日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史7 中国の朝貢制度とは |
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2011年08月18日
属国意識の源流を辿る3~日本の属国意識を決定付けた白村江での大敗北
古代から中世に掛けての極東アジアは、大国である中華帝国が中心となって歴史が動いてきた。もちろん日本列島もその呪縛から逃れられなかった。
今回は、弥生時代から平安時代初期までの日本列島の歴史を中国大陸・朝鮮半島との関わりから概観し、日本支配者層の「属国意識」の源流とあり様について考えてみたい。
中世日本の支配者層に中国への属国意識を決定付けたのは、「白村江の戦い」である。圧倒的な戦力を持った唐帝国・新羅に、無謀にも挑み大敗した結果、日本の支配者層の属国意識は決定的となった。
なぜ、無謀にしか思えない戦いを挑んだのだろうか?そこに至る過程を追ってみたい。
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■大量の渡来民を受け入れていった時代
紀元前8世紀(2800年前ごろ)、中国で周王朝が滅亡し春秋戦国時代に入る。この頃から大陸の江南地方の難民(倭族)が日本列島に流れ着く。紀元前4世紀頃(2400年前)から稲作が普及し、いわゆる弥生時代に入っていく。この頃は、水田稲作や絹生産などの技術が、渡来民と共に日本にやってきた。渡来民の数が増え、勢力が増すと共に、当時の先端技術も広まっていった。
■中国大陸の統一
朝貢⇔冊封体制の確立
紀元前3世紀(2300年前ごろ)には戦乱が続いた中国大陸を秦→漢が統一する。中央集権体制の国家が東アジアに登場した瞬間でもあった。この秦の統一によって江南地方(呉越)の難民が、日本列島に大量に押し寄せた。
中国大陸に巨大な帝国(秦→漢)が登場したことを受けて、侵略を恐れた周辺諸国の王は、中国皇帝に貢物を持たせた使節を派遣(朝貢)、中国皇帝はその見返りとして支配地域の首長として認定(冊封)するようになっていく。
当時の漢帝国にとって、最大の脅威は北方のモンゴル高原の匈奴や鮮卑などの遊牧騎馬民族であり、彼らとどう対抗するかが、外交上の主要な課題であった。
また内政においては、春秋戦国時代を通じて流入した遊牧民族や流民化した農耕民族の部族長などを、どう支配下に置き続けるかという重要な課題があった。
そこで、中国皇帝も周辺諸国からの「朝貢」と諸国への「冊封」という体制を積極的に利用する。朝貢に来た使節団を過剰にもてなすことで、内政上のパフォーマンスとして使い、帝国内部の部族長に皇帝の威光を知らしめ、支配を正当化した。
■過大な評価を受けた日本列島の地方豪族
その一方で、日本列島(卑弥呼)や西域(大月氏)には「親魏倭王」の称号を与えることで、東西の外交上の憂いを軽減し、対北方(対遊牧騎馬民族)政策課題に集中する。また、日本列島などには製鉄技術をもった技術者や鉄の原材料を送り込み、中国皇帝の支配下にある周辺国の国力を増強させる手を打っていく。日本列島の縄文人・弥生人は、中国大陸からの渡来技術者を積極的に受け入れ、国力を増強させていった。
※有名な『漢委奴國王印』や『親魏倭王』などに代表される金印を皇帝から授与された周辺国は少ない。当時の日本の国力から考えても、授与されたのが地方の豪族程度だったことから考えても、余りにも過大評価であった。
■中国大陸の戦乱→日本列島独自の体制を模索
1700年前ごろから、中国大陸は戦乱時代(三国時代→五胡十六国時代→南北時代)に入っていくが、日本列島では外交ルートを一本化した大和政権が九州勢や東日本勢を取り込んでんでいく。
特に6世紀以降(継体天皇以降)は、
・鉄の自給政策が軌道に乗り始めた
・伽耶・任那や百済の亡命王族を受け入れた
・中国大陸が戦乱に明け暮れていた
これらの結果、中国大陸の国家を対等に見る視点が形成されていった。
これを象徴しているのが、聖徳太子による隋皇帝に対する「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書だということになる。
■朝鮮半島からの亡命王族にそそのかされて始まった白村江の戦い
当時の日本列島には唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済や高句麗の亡命王族が大量に渡来しており、彼らが大和政権の豪族連合の中でも大きな力を持っていた(蘇我氏、藤原氏)。日本列島に逃げ延びた彼らは、唐・新羅への反発心から、大和政権の他豪族や天皇をそそのかす。それに乗った大和政権は、朝鮮半島に攻め込んでいく。いわゆる白村江の戦い(663年)である。
しかし、至るところ敵なしであった当時の唐に対抗できるはずも無く、陸戦でも開戦でも日本軍は大敗北を喫してしまう。
■白村江での大敗→歪んだ属国意識の登場
白村江での大敗以降、日本は急速に防衛強化・内政固めに入っていく。具体的には北九州の防衛線を強化し、唐の中央集権体制を模した律令制へと転換していく。(ここにはもちろん、新羅系の天武天皇の影響もあった)
しかし、日本で導入された律令制が、その後急速に形骸化したことからも分かるように、唐への恭順の意を示すものとして「律令制」は導入された。つまり、肥大した自尊心を挫かれた日本は、ひたすら唐の目を伺い、「属国として振舞った」。遣唐使を送る(朝貢する)一方で、形の上ではひたすら模倣することで、更なる侵略を回避しようとしたのである。
※このような属国意識(≒隷属意識)のあり様は、明治維新~太平洋戦争前後とそっくりである。
しかし、朝鮮半島とは違って、直接接していたわけではなかった日本列島は、中国大陸が混乱に陥ると一定の距離を取り、影響を極力薄めることが可能だった(894年 遣唐使の廃止)。
これらの結果、中国大陸に対して、「国力では到底適わない」という状況認識と、「いつかは反転攻勢に打って出る」という願望が同居する=面従腹背の属国意識が形成されることになる。
(ないとう)
投稿者 staff : 2011年08月18日 TweetList
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