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2013年05月30日

東にあった「もう一つの日本」6~鎌倉幕府は武士による天下統一ではなく、東国の独立を全国に宣言したものだった~

 この間、東国について追究してきたように、朝廷側は防人制度蝦夷討伐、そして後に続く俘囚制度とさまざまな施策、租税の強化を講じて東国を支配しようとしてきました。しかし、そのどれもが失敗に終わり、その爪跡は、着実に東国民の反感をつのらせていきました。
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 何とかして東国を支配しようとする朝廷側と、自分達の集団や生活を守ろうとした東国民との戦いはどのような結末を迎えたのでしょうか。シリーズ第6回目は、平安中期から鎌倉時代までの東国に焦点を当てていきます。

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■朝廷は武士の位を上げることで東国の反乱を抑えようとした
 東国の武士の起源は、農民が自分たちの土地や財産を守るために武装したのがはじまりと言われています。東国の農民は、朝廷から派遣された国司による過剰な徴税に対抗するために、互いに結束し、武士団を形成したのです。つまり、東国の武士団とは互いに助け合う組織だったのです。
 朝廷は、これらの反乱に対抗すべく、国ごとに押領使を任命しました。押領使とは、国司の命に従い、国内武士を動員して反乱を鎮圧することを任務とする人のことで、現代でいうところの警察に相当します。つまり、朝廷は、東国の武士団による反乱を、高い地位を与えた武士たちの力で抑え込もうとしたのです。まさに毒をもって毒を制するという手法です。
 こうした朝廷から確固たる地位を譲り受けた武士達の中で、関東で勢力を扶植したのが「平氏」でした。しかし、平氏一族の結束は決して強くはなく、高望王の息子良持が死去すると、その遺領をめぐって良持の子将門と良持の兄弟が争いを始めます。最初のうちは身内同士の内紛でしたが、後に朝廷を驚愕させる大乱に発展します。それが平将門の乱です。
 将門の乱は、最終的に東国の一武将である将門が「新皇」と名乗るまでに発展しました。このことに、朝廷はますます危機感を募らせ、将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷の両武将に、これまでにない貴族と同等の地位=従五位上を与えることになります。こうして平安時代の武士は、律令国家体制の中で、確固たる地位を築きあげていったのです。
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■鎌倉幕府を開かせた最大の動力源は東国独立を目指した関東武士たちだった
 将門の乱の平定後、武士の地位を高めることで、朝廷による東国支配は安定していくかに見えましたが、それ以降も東国の独立の気風は失われることはありませんでした。
 関東地方で起こったこの将門の乱は、将門が新皇を名乗ってから、わずか2カ月足らずで鎮圧されてしまいましたが、関東の武士たちに、「自分たちの国をつくることができる」という希望を与えた、歴史的な事件だったのです。
 将門の乱を鎮圧し、従五位上に叙された平貞盛、そしてその後、彼の血統である平清盛によって平氏は天下を支配することになります。その出発点はまぎれもなく、この「将門の乱」であり、関東武士たちの独立機運の高まりがあってこそではないかと考えられます。
 しかし、平氏による天下は長くは続きませんでした。その最大の理由は、利権を奪われた公家からの反発ではなく、関東武士たちの平氏に対する反発であったと考えられます。
  それに対し源頼朝が鎌倉幕府を開くことができたのではなぜか―。
 それは、頼朝が関東で育ち、関東武士が何を望んでいるかを肌で感じてきた武将だったからではないでしょうか。そのことを端的に表わしたのが、富士川の戦いで平家が西走した後の頼朝の行動です。頼朝はこの戦いの勝利の勢いに乗じて上洛することも出来たはずでした。しかし、頼朝はそうはせず、関東に残る敵勢力の排除にあたったのです。
 頼朝が上洛に踏み切らなかったことは、天下を取ることが目的ではなく、関東武士の「朝廷に干渉を受けない自分たちの国を打ち立てたい」という思いを第一義としていた証拠であり、東国を朝廷から独立させることが頼朝の真の目的だったことを物語っていると言えます。壇ノ浦の戦いの後、朝廷から官位を受け取った源義経に対して、頼朝が激怒したことからも、頼朝率いる東国勢力が朝廷からの独立に拘っていたことが伺えます。
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 東国の独立を阻止しようとする朝廷側に対抗するため、結果的には全国に頼朝の勢力が拡大することになりますが、それでも頼朝が朝廷機能を京都に残し、鎌倉に幕府を開いたのは、東国の独立を天下に宣言し、朝廷の威を借りながら、この独立国家を堅持するためだったと考えられます。
 
 そして、それが可能だったのは、西の朝廷が東の勢力に事実上敗北したからなのです。

投稿者 hi-ro : 2013年05月30日 List  

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