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2014年03月05日

日本の帝王学~各時代における支配者層の教育とは?~ 5、江戸時代の武士道教育

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写真はこちらからお借りしました。
  
  
前回は、室町・戦国時代の帝王学をお届けしました。
室町・戦国時代は、闘争に次ぐ闘争により私権獲得だけを争っていた時代、統治者である武士が民を一方的に押さえつけて支配していた時代だと捉えがちですが、それは西洋の歴史を範とした間違ったイメージ、現実とはかけ離れたイメージであることが、前回の追求で分かりました。
戦国時代の統治者は、「惣村」や「国人」などの共同体組織の基盤や権利を護り調整することによって領国を統治するのが役割であり、領民からの期待に応える存在だったのです。
戦国時代の動乱期を経て、江戸時代は一転して戦闘の無い、安定・秩序化の社会作りに邁進していきます。
その中で武士たちは戦闘という役割を失う代わりに、統治者として領地や民を治めることを第一の責務としていきます。
江戸時代に確立した「武士道」は、正にそのような中で形成されていったのです。
今回は、「武士道」とはどのようなものなのか、、そして武士道に則り人材を育てていった「藩校」教育を通して、江戸時代の帝王学を探求していきたいと思います。
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それでは最初に、戦国時代から江戸時代への社会の変化、江戸時代の統治者が置かれた状況を見てみましょう。
先ずは、領地と統治者の関係です。

江戸時代の幕藩体制
江戸時代の「藩」は、大名がその領地を占有し、領地内の士農工商を支配して生産物の多くを税として取り立て運用し、藩内の自治運営の一切を徳川幕府から委託された組織体である。平たく言えば、大名は、徳川幕府から土地の支配を許され、年貢取り立てを幕府から依頼された存在であると言える。従って大名と言えども、領地内の土地を勝手に他藩へ売ったり譲ったり出来ないし、幕府が決めた石高を変更したり、藩主を変更したりなどと言うことは当然許されていなかった。それどころか、藩主及び藩は、幕府からのあらゆる規則でがんじがらめに縛られ、僅かでも違反したり届け出を怠ると、たちまち改易や取りつぶしのリスクを負っていた。
 戦国時代の領主は、領主自らが己の力で勝ち取った土地がそのまま領地であるから、領主が当然領土を支配し、年貢はそのまま領主のものであったが、江戸時代には、日本の領土は原則的に徳川幕府がその全てを支配しており、大名に領土を預けるという制度を取った。そのため、幕府は大名が幕政に反対したり、悪政を施したり、藩内支配運営に失敗したりすると、簡単にお家取り潰しができたのである。
(中略)
百姓一揆は、すなわち政治の失敗であることから、幕府に知れるとお家は取り潰しになる。それ故大名は領地内の一揆は領地内で収拾するため、首謀者を厳罰にする事が多かった。概して、名君の出た藩では一揆は起こっていないようだ。江戸時代の大がかりな一揆としては、「郡上一揆」が有名である。江戸時代の宝暦年間 (1751~ 62)、現在の岐阜県郡上郡の農民を中心にひきおこされたこの騒動の結果、老中はじめ幕府指導者数人も免職となった。
(中略、引用終わり)

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写真はこちらからお借りしました。  
  
  
統治者は、常に幕府から監視・評価されており、領国内の民を無視した圧政は自らの破滅に繋がりました。
社会の安定化・秩序化を第一とした徳川幕府は、各国の統治者が私利私欲で暴走するのを防止すること=統治者が民の共同体維持を保証することであり、幕府の安定=社会の安定をもたらす社会システム構築が最重要課題だと考えていたと思われます。
  
また、江戸時代に安定化・秩序化をもたらしたもう一つのシステムとして、世襲制が挙げられます。
  

実力主義の戦国時代から世襲制の江戸時代へ
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将が活躍する戦国時代は、己の知恵と力によって周りの競争相手を倒し、天下にのし上がっていく生死をかけた実力主義の時代であった。身分・家柄・血統というものがほとんど価値を持たず、己の知恵と実力だけが頼りとなる。
戦国時代は、実力のない者が人の上に立つことを許さない厳しい社会である。
(中略)
そして、戦国時代の実力主義を代表する最も有名な人物が豊臣秀吉である。彼は織田信長の足軽身分の出であったが、己の知恵と機知と実力で天下獲りを果した。戦国時代は旧来の価値観や伝統が崩れ、己の知恵と実力がすべてを制する完全な実力主義の時代である。
ところが、関が原の戦いに勝利して徳川幕府を開いた徳川家康は、下克上に代表される戦国時代の実力主義の価値観を否定して、士農工商の「身分制」と身分・家格(家柄)の「世襲制」を、社会を安定させる支配秩序の中核とした。
実力のある下位の者が上位の者を倒してのし上がる“下克上の実力主義”は完全に否定され、士農工商による身分制度が固定され、しかも身分と家格は代々世襲されるものとした。徳川時代になると、社会の価値観はそれまでの実力主義から世襲主義へと180度転換したのである。とくに社会が安定してくると、実力主義は支配秩序を乱し、社会を混乱させる要因として否定されたのである。
江戸時代の世襲制、とくに武家社会では士農工商の身分制と家格(家柄のランク)の世襲制が二本柱になっている。
武士の家柄に生まれたものは代々武士となり、農民に生まれたものは子々孫々農民にしかなれなかった。江戸時代には、武士が百姓になったり、商人が武士になったりする極端な「身分階級の移動」が禁じられていた。
(中略、引用終わり)

