2013年5月10日
2013年05月10日
伽耶を知れば古代日本が見える6~日本建国は百済系―伽耶系の権力闘争の果てにあった
日本建国は諸説ありますが、明らかに大陸の記録に日本が登場するのは百済滅亡後の670年代です。この日本建国直前には様々な渡来人の思惑がありました。
前回の記事では大和朝廷が伽耶人が興した国家であり、本国伽耶を失って以降は、対高句麗、対唐、新羅を前に百済人を取り込んで国家としての体制を整えていく決意をしたことを書きました。今回第6回では、伽耶と百済の古来からの関係を見ながら、伽耶人が後発で日本に乗り込んできた百済をどのように見ていたか、どう扱ったのかを見ていきたいと思います。歴史書などでは一般に日本は百済人が作ったと書かれることが多いですが、実態のところは伽耶人が大和朝廷の骨格を作り、後に百済人が乗り込んで合流した国家が大和朝廷であり日本国と思われます。
【朝鮮半島内での百済と伽耶】
百済、伽耶は共に国土を侵略され、日本に移住した国家ですが、朝鮮半島の時代からこの両国には複雑な関係がありました。
まず最初にまだ馬韓、弁韓と呼ばれていた時代、この地には呉越からの難民が多く流れ込みました。馬韓には呉人が陸伝いに到達、弁韓には越人が海を渡って到達します。したがってこの両国はかつては江南人の氏族が多く分かれて小国を作って定着していたことになります。その数は70国以上と言われ、国家という体裁を取らない状態が長く続いていました。やがて馬韓は3世紀後半に扶余人が入国し、百済という国家を樹立します。弁韓はそれよりかなり前(1世紀前半)に金官伽耶という国を建て、半島内で自立します。
高句麗の広開土王時代に百済、伽耶は共に攻撃を受け、百済は首都を奪われ、南の熊津に遷都、実質上国土の半分を高句麗に奪われます。この4世紀から5世紀にかけての攻防は高句麗が半島全部を支配しようとする強い攻撃でしたが、新羅、百済、伽耶は抵抗し、高句麗の大王、広開土王の時代が終わると形成を逆転させ、新羅は高句麗に代わって金官伽耶を収奪、百済も伽耶の一部の譲渡を受けます。
~国土を過半、高句麗に占拠された百済
伽耶―百済―新羅の関係は常に同盟関係でありながら敵対関係にもなり、中でも伽耶は新羅と戦うときには百済と手を結び、百済と戦うときには新羅と同盟するという節操のない国交をしていました。それは前にも述べたように伽耶が貿易国家で、両方の国に商業を通じて国交があり、どちらにもよい関係を結んでおく必要があったからです。
ここで言いたいのは、伽耶と百済の関係は半島内では決して一枚岩の同盟関係ではなかったという事です。
投稿者 tano : 2013年05月10日 Tweet