伽耶を知れば古代日本が見える7~天皇制の真髄: 私権原理を共認原理風に取り入れた制度 |
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2013年06月18日
東にあった「もう一つの日本」7~江戸時代で定着した東日本の優位
先の記事で武士の起源と初の東国政権、鎌倉時代を紹介しましたが、約200年の時を経て再び西側へ政権が移ります。室町時代で西側の商人が起した幕府です。
言わば武力中心から経済中心へ大きく舵取りが始まった端緒だったのでしょう。
しかし、これを東対西という構図で見ると武力で制覇力を勝ち取った東を西側が今度は経済力で奪い返したという見方もできます。朝廷の力は平安時代をピークに下がる一方でしたが、それでも江戸時代まで生きながらえた朝廷公家組織は時々の制覇力を背景に社会統合の要に就き続けました。
今回注目していきたいのが、再び東へ移った江戸時代です。
こちらよりお借りしました
江戸も鎌倉同様に西と東という対立構造で見ていくことができます。
江戸に幕府を開いた徳川は三河の武将でした。この尾張が東に政権を立てたというのも歴史的な綾を感じます。先の記事で尾張を扱いましたが、尾張・東海とは常に東でも西でもない中立の位置にあった存在でした。かつ尾張は市場、交易には滅法強く時々の政権に情報を売り歩き、裏でしっかりとその立場を獲得する存在でした。
江戸に由来のない徳川が赴き、江戸で260年徳川家が継続し永らえたのは、家康の眼力でも有り、東を抑える事が秩序を維持する上で何より重要という政治的センスから発したものだと思われます。
つまりこの江戸時代に至るまで東の日本の存在は健在でなおかつ威力をもっているものでした。鎌倉時代では武力で制覇しますが、江戸に入ると今度は経済力、大衆の共認力を武器にしていきます。室町時代に圧倒的な力をもっていた仏門を凌駕する大衆勢力を作り上げるには東に既にあった縄文人と渡来系高句麗人で作り上げたネットワークを支援し、そこに入り込む事を試みたのでしょう。徳川の凄いところは日本の歴史を弥生時代以前にまで遡って捉えたところであり、土着日本人の力を認めていたところです。
実際、家康の家系を見ればわかりますが、彼の出自は松平家に拾われた流民?の子です。何らかの東の血が入っていた可能性もありますし、何より武家や公家といった上流志向が比較的少ない人物だったのでしょう。
ただ、東に拠点を置いた勢力が260年継続したという事は事実で、さらにそれが弥生時代以降では始めてとなる、ほぼ戦争がない平和な時代だったと言うことも特徴です。また、江戸中期には国学を開き、古(いにしえ)の日本を復興させる文化を発展させます。
さらに江戸時代ではリサイクルが進み、いわば、縄文時代のシステムをそのまま復興させたような社会が作られました。これは徳川の才覚が作ったのではなく、東の日本を形作っていた人達がバックアップし、その中心に存在していた事を表しています。
江戸3大祭り~こちらよりお借りしました
こうして見ると、東にあった「もう一つの日本」の存在は江戸時代に至って初めて証明されたのかもしれません。江戸的なる物はすべからく縄文時代から温存され、東の地に潜伏してきた意識、文化が時を得て表出したとみる事ができます。
また歴史を俯瞰すると、縄文と高句麗が成したハイブリッドな日本が「東のもう一つの日本」の本質であり、西の公家中心の社会とはその成り立ちから一線を画していたのです。
最後にその視点でこのシリーズのこれまでの記事を振り返りながら日本での西と東の両極の在り様を見ていきたいと思います。
1.縄文晩期の関東は空白地だった?
