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2007年01月01日

日本の私権国家への道すじ(3)

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明けましておめでとうございます。 😛 くまなです。
今年もみんなでブログを盛り上げていきましょう
突然ですが、1年は、なぜ冬のこの時期に始まるのかご存知ですか?
古代メソポタミアでは1年のはじまりは春分の日でした。すべてのものが生まれ出るからです。古代中国では冬至の次の日や立春を1年のはじめとしていたようです。日本も江戸時代までは中国の影響で立春が1年の始まりでした。農耕⇒豊饒⇒自然への期待が込められています。
1年のはじまりをいまの1月1日の時期に決めたのはローマ帝国で、この時期にあたる神様が一番偉かったからだそうで、自然より観念統合を重視したようです。日本も明治以来、この時期が正月になったようです。⇒参照
***
さて、日本の私権国家への道すじ(3)です。
前回は、前3世紀、天孫族(アマテラス)と箕子朝鮮(スサノオ)を紹介しました。
天孫族は南朝鮮経由で渡来しているので、箕子朝鮮は天孫族と同族あるいは近縁であると考えられます。箕子朝鮮は殷(商)人の末裔と考えられていますので、北方の遊牧民と混血している可能性が高く、遊牧系の天孫族とは服属・嫁派遣等により混血している可能性が高いと思われます。ですから、古事記・日本書紀ではアマテラスとスサノオは姉弟とされているのでしょう。
今回は前2世紀からはじめます。
このあたりの時代は未だ古事記・日本書紀等に描かれた神話世界です。
神話は支配者(勝者)が自己を正当化するために作ったもので、創作物ですが、
事実無根のつくり話ではなく、事実が基礎にあるというスタンスに立っています。
↓さて、さて本題です。

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前154年、中国では呉楚七国の乱というクーデターが起きます。
3ヶ月で失敗し、反乱諸氏が自殺・逃亡を図ります。
図:前漢初期から呉楚七国の乱ごろまでの前漢帝国
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(ウィキペディアさんからお借りしました)
このとき渡来した人々がつくったのが吉野ヶ里ではないかと思われます。
発見された遺骨は江南人に似ており、絹は江南に飼われていた四眠蚕の絹であることがわかっています。⇒リンク
中国の「漢書」でも当時の倭が江南地方と関連があったことを示唆しています。
吉野ヶ里近くの土生(はぶ)遺跡などでは朝鮮系の牛角土器が出土しており、中国系部族と朝鮮系部族の緊張関係が想像されます。⇒リンク
吉野ヶ里をつくったのがクーデター崩れの部族なら、警戒心は強く、物見やぐらや環濠を築造してもおかしくありません。
■吉野ヶ里の環濠
slide0038_image024.jpg
リンク
時は倭国大乱前夜です。
各方面から渡来した部族がひしめき合い、緊張圧力が高まっています。
記紀に示された数々の争いの前哨戦としてアマテラスとスサノオの攻防がありますが、ちょうどこの時期の状況と重なります。
一説には、朝鮮系部族が吉野ヶ里の中国系部族を包囲し、滅ぼしたとの見方もあります。⇒リンク
そう考えると記紀の記述は、当初は協力した天孫系部族が仲間割れし、敗れたスサノオは出雲国へ引き下がったという読み方もできます。
前108~107年に漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島を植民地化します。
このとき大量の天孫族系の人々が渡来したと考えられます。
それが、アマテラスとスサノオの対決で生み出される神々ではないでしょうか。
同族の逃亡者たちを組み入れて戦ったということです。
それら部族(天孫族系)の日本進入のルートが松浦半島(長崎)~筑後川(佐賀)~御井(久留米市)(⇒リンク
となれば、吉野ヶ里との接触は不可避です。吉野ヶ里の数千を数える人骨(一部に武器が刺さっているものあり)は、その結果を表わしているのでしょう。
そして、この頃の中国人の目に映った「倭国」には100余国あったと『漢書』に記されています。
今日はここまで、次回はいよいよ倭国大乱から邪馬台国です。
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投稿者 kumana : 2007年01月01日 List  

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