「江戸時代は縄文の再生」~6.“商人気質”とは、社会の当事者としての気概の表出 |
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2013年09月26日
「江戸時代は縄文の再生」7~国学とは『縄文の心の学(まなび)』
今年はちょうど式年遷宮にあたる年ですので、伊勢神宮にお参りされた方も多いかもしれませんね。
さて、この伊勢参り、江戸時代(特に中~後期にかけて)に大流行しました。
こちらよりお借りしました。
なぜ流行したのでしょう?
それは江戸の民の熱心な信心からというよりは、その中心は見聞を拡げたい、外の世界を見てみたいといった人々の意識の表れでした。江戸時代の社会の泰平、それによって誰もが安全に旅ができるようになり、また経済的ににも一定程度余力ができた庶民が外へ動き始めたのです。
さて、このお伊勢参りが大流行した江戸中期以降、同じように広く庶民にまで広まった学問があります。・・・・・それが国学でした。
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既存の学問では答えにならない!⇒旧観念無用⇒探索から国学へ
では、国学が盛んになった江戸中期(1680年~1800年)とは、どんな時代だったのでしょうか?
江戸中期は、平和・安定した世の中が人々にとって当たり前になってきた時代であり、農業技術の上昇により生産力も高まり、市場が拡大していきました。また、幕府による参勤交代制度により地方と中央の交流が盛んになると、地方同士の情報も広く交換されるようになり、人々の視野は村や藩に留まらず、広く【社会】へと向います。そこでは当然、より皆に役立つものや認識を求める期待圧力=それに応える創造圧力が働くようになりました。
しかしながら幕府は秩序を維持する目的で、中国から輸入した儒学(特に「下の者は上の者に従うべき」と説く朱子学)を積極的に奨励しています。
もともと儒学は、中国での戦争状況を前提とし、それらを制御し秩序化するために作られた観念したから、儒教が説く「忠孝」といった既存の規範郡が、戦争と無縁で安定した江戸中期の人々にとっては遊離したものになっていました。また一方で、出版技術の発達もあり、ある程度の情報が、庶民の元に届くようになり、寺子屋の発達も相まって大衆の知的レベルが上昇、庶民がモノを初めて考え始めるようになります。
経済的な余力も後押しをし、一気に庶民の探索欠乏が上昇してきたのが江戸中期でした。その中で農学や和算、医学などと併せて国学もまた自然発生的に起きたのです。しかし、農学や医学といった実を伴う学問に比べ国学はやや様相が違っていました。
潜在思念から観念の再生へ
では国学は何を追求をしていったのでしょうか?それまでの朝鮮、中国からの与えられた思想を離れ、日本独自の思想を探る為の学びが国学でした。
国学が拠り所にしたのは、漢字が入り込む以前の世界の言葉(=古語)です。その古語をどのように探求したのか、国学の四大人(しうし)の紹介をする中で見ていきます。
こちらよりお借りしました
★荷田春満(かだのあずままろ)(1669~1736)
歌学にとどまらず、「古事記」「日本書紀」など古典古語の研究を通じて国学を振興すべきことを説きました。古語研究を始めて提起し、国学を起こしたのが荷田氏でした。
★賀茂真淵(1697~1769)
江戸の町人に国学を広めた人で、主に『万葉集』の研究に取り組みます。古歌の研究の重要性を主張し、古語を明らかにすることによって古代の精神(古意)を知り、儒教や仏教が伝来する前の古代日本人の固有の道(古への道=古道)をとらえていくのだと説き、仏教や儒学を批判しました。
真淵は古語研究の目的が既存の渡来学を否定し、日本古来の考えを模索しようとした第一人者でした。
★本居宣長(1730~1801)
『古事記伝』『源氏物語』や和歌の本質は「もののあはれ」=しみじみと思う心にある。「漢心(からごころ)」を捨て日本古来の心に帰るべきと主張し、万葉集や祝詞などの古語を手がかりに、古代人の心情や想像力の世界に入り込んで古の心のままに「古事記」を読み解きました。
本居は古語研究から日本人の心の在り様に踏み込んでいきます。
★平田篤胤(1776~1843)
神・天皇を崇拝する心を大和心とし、これが日本人固有の「真の心」であると言います。古典を自ら再編成し、死後の世界を追求した『古史成文』をまとめ、その注釈書『古史伝』を書きました。また幕末には、その天皇中心の国粋主義的部分が強調され、尊王思想へも影響を及ぼしていきます。
篤胤は本居の思想をさらに固定化、縄文由来の和の精神を大和心として定着させます。
以上のように、国学の四大人は「他国からの借り物では無く、自ら物を考えよう!」と主張し、その際の起点は、漢字が入り込む前の古語や大和心だったのです。
国学が拠り所とした大和心とは?
