡

といった内容のようですね。 
 日本人の起源に関しては「なんで屋劇場」「るいネット」でも多く取り上げられているように、日本人であるなら(日本人でなくとも?)誰もが注目するところだと思います。これまでも歯の形態、顔立ち、耳垢・・・etc様々な方法で縄文系・弥生系の分類は試みてこられたが、遺伝子による研究結果を加えることで正確な「日本人の起源」の解明へと近づけるかもしれないですね。
 一部悲しいニュースも混ざっていますが 🙁 、縄文時代といえば・・・で連想される方も多いと思いますが、相変わらず三内丸山遺跡に関するニュースは話題が多いですね。
 一方今年は、東日本に比べると未解明部分の多い西日本の大規模遺跡発掘が話題を呼んだ年でもありました。これまで、西日本には存在しないと思われていた大型の竪穴建物が発見されることによって、西日本でも建物を利用しての共同作業があったことが解明されてきました。
 縄文時代といった古代の実態を調査する上ではこれまでの研究蓄積のみならず、最新の考古学調査や科学調査の動向も重要なアプローチとなることが2008年下半期のニュースを見るだけでも十分理解出来ますね 🙂
 僕らの運営する『縄文と古代文明を探求しよう!』でも来年は更なる追及を深め、皆さんに紹介出来ればと思います。
それでは皆さん、良いお年をお過ごし下さい 😀

投稿者 dai1028 : 2008年12月31日 List  

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コメント

>縄文人は、旧石器人を基調としつつ、旧石器時代末期に細石器文化を持って北方から日本列島に渡来した原モンゴロイドや南海から渡来したオーストロネシア語族、さらに中国の長江下流域から照葉樹林文化を携えて渡来した集団など幾派もの移住が重層して形成されたと考えられる。【Wikipedia】
私は、おおむねそのように考えています。
中国大陸からというのも充分ありえると思いますよ。
>地学的に見ても、北海道とサハリンは繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。
残されている石器や動物の骨から見ても、北方ルートはあったと思いますが…
北方からは考えられないという前投稿は、ちょっと疑問ですね。

投稿者 naoto : 2009年1月27日 21:36

naotoさん
>北方からは考えられないという前投稿は、ちょっと疑問ですね。
なるほど。そう考えると、南方説と北方説というより、やはり南北混合説のような感じになるのでしょうか。
一度、今ある説を整理することが必要かもしれませんね。

投稿者 さーね : 2009年1月29日 21:12

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