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2013年04月30日

東にあった「もう一つの日本」~3.高句麗の残影に怯えた朝廷(大和朝廷と関東日本国の関係)

前回の2つの記事では縄文から弥生時代にかけての関東地方を見てきました。
今回は、大和朝廷の時代へと先に進めます。
東にあったもう一つの日本の存在をこのシリーズで明らかにしていく事が本命題ですが、その解明は次回に送り、今回は同時期に西側で成長していた大和朝廷と、実際あったであろう関東日本国との関係を見て行きたいと思います。(関東日本国という命名は仮にさせていただいております。関東にあった古代国家は日高見国などと呼ばれる事もあり、学術的に認められている名称ではありませんので予めご了承下さい)
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赤城山の遠景~こちらからお借りしました。
大和朝廷は4世紀出雲に入植した高句麗が作った国=出雲国に対抗する形で当時の畿内勢力、備前勢力を結集して連合国という形で誕生します。出雲との睨み合いが1世紀程続きますが、大型前方後円墳を林立させ、その勢力において出雲を圧倒します。
高句麗は同時期に新潟から群馬県に入植します。その後、埼玉まで行き、作ったのが稲荷山古墳です。
大和朝廷は主に伽耶系渡来人が仕切ったものと思われます。この辺りは別のシリーズで詳しく展開しますが、概ね誕生時は伽耶系渡来人が西日本の主要な地域を押さえ、豪族として成長していきます。それら豪族間を仕切っていたのが葛城で崇神天皇を伽耶から呼び寄せ、後に入り込んだ秦氏を古墳造営の先陣部隊として各地に派遣し、勢力の拡大と情報収集を行なっていました。
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【東国侵略の始まり~助走期】
当然、東で起きている高句麗の動きも入ってきます。高句麗は群馬県の毛野地方に馬を入れて牧場を作り、地場の縄文人を使いながら次々と古墳を造営していきます。前方後方墳の時代です。4世紀、崇神天皇の2代後である景行天皇の時代に始めて東国への視察部隊を北陸から東方諸国(おそらく関東、新潟辺り)に送り込みます。
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毛野地方の埴輪~こちらからお借りしました。
以下、四角囲みの中は対蝦夷政策史略年表より抜粋した史実です。

景行25年:景行天皇、武内 宿禰に北陸・当方諸国を偵察させる。武内 宿禰は2年後帰還して日高見国の住民蝦夷のことを報告、攻略をすすめる

景行40年:東国の蝦夷が謀反し、日本武尊を派遣。大伴武日連・吉備武彦が従う。尊は駿河・相模を経て上総から海路陸奥国に入り、蝦夷を平らげた後、日高見国から常陸を経て甲斐国に至る。
甲斐酒折宮で武日に靫部を賜る。武彦を越国に派遣して監察させ、尊自らは信濃国に進入、美濃に出て武彦と遭遇。のち尾張を経て伊勢に入り、蝦夷の俘囚を伊勢神宮に献る

景行天皇は景行25年に視察部隊を出し、さらに15年後に関東を攻め入ります。東国の蝦夷の謀反はあくまで正当化の為の嘘の史実で一方的に攻め込んだのでしょう。
この記載で注目すべきは大和朝廷が東国を攻める際に必ず人質(蝦夷の俘囚)を取り、それを伊勢に幽閉したという史実です。
伊勢神宮は後に大和朝廷の拠点になっていきますが、この伊勢の地は当初、東の勢力を閉じ込める特別な地であったという事がわかります。その幽閉した忌まわしい地に朝廷の守り神を置いたという事もいかに大和朝廷が東を意識していたかが伺える事象です。
【拮抗した朝廷と関東日本国】
さて、時代を進めましょう。
4世紀後半には東北地方に前方後円墳が登場します。これは既に先の派遣を起点に大和朝廷が東国への進出を始めている事を示します。しかしすっぽり関東を越えて東北に拠点を作ったという事が、関東日本国の存在を示しています。
4世紀から6世紀末までの約300年弱は関東日本国と大和朝廷は牽制をしあい、この間での目立った戦闘は記録されていません。唯一あるのが雄略天皇期の471年稲荷山古墳に贈られた鉄剣であり、これは朝廷が贈り物をして関東日本国の存在を同格と認めていた事を示します。
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東北最大の前方後円墳「雷神山古墳」こちらよりお借りしました。
【朝廷の侵略再開】
力関係が動いたのが6世紀末、敏達天皇期です。581年にあった下記の記述は関東日本国の中核にある毛野に進出し、大きな戦争が行なわれた事を示しています。そしてその結果は朝廷への忠誠を誓盟という事から降伏したと考えられます。

閏2に 蝦夷数千、辺境に寇(あたな)う。天皇は魁帥(大毛人)アヤカスらを召して主謀者の誅殺を宣告。アヤカスは泊瀬川で三輪山に向かい水をすすり、朝廷への忠誠を誓盟します