  
  
農民はずっと以前から自分たちが生きる共同体を維持し、その後、村や惣を作って自治社会を形成してしてきました。
一方武士は、戦国時代以降に武士と農民が役割分化した直後は私利私欲で暴走することもありましたが、徐々に領地を護ると共に社会を統合する役割を自覚し始め、役割を担っていきます。
さらに江戸時代からの武士は統治者・家臣団の世襲制により、武士団という共同体的集団を強固に形成していきます。
江戸時代という安定化・秩序化を第一とした社会において、領地の維持・お家の存続という私権闘争を闘うために、武士たちは「お家」という武士による共同体社会を形成していったと言えるのではないでしょうか。
江戸時代が270年続いたことからも分かるように、「お家」の安定による社会の安定、共同体の維持を誰もが望んでいたのであり、その体制は時代的に極めて合理的であったのだと思います。
江戸時代とは、武士も、農民も、社会全体が共同体化していった時代だったのではないでしょうか。
そして、そのためにこそ「武士道」が形成されていったのです。
武士道とはどのようなものなのでしょうか。
  
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写真はこちらからお借りしました。
 

武士道
武士道というのは、武士の社会の中で形成された行動の規範でありルールのことである。ただし「武士道」という言葉も、思想としての内容も、それが明確な形で歴史のうえに登場してくるのには、徳川時代を待たねばならない。
 それ以前の中世・戦国時代においては、それらは「弓矢取る身の習い」とか「弓矢の道」と呼ばれていた。武士は、その発生時には騎馬・弓射という戦闘スタイルをもった専門戦士として認識されていたことから、そのように表現されたのである。
 では「弓矢取る身の習い」、「弓矢の道」はと言えば、それは戦いの場において武士がわきまえておくべき作法であり名誉の観念に他ならなかった。戦場において正々堂々の戦いぶりを示し、敵の放つ矢玉をかいくぐって敵陣に一番乗りを果たし、なみいる敵を相手に天晴れ武勲・戦功をたてることをもって第一の名誉とした。
(中略)
 しかしながら、徳川時代は武士が支配する時代でありながら、実に200年以上にわたって内戦もなければ対外戦争もまったく無いという、完全な平和を達成することになるのである。日本史上のみならず、世界の歴史を見渡しても実に稀有な完全平和の時代と言ってよいだろう。
(中略)
 このような持続的平和の時代の中で、「武士道」の内容は、単に武勇、勇猛一辺倒では不十分であり、領国を統治する治者、役人としてふさわしいような徳義を兼ねそなえたものでなければならないとする論調が次第に優勢となっていく。
 一七世紀の半ばに出版された『可笑記』という題名の武士教訓書では、武士道の心得として、嘘をつかず、軽薄でなく、佞人でなく、胴欲でなく、無礼でなく、高慢でなく、誹謗中傷することなく、人との間柄も睦まじく他人を称揚し、慈悲深く、義理がたいことを肝要とし、単に命を惜しまぬ勇猛一辺倒では、良い侍とは言われぬとされている。
 このように人格的な陶冶の精神が充溢していく中で、武士道の重要な要素であった「忠義」ということの内容も大きく変容し、深化していく。戦国時代から江戸時代の初め頃の武士道や忠義というのは、家臣が主君のために有利となるように取り計らい、走り回り、そして、主君の命令に無条件に服従することと考えられていた。
(中略)
 すなわち自己の信念に照らしてどうしても納得の行かない命令であったなら、主君に向かって、どこまでもどこまでも「諫言(諫め)」を呈して再考を求めるべきであるとするのである。そして更に進むと「主君の御心入を直し」、「御国家を固め申すが大忠節」というような表現も登場してくる。
 もし主君が誤った考えにとらわれ、理不尽な命令や行動をとるようであるならば、そのような主君の間違った性根をたたき直して、「国家」すなわち藩とお家を堅固になるように行動することが大忠節だとする。たとえ主君の命令であっても悪しき命令に唯々諾々と無批判に従ってはならず、むしろ主君の間違った心構えを正しい方向にもっていくように奮闘努力することこそ大きな忠義であるという議論を展開しているのである。
(中略、引用終わり)