2.弥生時代の関東は縄文だった
関東は縄文時代多くの遺跡が残っています。海岸線が内陸まで深く入り込んでいた関東の地形は漁労を営む縄文人が1万年に渡って住み続けてきました。縄文晩期の富士噴火で火山灰で覆われた過半の関東平野では稲作が進まず、弥生時代初期から中期まで縄文時代が継続します。逆にこの時代、台地に住めない人々が群馬県の山間部で集まり人口が増大、弥生人が入り込まない中、後の古墳時代以降に栄える関東日本国の基盤が出来上がっていきます。
3.高句麗の残影に怯えた朝廷(大和朝廷と関東日本国の関係)
既に近畿では大規模な農耕地帯が形成されていた4世紀に関東山間部では土着の縄文人に入り込み高句麗の拠点が形成されます。高句麗に脅威を抱いていた朝廷は、東のクニづくりの動きを知り数回に渡り、兵を派遣、5世紀からは東西の抗争が始まります。
ただ、この時期、大和朝廷が鉄剣を関東に奉納したことから、対等の勢力が既に関東に出来上がっていたことが伺え、それを高句麗と縄文人の融合した関東日本国と称していきます。
4.防人歌に込めた東国の魂~
やがて西の朝廷と東の関東日本国の関係は大和朝廷が治めるようになると、服属関係として東が西に組み込まれていきます。防人制度とはその過程においてまだ力を持っていた東の勢力を骨抜きにする施策として奈良時代以降続いていきます。防人の歌を詠んだ大伴氏が高句麗出自であった事からも、この時代において東国全般に高句麗の影響が残っていた事を示しています。
5.集団を守ったアテルイと縄文人の闘い
しかし、朝廷は東の勢力を根絶やしにする事はできませんでした。
それどころか、馬を操る東の勢力は武力においても西を上回っており、数回に渡る朝廷軍の攻撃に決して屈しませんでした。形だけでも制圧した事を成さなければならなかった朝廷は当時の英雄、アテルイ、モレを騙し、朝廷に連れ帰り処刑します。
武力、闘争においてはこの時代明らかに東>西であり、それがそのまま坂東武士の登場に繋がっていきます。
6.鎌倉幕府は武士による天下統一ではなく、東国の独立を全国に宣言したものだった~
平安時代後半に既に武士の位を得た平家の一人、平将門が関東で独立国家を打ち立てます。わずか2ヶ月後に同じ関東に居た朝廷の息がかかった武士に取り押さえられますが、この事件は長く東に渦巻いていた朝廷へ対立、独立の志を生み出しました。将門の乱から200年後に登場した鎌倉幕府とは実質上、東国が朝廷から独立した政治行動だったのです。
7.謎のクニ“尾張”の本質は「交易ネットワーク」にあり
これら、東と西の争いの中で地理的に中間に位置した尾張は、最初から両者に物資、人材を送る存在で、自らは表舞台に上がらずして、東西の対立構造を作り、常に時の優勢勢力に関与していきます。
それは尾張が海洋を交易する海人族出自で商人体質であった事を示しています。
また尾張には徐福に関する伝説や遺跡が多く残っており、尾張族は日本の権力者を裏で支配していた徐福ネットワークの後継者となっていた可能性があります。
徳川が尾張から出自し江戸に幕府を開き、日本を統合、大商いができたのはこの尾張の商人ネットワークと何ら関係している可能性があります。
さて、東を中心とした江戸時代は明治の到来と共に幕を閉じますが、この明治時代とはどのように見ればよいのでしょう。やはり東京に首都を置き、東日本を中心として発展して行きますが、それまでの西対東の構図ではなくなっていきます。
こちらよりお借りしました
それは西の勢力(天皇家)が丸ごと東へ組み込まれた事が象徴的ですが、大きな転換点は諸外国対日本という構図にようやく縄文体質の日本人が動き始めた時代であったという事です。その意味では明治時代に入って初めて日本国は一つになったという見方もできるでしょう。しかしこの明治以降の国際競争に勝利できた原動力や体力は江戸時代に再生した「縄文」があったのではないかと見ています。次のシリーズではこの“江戸時代は縄文の再生”というテーマで隠れた日本史の裏側の分析を進めてみたいと思います。お楽しみに!
投稿者 tano : 2013年06月18日 TweetList
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