しかしその後、朝廷軍の敗走も書かれており、この時期、一進一退の攻防が繰り広げられていたと思われます。

この年、蝦夷が叛き、入朝せず。上毛野形名を将軍として派遣。はじめ朝廷軍は敗走するが、形名の妻の知略により蝦夷が退却する間、軍を再整備して討伐に成功。虜囚多数

朝廷はこの後、百済から来た蘇我氏によって全国に朝廷の拠点を置き、中央集権の政策を推し進めます。蘇我氏暗殺後、再び伽耶系の天皇、斉明天皇が2度目の天皇に任命されますが、この時にかなり派手な東国遠征が企てられます。阿部比羅夫が東北地方に遠征し、蝦夷を征圧しますが、東国の中心であった関東には足を踏み入れていません。

国守阿倍比羅夫、船軍を率いて蝦夷を征討。齶田(秋田)・渟代(能代)の蝦夷、降伏。齶田の蝦夷恩荷(おが)を能代・津軽2郡の郡領に定める

さらに注目すべき事は斉明天皇の初年になんと東国から200人の蝦夷を大阪に呼び、饗応をし、冠位をさずけているという事です。斉明天皇は大変な外交家で東国をいかに組み込むかに政策の中心があった事が伺えます。この斉明時代に有名な白村江の戦いが行われその中に蝦夷の軍人も多く含まれていました。

難波で北(越)の蝦夷99人・東(陸奥)の蝦夷95人を饗応。柵養の蝦夷9人と津刈蝦夷6人に冠位を授ける。この年、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、献物。

【関東日本国が朝廷の支配下に】
朝廷が明確に関東日本国を組み込んだのは奈良時代以降です。同様に東北を攻めるのですが、既にその時に毛野から兵を供給している事から、関東日本国はこの時代には朝廷内に組み込まれていたことを示します。

709年:3陸奥・越後の蝦夷が良民を害するため、遠江・越前・越中などから兵士を徴発する。巨勢麻呂、陸奥鎮東将軍ー佐伯石湯、征越後蝦夷将軍ー内蔵頭紀諸人、副将軍ー蝦夷征伐出発。上毛野安麻呂、陸奥守、蝦夷征討のため、諸国兵器を出羽柵に運送させる。

【侵略年表】
さて、これらの時代経過を簡単に書いてみます。
4世紀初頭:関東に高句麗到来、関東日本国を立てる
情報を聞き入れた朝廷は偵察、東国戦略が課題になる。
東北地方に朝廷の拠点を作り、関東を睨む。
4世紀後半:朝廷による初の関東侵略。朝廷の存在を知らしめるのと同時に捕虜を伊勢に幽閉する。
5世紀~6世紀:朝廷と関東日本国は並存。雄略期に朝廷から贈物をする。(鉄剣)
6世紀末:朝廷と関東日本国との激しい戦争
7世紀中:朝廷の東北進出。但し中核関東は外す。
(空白期)
8世紀初頭:毛野を含めた関東日本国は朝廷の支配下に。
毛野から兵を出し、東国蝦夷を征伐。以降100年間ほど蝦夷征伐が続く。
【朝廷は何に怯えていたか】
朝廷と関東日本国の関係が決定的になったのは空白期の7世紀中から7世紀末にあります。
この時期に何があったか、
百済滅亡であり、高句麗滅亡です。また、新羅が半島を統一し歩を併せて日本では日本国として天武天皇が建国しました。
朝廷は唐、新羅の外圧を前に急速な国家統一の必要性を感じていました。同時に恐ろしい高句麗の支配下にあった関東日本国の親玉が滅亡したのです。この時期に一気に東国を組み込み服属させたのでしょう。前方後方墳は前方後円墳に変わり、既に本国の後ろ盾を失っていた関東日本国は形上は服属という事になって朝廷の下に組み込まれていきます。
しかしその後の蝦夷討伐が国内の戦争としては規模が大きく長きに渡った事から、関東日本国の残党は残り続け、また朝廷もその残影に怯えながら、執拗に武力圧力を加え続けたのです。
そういう意味では朝廷は最後まで高句麗=関東日本国に対して、脅威を自ら作り出しており、それは裏返せば、朝廷の母体である伽耶と高句麗の半島内での攻防、力学のトラウマ的表出だったのではないかと見ています。
%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E6%AD%A6%E4%BA%BA.jpgこちらよりお借りしました。

投稿者 tano : 2013年04月30日 List  

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コメント

お笑い
出雲では近畿産の辰砂を使った墓がもっと古くから確認されており、その後大和勢力が朝鮮半島に進出し、4世紀高句麗と朝鮮半島で戦ったのは、高麗側の記録からも明らか。

新羅も高句麗と敵対し、日本と組んでいた(100年くらいで独立)のだから、高句麗勢力が日本に入って好き勝手するなどありえない。
そして関東の馬は、新羅を通じての技術導入、高句麗ではない。
関東には弥生時代から続く勢力が存在し、3世紀時点で60万人と推定されている。
ごく一部の移民難民を、戦に強い高麗と迎え入れたらこれか。

投稿者 匿名 : 2017年7月30日 22:54

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