武士道とは
・義とは・・武士道の礎石であり、人の道であり、道理に従ってためらわずに決断する力。
・勇とは・・勇気であり、忍耐。生きるときには生き、死ぬべきときにのみ死ぬこと。義のために行われるものである。
・仁とは・・慈悲の心。常に至高の徳であり、もっとも気高きものである。武士の情け。
・礼とは・・仁・義を形としてあらわしたもの。礼は、他を思いやる心が外へ表されたものであるべきである。
・誠とは・・誠実さ、武士に二言はない。とは誠があるために、本物の武士は嘘をつかないことが命よりも大切だとしていた。
・名誉とは・・命以上に大切な価値。武士は高潔さに対する恥辱を恥とするよう気持ちを持ち続けた。「名を汚す」などは、命と引き換えにしても守らなければならない。
・忠義とは・・主君に対する服従や忠誠の義務。

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人の上に立ち、領地や民を治める統治者として最も大切なことは、「様々な共同体を調整し、共存させ存続させていくこと」であり、そのために必要な規範をまとめたものが「武士道」であり、『義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義』だったのではないでしょうか。だからこそ、自らが属する共同体である「お家」のトップが共同体全体の利益に反して暴走した時には、社会全体の統合を優先して命をかけて闘うことが善しとされたのだと思います。
  
  
そして、このような武士道を教育していったのが、江戸時代、各藩に設けられた「藩校」でした。
「藩校」とは、人の上に立ち社会を統治するものとしての心得を教育する、まさに江戸時代の帝王学を教育する場でした。
それでは、藩校における教育の中身をのぞいて見ましょう。

藩校における学習内容・方法の展開
藩校は、武士の子弟の教育機関であり、儒学を主とする漢学を中心に、学問を修める学校である。武士の子弟に対して入学を強制した藩が多く、一部には平民の入学も許容され、とくに維新以後その数を増している。
入学および卒業の年令は一定せず、その機能・性格もことなっているが、七、八才での入学が多く、とくに寛政期以降、初等教育場を併設した藩校がふえている。卒業年令は、三分の二近くが二十才以前であり、十五才までとしている場合も全体の29%におよんでいる。
(中略)
藩校において文武兼修が目的とされたが、それは戦乱の時代が終わり、大名が地方官としての性格をもち、武士は武力のみでなく庶民の上にたつ治者としての役割を担うことになり、道徳的修養と結びついた文の要求が
増し、登用においても文の教養が重視されたことにもとづく。
とくに幕末体制下における危機への対応としての藩政改革において、人材の登用、武士の徳治への期待がつよまり、そのことが藩校の急速な増加をもたらしたとみられる。
文においては漢学が中心であり、とくに林羅山によってはじまり、寛政年代において幕府の直轄学校とされた昌平校が学校としての範型を示し、また各藩からの人材の学習の場として、藩校の教師の供給をとおして各藩
に影響を与えた。
(中略、引用終わり)

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藩校では、儒教を基本として様々な学問を教えていたようです。
例えば、当時日本で最も優れた藩校と言われていた会津藩校「日新館」で教えていたのは、礼法方、数学方、神道方、皇学方、天文方、雅楽方、開版方、和学、医学、そして武芸でした。
これらは、教養を高めること自体が最終目的と言うよりも、人々の上に立つ藩士として相応しい人格を形成するための、道徳教育の一環だったと思われます。
各農村、武士団など、様々な共同体が共存できるよう、常に全体を見ながら立案し調整していく能力、知識。そして、力による支配ではなく、共認による社会統合ゆえに、その力を活かすには自らを常に律し、人々の範となる人格を形成する必要があり、義・勇・仁・礼など、武士道こそがその規範となって行きました。
さらに、江戸時代は商業も発達し、徐々に人々が私権意識を強めていく時代でしたが、人の上に立つものが個人的な私権獲得に奔走していたのでは社会を治められない、共同体の存続は不可能だと、当時の為政者は見抜いていたのだと思われます。
だからこそ、武士道、そしてそれを幼いころから教育する藩校が必要だったのです。
  
江戸時代の帝王学とは、突き詰めれば共同体運営を継続し、各共同体が共存できる社会を実現する人材を育成することだったのではないでしょうか。
さて次回は、明治時代の帝王学をお届けする予定です。
幕末~明治維新の新たな時代を切り拓いていった先人たちは、藩校で教育を受けた人たちでした。
明治時代の帝王学はどのようなものだったのか、維新の志士たちはどのような想いで明治時代を作っていったのか。
次回の探求をご期待下さい。

投稿者 sinkawa : 2014年03月05日 List  

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