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2010年04月09日

シリーズ「縄文体質を切開する」~縄文時代はなぜ採取に特化したのか?

こんばんわ。
シリーズ「縄文体質を切開する」の第2回をお送りします。
前回はtamaさんより「縄文時代の外圧って何?」で縄文時代に自然外圧と同類圧力の2つがあった事をあきらかにしました。さらに自然外圧については島国と火山地帯の真ん中という地理的環境と組み合わさってその中で自然観を培った民族が日本人としての原型をなしてきたとしています。
さて今日はそれを受けて縄文時代の生産様式を見ていきたいと思います。
改めてここで明らかにするまでもないのですが、縄文体質に同化するためには生産を抑える事は避けて通れません。
まず最初に縄文人の主たる生業はなんでしょうか?
「狩猟・採取・漁撈」
ブッブーです。
「採取・漁撈」 😀
もっと言えば「採取、採取」でした。貝や昆布などの海の採取とどんぐりや栗などの山の採取です。
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縄文人は採取生産に特化することで世界で最初に定住化した民族ではないかと言われています。考えてみれば当たり前の事ですが人類の定住革命は農耕や栽培生産発ではなく、徹底的な採取生産によって始まったのです。
ではなぜ縄文人は採取のみに特化することが可能だったのでしょうか?
なぜ狩猟をしなかったのでしょうか?
これは可能というより豊かな日本の地形が生み出した偶然なのかもしれません。
前投稿でもありましたが、採取生産の特化に至った経緯は日本列島の黎明期に遡ります。
さて次に進む前に一押しお願いします。
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今日の記事は縄文の匠である縄文塾 中村忠之先生の「森と人の地球史」の中から記事を紹介しながら進めていきたいと思います。
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16000~15000年前という縄文時代の黎明期には、湖状だった日本海が南北で外海とつながり、冬場湿った空気が豪雪を生み、草原を急激に森林に変え、水位の上昇もこの地の平原を飲み込んでいき、すでにマンモス・ナウマンゾウ・オオツノジカ・ヘラジカなどの大型草食動物は絶滅するか絶滅の一歩手前に追い込まれていました。なにしろ日本の冬の深くそして重たい雪は、彼らの食料を奪い、その歩行すら困難にしたのです。

結局険しい日本の森林は、わずかに森に適したクマ・イノシシ・シカ・オオカミ・カモシカなどの中型動物、サル・タヌキ・キツネ・カワウソ・ウサギ・リスなどの小型哺乳類しか生存できませんでした。
その代わりに、クリ・ドングリ・クルミなどの堅果やサケ・マス・アユ・コイなどの川の幸、それにごく沿海附近でタイ・スズキ・サワラ・キス・サバ・アジなどの硬骨魚、タコ・イカという軟体類、シジミ・アサリ・ハマグリ・カキなどの貝類、エビ・カニなど甲殻類、それに加えてコンブ・ワカメ・ノリ・ヒジキなど海藻類という具合に、有り余る海の幸を与えたのです。

こうした特異な風土は、それまで狩猟民として生きてきた前縄文人に狩猟生産をあきらめさせ、「採集と漁撈」という行為をその中心に置いた生活を選択させていきました。
このことが日本民族の資質と性格・性状の形成に、大きな役割を示すことになったのです。ケモノが質量とも乏しい上、峻険な山地の多い日本において、狩猟という生活様式は適切なものではなかったのです

森林が国土の70%を占める国は先進国の中では特出しています。
さらにその森林は火山活動によって形成され火山灰による豊かな土壌に恵まれた再生可能な森を形成し、さらに温暖化による海進によって水位が上昇しリアス式海岸や平地が海に沈んだ漁礁を作り出したのです。日本の海産資源は同じ海浜地域の地中海と比べ25倍もの生産力を保有しています。
縄文人は前期から中期には海浜地域に集結し、この時代の遺跡は見事に海岸線に並ぶ事になります。また、湿潤な気候と森からの清水は植生を豊かに形成していきます。
縄文時代の採取生産はこうして海浜地域から始まりました。
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豊かな日本の森とその辺縁部は、多様な堅果・果実、ヤマイモ・サトイモ・カタクリ・クズなどの根菜類、それに数多くのキノコや山菜類を生みます。色とりどりの草花が咲き乱れ、涸れることのない湧き清水が無数にありました。清水が集まった川にはイワナ・ヤマメ・アユが泳ぎ、マスやサケが遡上し、川の流れ込む汽水帯をはじめ、リアス式海岸や周囲の海からは魚介類・海藻類が豊富に獲れました。
われわれの先祖は、こうした環境風土の中で早くから定住し、狩猟→遊牧の民に襲われることなく、採集と漁撈を中心とした平和な生活を行い、情感に溢れたその資質をいかんなく伸ばしてきました。果たして世界中にこのように恵まれた国があったでしょうか。長らくこうした風土にあれば、「日本の常識 世界の非常識」と謂われる日本人のメンタリティが醸成され固定化していったとしても決して不思議ではないのです。

