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2010年04月07日

幕藩体制→参勤交代制が可能にした江戸時代の経済発展

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズも11回目を迎えました。
中央集権体制から法体験体制への移行期=中世を経て、江戸時代の幕藩体制が確立します。
徳川幕府が築き上げた幕藩体制は、「地方分権」と「中央集権」を兼ね備えた優れた統治システムでした。幕藩体制は江戸250年の安定と平和をもたらしただけでなく、鎖国体制下での経済発展を成し遂げる基盤となりました。
鎌倉時代の封建体制→戦乱→江戸時代の幕藩体制へと移行して行ったのは、なぜなのか?
江戸時代の経済発展は、なぜ可能だったのか?

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■中央集権体制から封建体制へ
飛鳥時代~奈良時代に誕生した律令制・中央主権国家「日本」であったが、平安時代を通じて形骸化し、中央集権的な国家統合が破綻を来たす。平安末期には地方武士団が台頭し、鎌倉時代の封建体制へと移行していった。
平安時代、大陸からの圧力が低下していたにも関わらず、中央軍を維持する費用に苦しんでいた朝廷は、中央軍を縮小し続けていた。地方徴税官は、のし上がり権力を手にする為に、武装化し始め、「武士」階級として権力に食い込んでいく。それが平氏、源氏の台頭だった。その権力志向から朝廷貴族になった平氏は源氏によって打倒される。次に実権を握り幕府体制を引いたのが源氏であった(⇒鎌倉幕府)。
鎌倉幕府体制においては、徴税権を中央から地方に張り巡らし、地方の財を中央に集中させるということはしなかった。中央集権制が持つ構造的な欠陥(地方徴税官の腐敗)を抑止できないことが分かっていたのだろう。
そこで、鎌倉幕府は、武士ごとの自治権を認め、支配地域の徴税権を全面委譲、そして中央主導で行わなければならない事業については、地方武士に役割を振り分け、彼ら自身に(人件費・材料費などの)出費を担わせることで遂行した。いわゆる、封建体制の確立である。
■戦国時代→幕藩体制の確立
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http://teppou13.fc2web.com/hana/itijo/FUJIKAWA/gif/1_ouninnoran.jpg

地方の徴税ネットワークを基盤に市場発展を達成していた中世日本では、地方都市の発展を目覚しかった。だから、地方自治権を認める封建体制においては、地方都市の経済発展を基盤として、各地方武士が力を付けていく。そして、発展し続ける地方武士間の闘争圧力が高まっていった。そして、京都での戦争を契機に、日本列島全国で戦争が頻発する戦国時代に突入していく。
戦国時代は私権獲得のチャンスが無限に広がることになる(下克上)が、不安定な状態が続くことになる。人々の間に安定を求める意識が強まり、統合期待・統合気運が上昇していった。この統合気運を受けて地方国家連合を組織する大名が登場し、ようやく150年続いた戦国時代が終わりを告げ、徳川幕府による幕藩体制が成立する。
■地方分権と中央集権を両立した幕藩体制
もともと地方を治めていた大名の連合体として成立したものだったため、徳川の幕藩体制においても各大名に地方自治を任せる体制を取った。
江戸幕府の統治は、将軍と大名(1万石以上の武士)との主従関係に支えられていた。そして、大名の所領と人民とその行政組織を合わせて「藩」と呼び、大名は、それぞれの藩の統治をまかされて、将軍に忠誠を尽くし軍役の義務を負っていた。このような主従関係をもとに、幕府と藩とで全国の土地と人民を治める体制、これが幕藩体制であり、江戸幕府の統治の基本的な仕組みだった。
3万石以上の大名は城を持ち、実質的に一定の機能を持つ都市の統治を行っていた。彼らは、城下町を含め広範な自治権を持っていたが、行政権のみならず、立法権、司法権、徴税権をも併せ持つ非常に大きな権力だった。現在では所得税は国税として中央政府に納められるが、当時は基本的に幕府が藩に税金をかけることはなく、藩は自分の領地からの年貢は全て使うことが可能だった。
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http://blog.goo.ne.jp/nande_ya/

しかし、それだけでは各大名間の争いが強まり、戦国時代へと逆戻りする可能性が高い。そこで徳川幕府は、大名に国許での広範な自治権を認める一方で、参勤交代という制度を課していた。1635年から始まった参勤交代制によって、大名達は一年を江戸、一年を国もとで過ごすことになった。
また、中央で必要な公共事業は大名が担った(天下普請)。これは戦時の軍役と同じ扱いで、必要な資金・人員のいっさいを大名の石高に応じて供出させ、工事・役務を行わせるものだった。
幕府は、地方の大名に独立した権力を与えるという「地方分権」と、参勤交代や強い監視による「中央集権」という両面から非常に効果的な統治をしていたことになる。だから、全国の四分の一を天領とし、巨大な力を持っていた幕府であったが、力を振りかざし好き勝手に横暴すると言うこともなかった。お家取り潰しに置いても、重視されたのは幕府に反抗的かどうかではなく、統治能力のある大名が治めているかどうかであった。
■幕藩体制と江戸時代の経済発展
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http://www.jmrlsi.co.jp/menu/mnext/d01/2006/meti200606_01.jpg

