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2008年11月07日

謎の大王、継体天皇を解く。

こんばんわ。7世紀の解明に続いて6世紀に移ります。6世紀と言えば継体天皇の時代です。
るいネットでも続々と投稿が続いていますが、このブログでも継体分析をしていきたいと思います。
継体天皇の出自と彼を取り巻く豪族の勢力争いについてまとめていきたいと思います。
ここでは最近読んだ黒岩重吾の「古代史の真相」を参考にそこから引用して書いていきます。黒岩氏はさまざまな諸説を総合して分析されており、かなり信憑性の高い分析を書かれています。
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まずは継体天皇登場前夜の状況です。
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ここからは古代史の真相から抜粋します。
前夜の状況とは5世紀の大和の政治状況です。

5世紀は仁徳王朝を継いだ大王雄略をもって断絶したと考えられます。
雄略の後、清寧、顕宗、仁賢、武列と継体が王位につくまでに4代いたことになっていますが、これらの人物がいたことは疑わしく、存在したとしても権威のない稀薄な存在の大王だったでしょう。野心にとんだ雄略は専制君主たらんとして奔走し、中央集権化に努めたが挫折した天皇です。後継者を殺しすぎて跡継ぎがいなくなったとさえ言われています。
雄略は中国の書籍によれば6世紀初頭まで生きていた可能性がありますが、古事記で書かれている489年までは雄略は生きていた可能性があります。雄略亡き後はここぞとばかり豪族が勢力争いを始めました。
その頃の大和から九州は以下の情勢でした。
大連の物部は八尾から斑鳩あたりまで勢力を拡大しています。同じく大連の大伴は摂津の住吉を本拠地にして大和の磐余まで進出。5世紀末に出現した臣姓の豪族、蘇我、巨勢が大和の南西部を押さえます。三輪は大和の東南部を本拠地に、少し北に穂積がいました。また蘇我の西よりには蘇我に滅ぼされた葛城の氏族がいました。当然、領地をめぐって豪族同士の争いが起こり、九州では磐井が北部を制圧し大和への進出を窺っている。一種の混乱期です。
そうこうするうちに大王の必要性が認識されはじめた。大王位が空白であれば大王候補を巡って豪族間に無用な疑心暗鬼を生むし、朝鮮半島との交渉にも大王不在では権威がない。ましてや雄略期の大連である大伴や物部は大王と共に勢力を拡大してきた豪族だけに押し立てるべき大王がいなければ頭打ちになってしまいます。

ここで問題なのが5世紀の大王がそれほどの権威があったのかということです。

権威が高かったという説もあるけれど、実際は物部、大伴、葛城、平群などの豪族達が支えた倭連合政権であり、大王はその上に乗っかっていたに過ぎない。
書紀でも大王を迎えに行ったのは大伴金村であり、仮に代表格で迎えにいったにせよ、大伴の意向が強く反映したはずです。大王の空白期に、豪族の力を得て大和入りしたのが継体天皇という見立てです。

次に継体天皇の出自です。

継体天皇は書紀では応神5世の孫で彦主人王の子であり、母親は垂人の7世の孫の振姫となっています。継体天皇である男大迹は母親の振姫が越前三国の高向に連れ戻って育てたとされており、高向は現在の福井県丸岡町と思われます。
丸岡の近くには4世紀から6世紀にかけて次々と古墳が築造され非常に強い勢力を保持していました。この振姫については坂口忠氏は渡来人であるという説を唱えており、加羅から来た王族の娘と推測されます。なぜかといえばこの丸山の六呂瀬山古墳群から同時期の朝鮮半島南での冠帽が出土しています。
また越には角のある王冠をかぶった加羅の王子率いる集団が渡来している記録もあります。
通常、交易の絆を強め維持するには相手国の有力者と婚姻関係を結ぶ事はこの時代の通例です。
また継体は父親を通じて近江国坂田郡の有力氏族と結ばれているわけですが、その氏族が息長氏であることがほぼわかっています。
結論的には継体天皇は父方は雄略の母方に繋がる息長氏系、母方は伽耶の血を引く高向氏ということになる。ただ父方まで断定することは保留にしておきます。