では彼らがより所とした大和心とはどういったものでしょうか?近年になって大和言葉の研究がなされる中で明らかになってきた事がいつくかあります。その中身を紹介しながら考えてみたいと思います。
漢字が伝わる以前からわが国で話されていた言葉が「大和言葉(和語)」です。大和言葉は縄文時代からもともと日本で話されていた言葉でいわゆる漢字の訓読みに相当します。
大和言葉は自然発生音がベースになっており、言葉が古くはコトノハと呼ばれていたように一音一音に意味を持っていました。コは凍る、固まる。トは止まるといった留まりを表し、ハは晴れる、放つといったように
外に出て行く様子を表しています。つまり思いや考えといった心の中に留まったものを外に発したのがコトノハの語源であると研究者の林英臣氏は説いています。言葉とは生命の発露や魂のほとばしりであり、大切に使われていたのです。
また脳学者の角田忠信氏は日本人だけが虫の声やせせらぎといった自然音と言語を同じ左脳(言語脳)で処理している事を発見しました。
この自然音を言語として処理する、あるいは言語を自然音と一体のものとして発達させていったのが縄文人であり、大和言葉だったのです。この日本語の中にこれらの古代の意図を発掘していく事が彼ら国学者が行った大和心の解明であり、発見だったのでしょう。
国学が拠り所とした古の心とは、まさに縄文の言葉=縄文の心そのものだったのです!
江戸時代の国学者は、自身ではそれほど大きな成果は出しませんでしたが、その根幹にある「縄文の心」の追求が現実を突破する何らかの可能性であると既に捉えており、明治以降の考古学の登場をもって論ずる縄文解明に影響を及ぼす事になったと思われます。
素人の追求、その拠り所は歴史事実、自然史観!
当時は国学だけで生計を維持できなかったのもあるでしょうが、医者である本居宣長に代表されるように、学者であっても、何がしかの本業を担いつつ追求を続ける「素人の追求」でした。それゆえに、潜在思念に声を傾け、既存の儒学や仏教への違和感を逃すことなく、自ら考えようとしました。そして、そのときの拠り所は、歴史回帰=事実追求、先人が培ってきたものに触れ学ぶ心、つまりは縄文人の本源性、万人に通じる心の有り様でした。だからこそ、その探索・追求は学者層に留まらず、広く庶民も巻きこんだ潮流となり、地方で郷土史を追求する者達がその後、数多く現れることとなりました。江戸時代に既に2000人の国学・郷土学の徒がおり、その潮流は、後に柳田国男の「民俗学」へと引き継がれていきます。
改めて、この江戸の国学への傾斜とは何を示すのでしょう。
日本人は、古来より外圧が高まり不全感が生じると探索回路が開き、歴史に学び、先人に倣うことで突破口を見い出してきたのではないでしょうか。国学が隆盛した時代は、新たな認識や捉え方を求めて模索する収束不全の現代にも通じるものがあります。現代の歴史追求(=事実追求)の流れもまた300年前に丹念に歴史を調べ、そこに何らかの源流を求めてようとしていた素人の追求が発露しているのかもしれません。
投稿者 tano : 2013年09月26日 TweetList
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