参勤交代を含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の5,6割を占め、大きな負担となった。大名達は国もとの米を売り払って、貨幣を得て、それで江戸屋敷の生活費や諸経費を支払った。殿様に随行して地方からやってくる大勢の家臣団も、江戸での消費需要を盛り上げ、町人層を潤わせ、市場経済が発達して行った。
大名が宿泊する宿場町、宿場町の周辺産業、物資の輸送を請け負う商人、それぞれが潤うシステムが出来上がり、資本の還流を通じて市場が拡大して行く。特に、各大名が江戸という「一箇所」に「純粋な消費者」とした集中すると、その需要が生み出す経済効果は計り知れないものがあった。
天下普請のための石材など資材の運搬、さらに動員した家来や土木作業員の食糧供給のために水運が発達した。また江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、日本全国から酒、醤油など多種多様な物産が水運で運び込まれるようになった。 上方の物産を江戸に運ぶために、大阪と江戸の間の民営の定期航路が発達した。二つの組織がそれぞれの定期便を運航して、明治に入るまで、競争を続けた。また江戸時代以前に確立していた北前船(大阪と日本海経由で北海道を結ぶ)、西廻り廻船(大阪と瀬戸内、九州を結ぶ)と合わせて、日本列島全体を結ぶ民間による定期商業航路が完成した。
■まとめ
現代でも、「中央集権か地方分権か?」は、政治体制を巡る大きな命題の一つだが、現代では金の分配比率のことだけが問題になることが多い。つまり、中央が吸い上げた資金を、どれくらい地方に還流させるかという問題となる。
しかし、江戸時代は藩ごとの自治を最大限認め、中央で必要な事業を彼らに直接担わせるという体制を採っていた。このため、地方都市の発展も目覚しく、地方都市の発展と江戸の発展が並行して進んでいった時代だったと言える。
(by ないとう)
シリーズ投稿過去記事
『ポスト近代市場の可能性を日本史に探る』
新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(前半)
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(後半)
古代日本外交史 ”主体的”外交への転換
神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った
日本古代市場の魁=修験道ネットワーク
宮廷サロンをつくった商人とそれを支えた受領
中央集権から封建制へ(武士の台頭)
中央集権から封建制へ(農民の武装化と地方市場の拡大)
中世市場をリードした「堺」の武器と茶の湯

投稿者 staff : 2010年04月07日 List  

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コメント

アーリア人は聖なる人という意味でインドの地にアーリア人と呼ばれる遊牧民族が定住してから呼ばれるようになったそうです。ですからアーリア人がインドに来たというより、中央アジアの遊牧民が寒冷化に伴い各地へ移動した一派であると考えたほうがよいでしょう。
そういう意味では民族的結束は専ら遊牧民族的家族、氏族単位であったことがわかります。特にインドに来た一派は何重にも山脈を越えて来ており、同様にこの時代にヨーロッパに定着したトルコ系の遊牧民に比較すると厳しい陸路を選択した方の民という事になります。
インドのアーリア人が当初、現地民であるドラビダ人と戦乱を起こさず、融合する選択を選んだのは私権性としてまだ緩いほうの負け組みが登場したからではないかと考えてみました。
いずれにしても3500年前に到着し、その後のインドの歴史の中心に上り詰めたアーリア人とはどのような思想をもった民族なのか?ここはインド哲学を分析する上でも非常に重要な視点になると思います。

投稿者 tano : 2010年6月27日 11:57

>アーリア民族は、ある時期(前1700年頃)、人口の増加、あるいは干ばつ等、その他の理由で原住地の草原を出て、他の地方へ移住を開始した。 若干の部族は西方へ向かったが、ついにヨーロッパに定住し、現在のヨーロッパ諸民族となった。 また、他の諸部族は、東方へ向かって移住を開始した。・・・・・・・ここに住んでいた諸部族を総称して、インド・イラン人という。
このいわゆるアーリアン学説には、疑問が提示されています。
かってイギリスによるインド植民地化に符号するように欧州の学者によって提唱されているおり、イギリス人はかっての支配部族アーリア人と同種だからインドを支配しても良いという論理につながるからです。
確かにインドの原住民を神観念(バラモン教)で支配した支配部族はいたと思うのですが、それがヨーロッパ人と同祖なのかというとそこは、かなり疑わしいと思います。ヨーロッパ製世界史の一種、イギリスの得意な文化プロパガンダの一種の臭いがプンプンです。
参照「アーリアンとは何か」津田元一郎
そこを除けば、恐らくイラン人と同祖の支配部族は存在したのは確かだと思います。彼らはカスピ海脇の豊かな草原から荒地のイラン高原に押し出された負け部族かもしれませんね。

投稿者 Hiroshi : 2010年6月27日 22:57

☆tanoさん
わかりやすく、まとめてくださり、ありがとうございます!
引き続き、インド哲学を追求していきましょう!!

投稿者 jomon : 2010年6月29日 21:44

☆Hiroshiさん
確かに、いわゆるアーリアン学説には、疑問が残りますね。
ただ、言語だけをみると、ほとんどが似通っているのも事実であり、言語学的には同一の系統ではないかと思われます。
血統は違う可能性が大きいですね。
なんせ、中央アジアから今のギリシャの辺りにいた様々な遊牧民を総称して、インド・ヨーロッパ語族と呼んでいますので。
その遊牧民同士での交易に使われた言語が、同じだったというだけだとも思えます。
そして、その中での争いの結果、負け組みになった部族が、インドに流れ着いたのではないでしょうか。

投稿者 jomon : 2010年6月29日 22:01

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