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2013年06月12日

伽耶を知れば古代日本が見える7~天皇制の真髄: 私権原理を共認原理風に取り入れた制度

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<日本書紀で捏造された初代『神武天皇』> 
みなさんこんにちは、伽耶シリーズもいよいよ終盤になってきました。
今回は伽耶人と百済人が生み出した日本の『天皇制』について扱います。
日本を語る上で避けて通れないのが天皇制です。しかし、日本国はこの制度によって誕生し、天皇制によって今日まで(例え戦争で負けても)永らえてきたと言えます。
これまで多くの知識人が天皇制について語り、批判も含めて議論してきましたが、国の根幹であるこの制度を疑ったり、否定する事はほとんどありませんでした。或いは否定した途端に言論界から抹殺され、論説も公表されませんでした。
さて、今回伽耶を追求する事で見えてきたのが、この天皇制は渡来人が支配する為に作られた制度であるという事です。しかし、支配する上で通常であれば武力に通ずる力の象徴物を設定するのですが、なぜこのようなややこしい制度を作ったのだろうというのが最後の疑問です。今日はこのあたりを解明していきたいと思います。

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天皇制が生まれる前夜
このシリーズでこれまで明らかにしてきたように、新羅+高句麗に追われ、はじめは伽耶人が日本列島に渡来。続いて同様に追われた百済人が渡来してきます。
当初は、新羅+高句麗への対抗の為に団結した伽耶人と百済人でしたが、新羅が朝鮮半島をほぼ統一すると本土奪還を諦め、今度は互いに日本列島の主導権を巡り豪族達の争いが頻発します。
その始まりが蘇我氏(百済)を暗殺した『乙巳の変』(645年)です。
その後、7世紀中頃に中国を統一した唐が勢力を強め、さらに白村江の戦いで勝利し日本をまさに飲みこまんとする中、日本国内は渡来勢力で早急に一国として結束する必要がありました。また、豪族達はもう一つの問題に直面していました。それは、渡来してきた彼らが、元々日本列島に住んでいた土着民(縄文人や弥生人)をどうやって統合していくかという課題でした。対外的な外圧の高まり、国内的な統合、この大きく2つの課題に対する当時の最適の答えが「天皇制」だったのではないかと考えています。なぜそれが最適だったのかについて次に展開してみたいと思います。
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『中央集権国家の確立』と『天皇制』
前述した状況に対し危機感を覚えた藤原不比等(百済系?)は、新しい中央集権国家を目指すべく約20年かけて律令案(701年:大宝律令)を練りました。そしてその中に「天皇制」が組み込まれました。
天皇制の特徴は大きく2つです。
1.天皇は万世一系で土着の神である事(天孫降臨)
この事は、土着の民達を従えるのに大変都合の良いものでした。元々土着の民達はその土地土地に代々奉られる守り神=祖霊を信仰していました。
従って、もし豪族達が自分達の信じていた神を彼らに押し付けようとしても、それは土着民に対しては受け入れられないのです。
藤原不比等はまず最初にこれまでの歴史書物を全て焼き払い、天皇が日本に代々存在したという、捏造された歴史書=古事記や日本書紀を作る事を試みました。古事記は対国内に、日本書紀は対中国に向けて作られたと言われています。
また、地域にある神社を天皇であるアマテラスを頂点に系統立て、神社ネットワークを構築します。従って地域の神は必然的に天皇と何らかのつながりが発生するのです。
こうして、土着民の祖霊信仰を継承しつつ、その頂点の神を創作する事によって、土着民達の意識を匠に中央へ向けたのが天皇制でした。豪族達は全国に神社を建設し、大宝律令によって制定された「税」を納めさせる事に成功しました。
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2.天皇を“形式上”序列のトップに
長い間、武力闘争に辟易していた伽耶系、百済系の豪族達にとっても天皇制は機能しました。武力を背景にした覇権争いでは、常に武力を誇示し序列のトップである事を示し続けなければなりません。ましてや伽耶系、百済系は力が拮抗していますので、秩序を維持していくのは大変困難です。唐がまさに攻め込もうとしているこの時期に互いに争っている暇はありません。
そこで、武力で序列のトップを決めるのではなく、実際の権力とは別に序列の長を決める手法~いわば形式上のトップを定めることによって覇権争いを止揚しようとしたのです。さらに伽耶系、百済系の争いを避ける意味で、実権を百済が握り、形式(=天皇)を伽耶系に渡して、古くから日本を治めていた伽耶系を形上持ち上げたのです。
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    <天武天皇>
私権原理を共認原理風に取り入れた制度
このように、天皇制は豪族間の覇権闘争の抑止、そして豪族と土着民の接点を作り出す上で、当時としては非常に優れた?制度であった事がわかります。では、その真髄はどこにあったのでしょうか?
天皇制を語る上で重要なのが、日本の天皇制は世界中どこにもないという事です。これは日本ならではの制度なのではないでしょうか?
つまり、元々共認原理で集団統合し、渡来人が支配して以降も連合国家という形態を採ることで争いではなく話し合いや、古墳つくりで争いを止揚してきた経緯があります。
ところが、唐、新羅の大陸、半島での巨大勢力に対抗するため、何としても急速に国家を作る必要があり、強烈な外圧にさらされて、体制つくりから国力増強、多くの課題が集まりました。既に半島で唐や新羅の戦線を知っていた彼ら(百済や伽耶)は相当な焦りと共に知恵を結集したのです。その結果が中国風の中央集権と日本独自の天皇制でした。
これによって豪族間の秩序は明確になり、序列闘争は止揚。
さらに土着民を国の体制に組み込み、意識を統合していきます。
「和を以って尊しと成す」は架空である聖徳太子の言葉ですが、まさに天皇制を執った渡来人の意識はここに現れていると言えるでしょう。
「天皇制」の真髄とは日本に馴染みのない序列原理を共認原理風に取り入れたと言えると思います。言い換えれば、渡来人たちは力の原理ではない、ごまかしの原理で急場を凌いだのです。
そして日本は建国時にできた天皇制を後の時代も引き継ぎ、その時々の外圧や矛盾を解消するいわば緩衝制度として使ってきました。