森の生成と豊富な植生、汽水域の魚介、海草それを元に定住化していったのが縄文人でした。定住化の明確な開始は遺跡上では信州では8000年前、最古の定住遺跡は南九州の上野が原の9000年前に遡ります。これらの定住化は凡そ温暖化が始まった時期に符合します。この定住化をさらに進めたのが土器技術の開発、拡大です。
縄文早期には既にあく抜きや煮炊きができる土器を備えていた縄文人は多様な自然資源を食料として取り込むことにも成功します。この時代の縄文人の食生活は現代人のコメをどんぐりに、肉を魚介に変えただけでかなり豊かな状況にあったようです。
しかし温暖化で恵まれていたのは約5000年前までで、その後縄文時代の約半分の期間は寒冷化により現在より1度から3度低い時期を迎えます。
すでに定住し関東から北に適応していた縄文人は寒冷化してもその地にとどまり続けます。雪や寒さに閉ざされる冬は塩や乾物の技術で乗り越えていきます。東北地方の縄文人は一部狩猟生産を復活させ、北海道では比較的豊かな海獣などの肉食を主食することで採取と狩猟を並存させていきます。
また、寒冷化によって海水位が10m以上も低下し海底が地上に現れる事になり、しばらくは植生のない海岸線が何キロも続き、海岸線は居住できない状態になります。
縄文中期から集落は湿地帯となった海岸線を離れ、内陸へ移動していくことになります。
ここでも縄文人は大きく生業を変えることになります。それまで海の資源に半分くらい依存していたのを諦め、ドングリやクリの管理・維持栽培(=半栽培)などの植物食と陸上動物(イノシシ、シカ)、河川魚類(サケ、マス)の狩猟・採集生産を中心とした時代に移行します。集落規模も寒冷化に向かったこの時期には小さくなり、いくつかの小規模な集落がネットワークで繋がるように変化していきます。⇒参考投稿「著書『縄文「ムラ」の考古学』からの新たな視点」
さらに元々食料源としての植生が豊かでなかった西日本照葉樹林地域では寒冷化がピークになった3000年前に渡来民によりついに稲作技術が全面的に持ち込まれます。中国からという説と朝鮮半島を経由したという説がありますが、すでに6000年前からイモや陸稲などの栽培生産を補助的に生産していた西側地域にはそれほど抵抗もなく、また急激な寒冷化から必然的に転換していったとされています。
このように縄文時代の生業は大きく3つの段階を経て農耕中心の弥生時代に移行していきます。そして当然ですがその時々に気候変動の影響を受けているのです。
①狩猟生産時代(1万年以上前)・・・・寒冷期
 非定住、巨大動物が食料源、集団規模は小さい
②採取、漁猟生産(8千年前~5千年前)・・・・温暖期(縄文海進)
 定住化、居住域は海浜地域中心、集団規模は大きい、人口増大
③採取、栽培、漁撈、狩猟生産(5千年前~3千年前)・・・・寒冷期(縄文海退)
 居住域は内陸地域中心、集団規模は小規模化するが各集団はネットワーク化される
   食料事情は悪化、栽培生産への移行、人口減少
④稲作技術の渡来、拡大(3千年前~)・・・・・寒冷期
   大陸に近くて食料の乏しい九州地方から伝播⇒拡大、人口増大
②⇒③への移行期が一番厳しい外圧状況であり、この時期に集団規範や男女規範は作られていったのではないかと思われます。
さて次はいよいよこのシリーズの核心部分に迫っていきます。
縄文時代の集団規範って何だったのでしょうか?今の私たちにつながるものその中から見えてくると思います。お楽しみに・・・。

投稿者 tano : 2010年04月09日 List  

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