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2010年05月05日

鉱山開発と三貨制度~家康はどのようにして近世管理市場を構築しえたのか?

みなさん、GWはいかがお過ごしでしたか?私は、農園のお手伝いに行き八十八夜の新茶を頂いてまいりました。お茶をいただきながらこのシリーズのまとめを書きつつ・・・一点、重要な問題にぶちあたりました。それは「家康はどのようにして近世管理市場を構築しえたのか?」という点です。
徳川幕府の特徴は「自然の摂理に沿った自自給自足経済、自然循環型社会」にあるが、この仕組みは「貨幣発行権を掌中に収め、金貸しの暴走を許さない国家管理型市場」という幕府の経済政策なしには実現できるものではない。そして、徳川幕府は実際に、金山、銀山の鉱山開発に注力し、海外の影響も受けない、国内の金貸し勢力に対しても優位なポジションを持つ徳川版管理市場をつくりだしたのである
そこで、今日は、まとめの前に、「家康の経済政策」について考察してみたいと思います。
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↑徳川幕府の力の源泉~金銀山敷岡図~佐渡市HPよりhttp://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/kingin/

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●中江戸時代、日本はマネー輸出国だった!
まず、徳川版管理市場の構築がいかに画期的であったか、について川勝平多氏の考察を紹介しよう。
http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2597.html より
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日本の貨幣は、江戸時代に至るまで、渡来銭に依存していた。渡来銭とは中国で公鋳された銅銭である。・・・平安時代に平清盛が福原に都を移さんとしたのも、室町時代に足利義満が中国皇帝に臣下の礼をとって朝貢したのも、それぞれ宋銭、明銭を得たいがためであった。その宋銭、明銭が日本の国内で通用した。日本は中国経済圏の一部であったのである。
ところが、江戸時代になると、様相は一変する。徳川幕府は金銀銅すべてを公鋳し、十七世紀末までに、輸入銭を日本国内からほぼ完全に駆逐したのである。それは日本経済史上の画期的な出来事である。
第一に、それは日本がついに経済的にも中国から独立したことを告げている。
第二に、注目すべきことに、日本は金銀銅の貨幣素材を一国内で自給し、かつ管理していたが、世界広しといえども、それができたのは日本だけである。ヨーロッパのどの国とて、貨幣素材を一国でまかなった国はない。
第三に中国では明代に銅の原料不足をきたし、清代にはその不足が深刻になり、日本銅への依存を徐々に深めた。ついに十八世紀初めの四半世紀は、ほぼすべて日本銅に依存する状態になった。
第四に、その不足を補って輸出された日本銅は、中国のみならず、広くアジア域内交易の交換手段として使われた。中国銅銭の流通していた経済圏に日本銅銭が入り込んでいったのである
第五に、日本銅は単にアジア域内で需要されただけでなく、オランダ東インド会社がアムステルダムへ運ぶというニュースが伝わるだけで、ヨーロッパの銅相場に影響した(もっとも、実際に運ばれたのはわずかで、大半はアジア域内で需要された)。
江戸時代の日本は、貨幣素材を国内で完全に掌握し、あまつさえ輸出にも回して、中国を含むアジア、さらにはオランダを媒介して世界経済にも影響を及ぼし得る地位に上昇転化した。それは日本がかつて銅銭を独占的に供給した中国の地位に並んだことを意味する。中国経済圏を凌駕する勢いで日本経済圏が出現してきたのである。
 