天皇制の限界と次代への天皇制
このように日本史を通じて一定機能してきた『天皇制』ですが、現代における意味はどうなのでしょうか?
やはり和平を重んじる日本人には無くてはならないものなのでしょうか?
特に戦後においては、日本人にとって『天皇制』は無くても困らないものであるが、無いとどこか不安な気がするというレベルで温存されてきました。
おそらく『天皇制』が無くなると秩序が乱れるのでは?という意識なのだと思っています。
しかし、『天皇制』はあえて必要ないと考えています。
理由は以下の2点です。
1.序列原理と共認原理の穴埋めはもはやいらない
貧困が消滅し、社会の序列体制が次々と崩れ、企業をはじめ序列原理に変わってどう統合していくかを模索している現代。もはや純粋な共認原理の社会を探索していくというのが、各企業はじめ日本に課せられた課題です。
つまり、序列原理と共認原理の穴埋めはもはやいらなく、純粋に共認原理を追求する時代に入ったからです。
2.『天皇制』は事実に立脚していない
もう一つは、天皇制は事実に立脚していないという点です。
共認原理で統合された社会では、誰もが認める事ができる事実が生命です。
ところが、『天皇制』は前述したように捏造された歴史(日本書紀)をベースに作られている為、誰もが認められるものではないのです。
かつて混沌とする日本に秩序をもたらしたのは間違いなく『天皇制』でした。
しかし時代が変わり、事実をベースに作り上げるこれからの社会にとって『天皇制』は必要ないと考えています。もちろん天皇制を即廃止するという事ではなく、事実を基にした共認形成の基盤が整えば必然的に不要になってくる、そういう位置にある制度だと思います。

投稿者 shinichiro : 2013年06月12日 List  

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