では畿内の豪族達がなぜ継体を担ぎ出したのか?
黒岩氏は4つの理由を取り上げます。

①雄略天皇の母親が男大迹の血縁者だったので、大義名分が立ちやすかった。
②男大迹は多くの地域の豪族と婚姻関係をもっていた。
男大迹は記録では妻9人、子女21人をもっています。その範囲は畿内の尾張氏、近江の息長氏、越前の三尾、淀川水系の茨田、大和北部の和にの臣、さらには北陸を押さえる阿部氏とも婚姻の繋がりがあります。大和入り直前で結ばれた娘は手白香でその子供はその後29代欽明天皇になっています。
③継体は朝鮮半島との交易に長けていた。
これについては母親、振姫の影響が大きいと思われますが朝鮮半島との巨大な交易網を当時形成しており、財宝を蓄えた今で言う大経営者でもあります。国内での婚姻も水路関係を押さえている海人族の娘達と婚姻しています。つまり振姫も含めた男大迹の勢力は、かなりの力と野心をもっていたと思われます。
④九州の磐井勢力の急速な進出が畿内の豪族に危機感を与えた。
男大迹を擁立したのは大伴金村です。これに物部が追随したのに対して平群は反対、蘇我は中立を保っていました。他にも反対勢力は多くいたでしょう。男大迹が畿内に入るまでに長い期間を要したのはそれらの豪族間のつば競り合いがあったからだと思われます。
その男大迹が畿内に入れたのは磐井の存在です。

大和に入った526年の磐井は北九州を制圧し新羅と盛んに交流している勃興期でした。
この磐井に朝鮮と交易する為の瀬戸内海関門ルートを押さえられてしまえば畿内は干上がってしまう。そこで畿内の豪族は男大迹を大和に迎えて団結し、磐井打倒に向かうわけです。瀬戸内ルート開放という一点で畿内豪族の利害は一致したのです。
つまり、磐井の乱は継体の意思だけでなく、大伴、物部、蘇我、巨勢らの豪族の総意として九州に出兵したのでしょう。
裏返せば、磐井にとっては越の男大迹が畿内に入ったということは、九州の王である自身の勢力でも畿内に入れると思ったかもしれない。
(私は九州の王朝であった磐井はすでに近畿の大和に圧力をかけ始めいたのだと思います。磐井の乱はそれを察知した物部勢力が豪族をまとめて九州に先制攻撃をしかけたのではないかと思います。)

継体天皇はどのような軍事氏族を伴っていたのか?

大伴が担ぎ出したとしても実質的には男大迹自身が強力な軍事豪族と繋がっていなければ畿内まではとても入れません。男大迹は護衛役として軍事氏族を伴っていたはずです。
日本書紀には書いていませんが、越から男大迹をガードして大和に入ってきた軍事勢力は阿部氏ではないかというのが私の説です。さらに若狭に拠点があった膳(かしわで)氏でしょう。
阿部氏の出身は越と思われるものの謎に包まれた豪族です。アへといった大王家に食事を供する一族みたいなことを言われるが、阿部というのは後の大化改新の時の右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と並んで政界で活躍した軍事氏族です。この阿部氏の特徴は絶えず北陸の蝦夷の経営に当たっているということです。特に斉明朝では蝦夷と戦っています。
蝦夷の首長が降伏すると彼らに位を与え、配下に納めていきます。阿部は蝦夷の住む土地の地理、言葉、習俗に精通した氏族であった可能性があります。

以上が黒岩氏が継体天皇について言及した内容です。今後の六世紀分析の材料にしていければと思います。

投稿者 tano : 2008年11月07日 List  

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