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江戸時代、日本はマネー輸出国だったというのは、「鎖国」のもうひとつの注目点である。勤勉革命による自給自足体制は、他方で、マネー輸出を可能とし、世界経済をリードしていたというわけだ。
●「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」で実現された徳川幕府の通貨統合
では、それまで渡来銭中心だった日本経済を、家康はどうやって変えていったのだろうか?ここでは徳川政府がとった「三貨制度」が重要である。これについては、るいネットの協働ブログである「家庭を聖域にしてはいけない」ブログさんが西川裕一さんという方の日銀レポートを紹介して下さっている。さすが、「家庭を聖域にしてはいけない」ブログさん、そして日銀である。http://blog.katei-x.net/blog/2007/12/000411.html 
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↑資料は日銀HPのQ&Aより~3つの貨幣の交換ルールを定めたことで、そろばんも大衆の間に普及していったのだそうです。http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_faq_sub2.htm
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江戸時代は、貨幣制度がそれ以前の主として中国の影響を受けた制度からわが国独自の制度へと移行した画期的な時代であったといわれている。すなわち、江戸幕府を開いた徳川政権は、中世から広く一般に用いられていた銭貨に加え、銀を秤量貨幣の形で導入し、さらに戦国時代からの鉱山開発の結果獲得された金を貨幣制度の中心的存在として位置づけたのである。
家康は、主要鉱山直轄による貨幣鋳造権の独占・掌握を実現し、金銀を社会資本としての貨幣に活用した。この豊富な金銀産出を背景に蓄積された金と銀、および銭貨とによって構築されたのが、三貨制度と呼ばれる江戸期貨幣制度であった。
中世末に銭貨流通がいかに活発化したといっても、銭貨中心では高額決済時に大量の銭貨が必要となり、貨幣経済の発展に限界が生じていた。こうした中、金や銀といった貴金属を素材とした貨幣の出現は、貨幣経済を飛躍的に進展させることになった。
わが国における中世から近世にかけての時期に、周辺地域では地金としての銀が国際決済手段として使用され、また銭貨もやり取りがなされていた状況にあって、わが国もこうした地域との交易を通じ、貨幣システムそのものにも影響を受けやすい状況になっていたのである。このため、徳川幕府は、中世後期におけるそうした東アジア経済圏の状況を眺め、国内の決済用通貨としては海外の影響を受けにくい金貨にその機能を求め、貨幣制度に組み込んだと考えられる
一方、家康が、金貨とともに徳川の貨幣制度に慶長丁銀・慶長豆板銀といった秤量銀貨を導入した背景についてみると、1590年頃から急速に発展した京都・大坂における銀遣いの状況が大きな要因となったと考えられる。・・・さらに、家康が銀遣いを認めてこれとあえて妥協したことについては・・・「庶民が豊臣と徳川を対等視するほどの豊臣贔屓だったからである。秀吉の遺産をもとに、秀吉の息子であった豊臣秀頼は依然として隠然たる力をもっており、そのような秀頼に心情的にくみすることの多い商人・町人層を、金貨の強制によって大坂方=敵にまわすマイナスを避けるとともに、公鋳銀貨を秀頼の膝元に流すことによって、大坂城内に備蓄された金銀の貨幣への鋳造に制約を加え、つねに天下が徳川のものであると警告し、無言の威圧を加えるという政治的配慮を優先させたことによるものである」(との説がある※縄文ブログ引用者注)
いずれにしても、家康は、当時経済活動の中心的な役割を果たしていた大坂経済圏の混乱を回避し、わが国の経済活動を安定成長の軌道に乗せることを最優先課題として位置づけて、当時地域的に用いられていた秤量銀貨の貨幣制度への導入を決めたのであろう。
(1615)年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川幕府が国内で絶大なる権力を握ることとなり、対朝鮮貿易や朱印船制度の確立などに成功を収めたことから次第に自信を深め、逆に中国を中心とした政治経済秩序の下に位置づけられるのを快しとせず、自らの正統性を主張するようになった。ただ、国としての対外的な独立を達成するためには、まず、東アジア経済圏の中で、徳川政権が日本の統一政権として認知されることが必要であった。このために、幕府としてはまず国全体を平定することが先決であり、武家諸法度や参勤交代制を制度化したのである。そして、こうした国全体を統制・制御するシステムが十分に機能することを見極めたうえで、初めて公鋳銭貨の導入に踏み切ったと思われる。このため、結果として30余年という長い調整期間を必要としたのである。span>
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よく家康の政治スタンスは「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」という川柳で表現されるが、徳川幕府の一連の経済政策、貨幣政策をみていくと、まさにその通りである。貨幣というものは(その邪心的な部分を捨象して捕らえ直すならば)人々の信用、超集団的な社会統合への欠乏をその成立基盤としている。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=86433
従って、管理市場をつくる場合でも、急激で力任せの制度改革では絶対うまく行かない。しかし、貨幣が持つ価値体系をしっかり構築し、使いやすいシステムを構築できれば、管理市場の構築は決して不可能ではないのだ。ポストドル基軸通貨を占う鍵も、そういう視点が必要であろう。このように近世管理市場に学ぶことは無限の可能性を指し示してくれる。
以上の、補強的考察を踏まえて、次回はシリーズのまとめをお送りしたいと思います。
(文責:怒るでしかし~)

投稿者 staff : 2010年05月05日 List  

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コメント

>闘争に勝ち抜く為の武器である「新しい認識」を「作り出す場」こそが、社会を統合する最先端機能を有する。
具体的には、どういった形で、どう広がっていくのだろうか?
新しい認識を作り出す場、得られる場は、
闘争場面などの否応無しにかかる圧力が高ければ、自ずとそういった場の必要性は高まっていくであろう(こちらの方は解かり易い)、一方で
充足基調の流れから、いかに充足の場を作り出すか、といった期待圧力がかかり、それに“答え”を出していく場合にも、“新しい認識”が必要であろう。
こちらの充足系の圧力だけでも十分、圧力を作り出していけるように思う。

投稿者 nishimu : 2010年7月29日 19:41

nishimuさん、コメントありがとうございます。
少々長くなりますが、疑問に答えたいと思います。
理想的には、現実の圧力がかかっている職場でもどこでも、認識形成が出来ることが好ましいと思います。
しかし新しい認識の形成と言うのは、問題の一面のみを見ているだけでは到底不可能だと思います。たとえば目の前の仕事の課題を表層的に捉えるのではなく、背景にある外圧の把握や、なぜそうなったのかを分析する必要がありその為には歴史構造にまで遡って分析し解明してゆく必要があります。
しかし、現実はそのような場が職場の中にはほとんどなく、学校にも家庭にもありません。
同様に、現実の職場と言うのは確かに現実の圧力に晒されていますが、その課題圧力がそのまま新しい認識形成の期待圧力とイコールになるとは限りません。
まず、今までの認識では答えが出ないという現状を認め、新しい認識の必要性に気が付く必要があります。
ですから、そういった認識の勉強の必要性に気付いた人々が自主的に行っている勉強会のような場に参加することで、新しい認識が形成され、構造認識が身について行くし、しいてはそこで身につけた構造認識を駆使して漸く誰も解明し得なかった問題の答えが見つかる。そこでの答えに普遍性があればあるほど、この新しい認識は人々の共認を得て、評価されてゆきます。
そうして、ここにくれば答えが見つかると言う評価が形成されることによって、認識形成の場が社会に対する統合軸となる。
こんな流れなのではないでしょうか。

投稿者 saah : 2010年7月29日 22:59

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